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スラムに王は生まれる  作者: 田中
第一章
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第二九話 正義の行方

 銃を撃ったその手には、震えが残っていた。それはただの反動ではなく、初めて人を撃ったという事実からの震えだったのだろう。

 御口は、バイクに跨り、ハンドルに両肘を突き、項垂れた視線の先には舗装の割れ目が見える。

 そこに正義と呼べる線があるのかどうか、御口には判別できなかった。


──俺は正しい。正義を執行した。だが……反撃すらしない人間を撃つことも、正義なのか。


 いつの間にか日は傾き、夕焼けが御口の体を照らし、影が長く伸びている。

 夕焼けの、血染めかのような赤が街を染めていく。それはまるで、最後に見たイスナの瞳のような、赤色だった。

 街を覆う赤は、御口の思索を、肯定も否定もせず、ただ全てを染め上げていく。御口の迷いすら、夕焼けは裁かない。


 普段なら耳に届くはずの鳥の声も、道を行き交う雑踏の気配もなかった。

 まるで一音ずつ、この世界から削ぎ落とされていくように。

 学校から帰る子供たちの笑い声も、主婦たちの井戸端会議も……残されたのは、夕陽に焼かれた御口ひとりだけだった。


 結局一度しか使わなかった黒いヘルメットはタンデムシートに乗っている。

 まだ誰かが生きて座っていたかのように温もりを残すヘルメットは、彼の正義が奪った命を否応なく思い出させた。

 胸が焼けるように熱く、それでも彼は繰り返した。──これは正義だ。だが、人を撃ち殺すことが正義なのか。

 子供を守って殉職した狭山巡査部長の姿が、銃弾に撃ち抜かれたイスナに重なったのだ。


「俺は、正しいことをした」


 それは、震えを帯びた声だった。自分では泣くつもりなど無いのに、声だけが裏切った。


「俺は、正しいことを──したんだ」


 その言葉は、夕焼けに溶けていくこともなく、ただ荒れた地面に吸い込まれて消えた。

 誰も聞かず、誰も肯定しないまま──。

 朽ちた教会の中からはなんの音も聞こえてこない。

 東雲凍砂は死んだのだろうと、御口は思う。それはそうだ、御口は心臓と肝臓を撃ち抜いたのだから。


 まるで火事現場から救い出された猫のように、口を開けて呼吸を繰り返す。

 スーツの袖で目元を拭う。オーダーメイドのイタリアブランドのスーツは布地が柔らかく、こんな時でも目を痛めず、御口はその場違いな安堵に、喉がひとりでに笑いをこぼした。


 御口は黒いヘルメットを取り、近くのごみ収集所へと置く。一度しか使っていない、傷一つ無いヘルメット。その光を反射する黒色が、イスナのジャケットと重なった。

 それはまるで、イスナを葬るために置かれた唯一の墓標だった。


「じゃあな、名前も知らないスラムの王」


 御口の言葉に答える者は無い。

 その名を呼ぶこともなく、呼べることもなく──御口はただ、警官として別れを告げた。

 バイクのアクセルを捻ると、大型バイクのエンジンが唸りを上げる。それはイスナへの鎮魂歌──御口自身が奏でる最後の旋律のようだった。


 一気に加速するバイクに、風圧が頬を打つ。

 その熱に溶かされるように、御口の頬を伝った一粒は、汗か涙か、自分でも分からなかった。


 皇都・中央地区にそびえ立つ、石のように無機質な巨塊……警視庁の建物が視界に迫る。

 その巨大な庁舎を前に、御口は胸の奥で小さく「着いてしまった」と呟く。

 それは重責を果たした者の安堵であり、長い一日を終えた男の率直な疲労の響きだった。

 駐輪場へバイクを停めてエンジンを切ってから降りてチェーンを掛ける。

 警視庁の駐輪場からバイクを盗むような馬鹿はいないだろうが、念の為の行動だった。


 本庁の前に立っている警備員に警察手帳を見せて中へ入る。


「今日、織部警視はいるか?」


「ああ、警視なら執務室にいらっしゃいますよ」


 その言葉に、御口は軽く敬礼をして織部の部屋へと向かう。

 リノリウムの床は、先程まで足を取った砕けた石畳とは違い、革靴を規則正しく受け止める。

 革靴がリノリウムの床を叩く硬質な音が、白い廊下に規則正しく響いていた。それは、彼の日常そのものだった。


 白い壁に、同僚の視線がちらりと向けられる。羨望の色すら含まれていたが、御口はそれに気付かなかった。

 自分が御口家に生まれたことが、どれほど大きな意味を持つかなど考えもしない。

 正義を尽くす者が評価されるのは当然のことであり、そこに特権も偶然も存在しない──御口にとって、それは世界の(ことわり)に等しかった。


 御口が織部の執務室の扉を三度ノックする。

 部屋の中から軽い衣擦れの音が聞こえてくるのが、部屋の外にいる御口にも分かった。


「御口鯆警部補です、入室してもよろしいでしょうか」


「ああ、入れ」


「失礼します」


 織部からの入室許可に御口は一歩足を踏み入れ、きっちりと敬礼を行う。


「休んで構わない。それで、首尾はどうだ」


 織部の声は氷のように淡々としていた。

 対して御口は胸を張り、自然と誇りがにじんだ声で口を開く。


「小官は──任務、完遂いたしました」


 織部の言葉に、御口は足を肩幅に開き後ろで手を組む。


 御口はゆっくりと息を吸い込み、そして再び口を開く。

 まるで少し逡巡するように、御口の唇は僅かに戦慄く。


「死亡まで確認済、遺体は見つからない場所に置いていますので、貧民窟で暴動が起きる可能性は極めて低いかと」


 淡々とした声の底には、正義を全うした誇りと、初めて人を撃った痛みが入り混じっていた。

 しかし、織部にはそんなものは関係無い。その報告にただ頷き、窓辺へ歩み寄るとブラインドの隙間を指で押し広げる。

 視線の先に広がるのは、皇都中央地区の片隅にある小さなスラム。

 織部はそれを、まるで標本を検分する学者のように冷ややかに見下ろしていた。


「そうか、お前も正義にじゅんじたか」


「はい、勿論です織部警視」


 その返答に、御口は胸を張り、呼吸すら大きくなった。人を殺した痛みも痺れも手の中に残っていた。けれど、それ以上に正義を執行したという誇りが心を燃やしていた。


「そうか。……ご苦労だったな、御口鯆警部補」


 織部は静かに告げ、まるで報告書に判を押すような手つきで拳銃の安全装置を外す。

 視線ひとつ揺らさず、御口の眉間へと照準を合わせた。

 その昏い銃口が自分に向けられている意味が分からず、御口は大きく目を見開いた。言葉にならぬ声を吐き出そうと唇が震える。


「ゆっくり休んでくれ、御口鯆警視」


 短く乾いた破裂音が、白い部屋を切り裂いた。

 御口の体は音もなくリノリウムの床に崩れ落ち、二度と動くことはなかった。

 その瞳は閉じられることなく、ただ白い床を映し続けていた。


 織部はセルフォンを手に取り、短縮番号を押す。


『はい、栄口です』


「栄口警部、全て終わらせた。……片付けておけ」


『了解しました』


 冷え切った声に、栄口は短く了承の言葉を返す。

 通話が切れると、乾いた電子音が一瞬だけ残響した。


 やがて栄口とその部下が現れ、御口の亡骸を淡々と袋に押し込み、リノリウムの床を拭き清めていく。血も髪も、何ひとつ痕跡は残されなかった。


 声も記録も残されず──正義を掲げ、清廉を誇った御口鯆の最期は、ただそれだけだった。


「御口家には、貧民窟の人間との抗争で亡くなったと伝えておけ」


「分かりました」


 栄口は敬礼で応じ、死体袋と部下を伴い、来た時と同じように姿を消す。

 数分後には、まるで最初から何も起きなかったかのように、白いリノリウムの床は艶やかに磨きあげられていた。

 血痕も、髪の一本も、血の匂いすら残っていない。


 御口鯆という名もまた、この部屋から跡形なく消え去っていた。

 ただ、御口鯆は正義に殉じて二階級特進したという、捻じ曲げられた事実だけがこの警視庁に根を張るのだろう。

 両親にすら正しい死は告げられず、そしてきっと、親もその死に疑問を抱いてもその闇を暴こうとはしない。


──そうして、御口鯆はなかったことにされた。

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