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スラムに王は生まれる  作者: 田中
第一章
28/31

第二八話 光と影のあいだで

 御口が心を決めたその時、スラムの広場では、子供たちが焚き火の周りで騒ぎ、いつもの昼下がりの光景。


 焚き火の煙は風に流れ、青空にかき消されていく。根菜を刻む音と笑い声が、あまりに無防備に響いていた。


「イスナってやっぱすげーよな」


 その声を耳にするたび、シャチは胸を張りたいような誇らしさを覚える。四年前には想像もできなかった光景だった。

 その、普段通りのスラムの様子を木で造られた不格好な椅子に腰かけているだけなのに、そこは揺るぎなく玉座だった。

 イスナが腰を下ろすというただそれだけで、スラムは国になったのだ。


 そこに、表通りとの路地に近い場所へ住んでいる少年が駆けて来る。

 その足には草鞋が履かれており、きちんと麻の服まで着せられている。その全てが、イスナの作り上げたものだった。

 イスナが作り上げた全てが、彼らを獣から人間へと変えたのだ。


「またおまわりが来たよ! イスナを呼べって言ってる!」


 嫌そうなその声に、広場のざわめきが一瞬だけ止んだ。刻む手が止まり、子供の笑い声も掻き消え、焚き火のはぜる音だけが広場を支配した。


 その言葉に、イスナは椅子から立ち上がった。玉座の主が歩み出るように。軋む音が響いても、イスナは気にも留めない。

 木で造られた椅子は、シャチやサメたちが初めて作ったもののためにガタガタとしていて、座り心地も使い心地も悪かった。それにも関わらず、イスナは変わらずにその椅子へと座り続けるのだ。

 まるで、それこそが自分の玉座だとでも言うかのように。


「どんなポリ公だ」


「えっ、どんなって、多分いつもの奴だよ。表の奴の見分けなんて付かねーもん! えっと、黒い髪で黒い細い目してて、コンクリートみたいな色のスーツ着てたよ!」


 少年からの言葉に、イスナは目を細め、顎へ人差し指を当ててこの一ヶ月の間に良く来るようになった一人の警察官が思い浮かぶ。

 黒い短髪をオールバックにしてスラムへ足繁く通う、変わり者の警察官。


「分かった。飯は先に食ってろ」


 イスナはいつもの黒いジャケットを羽織り、一歩を踏み出す。

 イスナが来てからの七年間でその靴は随分と磨り減ってはいたが、彼が大切に使っているために僅かなくすみがあるだけで未だ美しい黒の深みをまだ失ってはいなかった。イスナが築いたものと同じく、磨耗しても決して揺るがぬ強さを宿していた。

 スラムの静けさに響く靴音は、誰よりも確かに王のものだった。それは確かに、イスナの足音だったのだ。

 子供たちは足音を耳にすると自然に道を空けた。


 シャチは、そんなイスナの姿を眩しそうに見つめ、そして声を上げる。


「おーさまが先に食っとけって言っただろ、早く皿持って並べ!」


 シャチの声に、木をくり抜いて作られた椀を手に子供たちが歓声を上げ、我先にと列を作り並んでいく。

 その声と音を後目に、イスナは歩を進める。表通りから入る光が逆行になり、御口の姿は良く見えなかった。

 ただ、逆光に浮かぶ輪郭だけは、揺るがぬ警察官のそれだった。


「今日はなんだ、へっぽこポリ公」


「……ついてきてくれ」


 御口がイスナへそう言い、ヘルメットを投げ渡す。その黒く光を反射するヘルメットをまじまじと見つめたイスナが、それを被り御口の大型バイクの後ろへと乗る。

 タンデムバーを握り、もう片手で御口のベルトを掴むと一気にバイクが発進する。エンジンの轟きが背骨を震わせ、風圧でイスナの視界が滲む。


 風も風景も置き去りにして走るバイクにイスナは緩く息を吐く。風が頬を打つ痛みすら、生の証のように思えた。

 御口の背中越しに見える街並みが、表と裏を繋ぐ一本の道に見えた。


 まるで、この世界にイスナも生きていて良いと言われているようだった。


 辿り着いたのは、カレルト教の教会の前だった。既に扉も腐り、天井も崩落しているその教会の前。

 バイクを停めたその場所に、イスナは目を瞬かせた。


「降りろ」


「ああ、分かった」


 タンデムシートから降りてヘルメットを外したイスナに、御口も跨っていたバイクから降りてしっかりと鍵を掛けて御口もヘルメットをバイクのハンドルへとかける。

 カチリと鍵が回る音は、まるで教会で鳴らされる鐘の音のようだった。


「こんな教会まで連れてきて、なんのつもりだ」


 普段であればこの教会の前にはイェズラムル教の宣教師がいるはずだが、今日はいなかった。

 かつて祈りの声で満たされたはずの場所に、風が笛のように吹き抜けていた。


「こっちだ」


 言葉少なに御口はイスナを招く。いまにも崩れ落ちそうな扉は、しかし軋む音を立てて開かれる。その軋む音は、祈りを失った教会の悲鳴のようだった。

 普段と様子の違う御口の様子に、イスナは目を眇め、割れた石畳の上をゆっくりと歩を進める。

 薄暗い教会の中、抜けた天井から光が差し込んでいる。イスナにはただの穴から差し込む光にしか見えないそれが、祝福のようだと御口は思う。


「どうして、こんなところまで連れてきた」


 イスナの赤い瞳が御口を貫くように見つめる。

 その眼光を正面から受け止め、御口は静かに目を閉じてゆっくりと息を吐き出す。


「正義のために、俺はお前を殺さなければならない」


 低く落ちた声が、石造りの教会の壁に反響してわずかに揺れた。

 御口の指が無意識にホルスターの縁をなぞり、吐き出した息は白くはならないのに、冷え切った空気に溶けて消えていった。


 静かな御口の言葉。

 引き結ばれた唇に、眉間に寄った皺、正義の執行者であることが見て取れる、スーツのフラワーホールに取り付けられたバッジ。

 彼の指がなぞった腰のホルスターには警棒と拳銃が差さっているだろう。


「そうか。──それだけか」


 御口の宣言にも興味のひとつすら無いイスナの言葉に、御口はイスナを正面から見つめる。

 しかし、その赤い瞳を見詰め続けることはできず、御口は視線を逸らしてしまった。


 イスナは教会の奥へと立ち、ジーンズのポケットへ手を入れている。

 そのまま、ただまっすぐに御口を見つめていた。


「お前の思想は──国家を脅かす危険思想だ。お前の存在が、国を殺す」


 御口の声は震えを帯び、冷たい石壁に反響して幾重にも自分に返ってくる。


「そうか。危険思想か、表の人間にとってはそうだろうな」


 イスナの声は穏やかで、風に撫でられた水面のように揺るぎなかった。その静けさが、御口の胸をさらに締め付ける。


「だが、それなら表の誰が救ってくれるんだ。汚水や泥水を啜り、ゴキブリや鼠すら火も通せぬままに貪り、屋根の無い場所で眠る奴らを、誰が救った」


 御口の背中に冷たい汗が伝った。拳を握る手に力を込めても、震えは止まらない。


「救えねぇだろ、誰も」


 その声は荒ぶるでもなく、まるで真実を淡々と告げるようだった。その響きが御口の胸骨を内側から叩く。


 御口は耳のすぐ側で自分の鼓動が鳴っているように感じ、思わず目を閉じる。二度、深呼吸を繰り返し──そして、腰のホルスターから拳銃を抜き取った。

 S&Wサクラ。

 日本皇国の警察官であれば誰もが所持しているリボルバーだった。


 冷たい金属が御口の指先に伝わる。手のひらに馴染んだはずの感触が、今日はやけに異物のように思える。重さに腕がわずかに沈み、体の重心が前へ引き寄せられる。


 その様子を見て、イスナは小さく笑った。

 それは勝利の笑みでも、侮蔑の笑みでもない。まるでこの世界のすべてを俯瞰するような、底の知れない嘲笑。

 御口はその瞬間、イスナに初めて“笑み”を見た。息が詰まり、喉がひゅっと鳴る。


 銃口をゆっくりと持ち上げ、赤い瞳を狙う。

 イスナの声が、凪いだ空気を破った。


「……素手の相手に銃を向ける。それがお前の正義か」


 御口はイスナの言葉に一瞬だけ、自分の手が震えていないかを確かめるように銃身を見下ろした。


「うるさい。これは、これは……日本皇国の警察が決めたことだ」


 息が詰まり、肺が小刻みに膨らんでは萎む。両腕は押し殺したはずの震えを隠せず、銃口の先がかすかに揺れて、光の筋が壁に踊る。

 御口鯆は、警察官になってから一度も人間に向かって銃を撃ったことなど無かった。自分がこの引鉄を引けば、イスナは死ぬ。その事実が胸を圧迫し、心臓は耳の奥で早鐘を打ち続ける。


 それでも、イスナは動かなかった。

 両腕でリボルバーを構える御口を前にしても、赤い瞳は揺らぎもせず、ただ御口の震えを測るかのように静かに見つめ返していた。


 終わりは、簡単だった。


 耳を劈くような、強い発砲音が二度連続で鳴り響き、イスナの心臓と肝臓へと着弾し、肉と臓器を巻き込み抉りながら彼の背後にあった椅子へと着弾する。

 白い壁に銃声が反響し、静寂が焼き切られ、椅子の破裂する音が教会内へと響く。

 ぐらりと傾いだ体が床を打つ音は、銃声よりもずっと小さかった。倒れ込んだ体が床に叩きつけられる音は、銃声よりもずっと小さかった。

 赤い瞳が、崩落した天井の隙間から覗く青空を捉える。



──空なんて、久しぶりに見たな。


 イスナがゆっくりと息を吸い込むと、まるで溺れているかのようなガボガボという音が響く。心臓を抉り取った銃弾が肺を傷付けたのだろう。

 イスナは目を閉じる。

 埃と、長く人に忘れられた廃墟特有の乾いた建築物のニオイ。

 十分な死に様だと、イスナは思う。


 瓦礫を踏み、蹴って、軋む扉を開いた御口がバイクに乗る音がイスナの耳に届く。

 バイクのアクセルをふかす音が、イスナへの鎮魂歌のように響いた。それはイスナを置き去りにし、この世から遠ざけていく音だった。


 イスナは顔を動かし、扉の方を見てから力の入らない体で教会の奥へと這いずる。

 胸と腹から溢れる血痕が、蛞蝓の這った跡のように瓦礫に埋まる床を汚す。

 かつて玉座に腰掛け、国を築いた男が──いまは瓦礫の上を這う。

 教会の奥、その壁へと背中を預ける。

 ようやく落ち着いたイスナは、胸を押さえて緩く息を吐き出した。



──結局、俺はずっと……一人だった。

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