第二七話 国家を揺るがす芽、聖なるラッパ
白い執務室に、紙を繰る音だけが響いていた。
織部の指先には、黒いインクで記された報告書。そこに記された“東雲凍砂”という名が、白い紙面の上で異様に黒く、濃く浮かんでいる。
……国家を揺るがす芽。
……御口家という名門の血。
どちらを切るにしても、深い傷を残す。秤にかけられるのは、一度きりだ。
だからこそ、両方を守る術はひとつしかない。
織部はゆっくりと息を吐き出す。
御口鯆を呼び出せば、律儀に三度ノックが返るだろう。時間すら外さぬ、その正確さごと。
織部のその予想に違わず、すぐに御口は織部の執務室の扉を三度、寸分違わぬ間隔でノックが響いて、扉の外から「御口鯆です」と律儀に声を掛ける。
そのノックに一拍置き、織部は彼の重厚な声で静かに告げる。
「入れ」
「失礼します」
扉を開けて入ってきたのは、帽子を腋に挟み黒髪をオールバックにした青年。
布が擦れるかすかな音すら、音を拒む白い部屋に鋭く突き刺さった。
一重の目はアーモンド型の切れ長で、通った細い鼻梁に薄い唇、細い輪郭が特徴的な、そこに立っていたのは、一人の青年ではない。
幾世代にもわたり正義を掲げてきた御口家という名の歴史そのものだった。
目の前の青年はただの部下ではない。警察組織における“御口”という血の証そのものだった。
織部は眉一つ動かさぬまま、その姿を“利用するか、切り捨てるか”の秤にかけていた。
デスクに両肘を突き、織部は舐め回すように、棘のある視線で御口を見つめる。
織部のデスクの上には積まれた報告書。紙の白さが、御口の正義を否定する証拠の山として冷たく光っていた。
それは、御口と東雲凍砂との接触を示す証拠である、栄口から届けられた報告書。
「……御口鯆警部補、君は国家反逆を疑われている。──何故か、分かるね?」
織部の言葉に、御口は目を見開き唇がわずかに震え、言葉は掠れた。彼の喉が震え、声は掠れ、ただ『いえ』と零すのが精一杯だった。
「御口鯆警部補、東雲凍砂という男を知っているな。君が何度も貧民窟で密会を重ねていた男だ」
織部がデスクの上に彼らが密会をしていた写真や東雲凍砂という青年の写真を置いていく。
写真がデスクに置かれるたび、紙の擦れる乾いた音が室内に響いた。
それは、ただの紙のはずにも関わらず、判決を刻む鐘の音のように重かった。
それはまるで物証のようでもあった。
織部の声音は冷たい石のようで、白い部屋の空気をさらに凍り付かせる。
御口はその言葉に察するところがあったのか、一瞬の沈黙。
やがて御口は小さく『はい』と呟いた。その声は、机の上の報告書に吸い込まれて消えるようにか細かった。
織部の黒い瞳が、一切揺らがず御口を射抜いていた。
「しかし、織部警視」
「いまは私が話しているのだが」
「失礼、しました」
御口が頭を下げると、織部は頷くことで応える。
「既に今日までで二一回の密会を確認している。それも全て、あの路地でのことだ」
織部はそこで言葉を切った。机上の時計の秒針の音だけが白い部屋に響き、その音がやけに大きく、壁に反響するように御口には思えた。
御口の額にはじわりと脂汗が浮き、唇をきつく噛み締めていた。脂汗が顎を伝い、唾液が喉へと落ちる感触すら彼には重石のように思えた。
織部の目には、その反応こそが報告書の内容が真実であることを裏付ける最も雄弁な証拠に映っていた。
織部の目は一切揺らがず、裁判官が判決を下す前に被告を見据えるようだった。
「小官は……」
「声が小さい」
「失礼しました。小官は、警察官の菊の紋に誓って、正義を全うしております」
御口は背筋を伸ばしたまま、拳を太腿の横で固く握りしめる。立ち続ける両脚は力みで微かに震え、その緊張が彼の言葉をかえって薄くしていた。
それに織部は静かに首を横に振る。
その瞳はずっと御口の姿を見つめている。まるで罪を断つ裁判官の眼差しのようだった。
「警察官は証拠の無い話を信じることは無い。それを、御口鯆警部補も分かっているな」
織部の言葉が白い部屋の中に落ち、時計の秒針だけがしずかに響く。
「はい、分かっております」
乾いた音が静かな部屋に響き、御口自身の耳にもやけに大きく聞こえた。
「ならば、必要なことは分かるな、御口鯆警部補」
「私に、警察官を辞めろと、そう言うんですか」
その問いを切り裂くように、重い執務室には似つかわしくない大きな笑い声が響いた。
白壁に反射して増幅したその笑いは、御口の耳を打ち、鼓膜を震わせる。
笑いながらも織部の目だけは、少しも笑っていなかった。
「いいや、私としても優秀な警察官である貴官を失いたくは無い。だからこそ、ひとつの道を与えたくてね」
沈黙が落ち、机上の報告書の端を織部の指がとんとんと叩いた。
デスクへ片肘を突いた織部が、御口の黒い瞳を深く射抜き、逃げ場を奪うように見据えた。
御口は、まるで蛇に睨まれた蛙のように動くことすらできなかった。喉がゆっくりと鳴る。
「なにを、すれば良いのですか」
「御口鯆警部補は話が早くて助かるよ。必要なのは、一つだけだ──東雲凍砂の命」
その一言が白い部屋の空気を鋭く裂き、冷気のように御口の肌を撫でた。
息が止まる。足の裏がリノリウムの床に縫い付けられたように動けない。
御口の喉がごくりと鳴り、乾いた音がやけに大きく響いた。
織部の言葉に、御口はゆっくりと瞬きをし、細く細く息を吐き出してからその目を見据えた。
その瞳の奥に宿るものが迷いなのか、決意なのか、織部には判別できない。
御口は唇を噛み、白くなった口元から低く声を漏らす。
──正義の執行者である自分が、貧民窟のゴミとは言えど人命を奪うのか。
御口は自分の使命と織部からの命令というジレンマに陥る。
「分かりました。小官は必ず、織部警視に喜ばしい結果を持ち帰ります」
「ああ、期待している」
織部の言葉に、御口は誇らしげに胸を張り、力強く敬礼した。
「必ず、織部警視に喜ばしい結果を持ち帰ります」
織部は静かに頷き、常は不機嫌そうに下がっている口角をわずかに吊り上げた。
「……ああ、御口鯆警部補に期待しているよ」
御口は深く息を吸い込み、黒い瞳を真っ直ぐに向ける。
「小官は、ただ正義を全うするだけです」
それは野心でも功名心でもなく、ただ一片の曇りもない信念だった。
御口の胸に、ダイヤモンドを頂いたネクタイピンが白熱灯に照らされて、眩いほどの光を反射していた。
それはまるで、御口の清廉さを示すかのような輝きだった。
織部は一度だけ頷いた。
机上の報告書も、冷えた白い部屋も、その瞬間だけは御口の使命感のように何の影も差さぬように見えた。
御口は迷いなく敬礼し、扉を出て行った。
残されたのは、整然と積まれた書類と、静謐な白の空気だけだった。
御口はリノリウムの床の上でゆっくりと呼吸を深く吐き出す。
白い蛍光灯が、御口のネクタイピンに清廉な輝きを宿していた。
リノリウムの床に革靴の音が乾いた響きを刻む。
蛍光灯の白い光が、胸元のダイヤモンドのネクタイピンを鈍く照らしていた。
駐輪場に辿り着いた御口は、スーツの内ポケットから小さな十字架を取り出す。
それを額に押し当て、深く目を閉じた。
「……どうか、私をお救いください」
祈りの声は夜気に吸い込まれ、誰にも届くことはなかった。
目を閉じて呟いた祈りの言葉の後、御口は十字架を胸ポケットに戻した。
黒いバイクに跨り、スーツの裾が翻る。
アクセルを捻った瞬間、轟音は聖なるラッパのように街を震わせ、空気を裂いた。
白い庁舎から、黒い路地へ。
正義の名を背負いながらも、その行き先に待つものを知らぬまま、御口鯆は轟音と共に決戦の場へ駆けていった。




