第二六話 正義と疑惑の狭間
御口がイスナと対峙してからいつの間にか四年が経過していた。
御口は巡査部長から警視庁に所属する警部補になっていた。それでも御口に対する国家反逆の疑いの目は晴れることは無かったのだ。
しかし、御口は自身がそのような目で見られているとは思ってもおらず、鏡でネクタイを締め直し、“正義の警官は本庁に相応しい”と胸を張って本庁への出社だと意気込んでいたのだった。
御口の周囲は昇進を祝い、御口家を預かっていた彼の母親も、彼の昇進に「おめでとうございます」と告げて、彼の誕生石であるダイヤモンドが飾られたネクタイピンを贈ったのだった。
御口の母は、静かに告げた。
「御口家の男子として恥じない、正義に準じた警察官になりなさい」
御口は、彼女のその言葉を胸に本庁を見つめた。
しかし、彼の上司である織部警視は部下の栄口警部へ御口の動向を追うように命じていた。
「栄口、御口鯆警部補の動向を追え、気付かれないようにな」
織部の執務室である、壁も机も書類棚も白で統一され、埃ひとつ見えない白い部屋の中で告げられるその言葉に、栄口は礼儀正しく綺麗な敬礼を見せる。
彼らが見つめる先には、清廉の名を持つ宝石を頂いたネクタイピンがその胸に輝く青年がいた。
しかし、その清廉さは本人の知らぬところで試されようとしていた。
御口のグレーのデスクは綺麗に整頓され、書類の角まできっちりと揃えられていた。
警部補ともなればスーツを着用することになり、御口は早速革靴をオーダーメイドしたのと同じイタリアブランドでオーダーメイドのスーツを作っていた。
ブルーグレーのスーツは御口の清潔感がある容姿に良く似合っており、長い脚にもぴったりと吸い付くようだった。
御口はゆっくりと鼻から息を吸う。
自分は正しい、認められたのだという言葉が頭の中を何度も反芻していた。
貧民窟を危険視し、排除の方向で動いていた自分の行動が認められ、栄転したのだと、御口は信じていた。
しかし、その正義は本人の知らぬところで疑念と共に記録されていた。
だが、そんな晴れやかな装いの裏で、御口の名前は別の帳簿にも刻まれていた。
“要監視対象”として。
執務室の窓辺に立つ栄口は、手帳を静かに閉じる。鏡のように磨かれたガラスに映る御口の後ろ姿を見つめながら、彼がどこへ向かうのかを冷ややかに見守っていた。
御口はブルーグレーのスーツの裾を翻し、誇らしげに本庁の玄関を出た。
自らの正しさが認められたのだという高揚感を胸いっぱいに吸い込んで、彼はまっすぐに駐車場へ向かう。
御口は白バイではなく、自前の黒い大型バイクを選ぶ。
キーを回す音と共にエンジンが低く唸りを上げ、御口の視線は迷いなく一方向を射抜いていた。
行き先は、皇都画一地区三番通りの奥。
学校でも警察学校でも、決して足を踏み入れるなと教え込まれた路地。
貧民窟へ──。
誰よりも禁じられた、その場所へ。
その背中を見送りながら、栄口はポケットからセルフォンを取り出す。
番号を押す指は迷いが無い。登録された短縮番号は、直属の上司である織部のものだった。
栄口はセルフォンを肩に挟み耳に当てて呼出音が切れるのを待った。
「要監視対象I〇〇二七〇一が動きました」
『そのまま追え。気付かれるなよ』
「了解です」
御口のバイクを追うため、栄口も自身の車へと乗り込む。黒い車には全面にスモークが貼られており、一見すれば彼の車こそ異物のようでもある。
午後一二時。
人は少なく、車通りもさして無い。街は昼休みで人影が疎らだった。
尾行するには丁度良いタイミングだった。
陽は真上にあるはずなのに、三番通りへ近付くにつれ影ばかりが伸びていくようだった。
栄口の乗るEV車は音もなく御口の後ろを付かず離れずの距離で追う。距離を取り過ぎれば見失い、近付き過ぎれば気付かれる可能性がある。栄口のハンドルを握る手に力が入った。
前を行く御口は、ブルーグレーのスーツに革靴という出で立ちでバイクを駆っていた。その異質な姿は、昼下がりの街並みにこそ不気味に映えた。
皇都画一地区三番通り。
人影もまばらな昼下がり、御口のバイクが滑り込んだのは、飲食店が立ち並ぶ界隈ではなく、その裏に口を開けた暗い路地だった。
そこは、誰も寄り付かぬ貧民窟──通称スラム。
香辛料や油の匂いに包まれた賑わいの裏手に──料理の匂いが漂う三番通りから一転して、湿った埃と腐敗の臭気がかすかに流れ込む。
栄口はスモークの貼られた窓越しに、その様子を凝視する。
胸の奥がきしむほどに、息を閉じ込めたまま、視線だけで御口の背を追う。
ブルーグレーのスーツの裾を整え、革靴で一歩路地へと踏み出す御口。
その靴音が、静まり返った通りの、石畳を叩く革靴の音が、やけに乾いて耳に刺さる。
路地の入口付近まで来ていた子供たちは、小綺麗なスーツ姿の御口を怖がる素振りも見せなかった。
むしろ親しげに、めんどくさそうに顔を歪めたり、短く頷いたりしながら、言われたとおりパタパタと奥へ走っていく。
──警官を見ても怯えない。
それが、この光景の異常さを際立たせていた。
やがて、子供たちの背後からもう一人、青年が姿を現す。
顎の辺りで切り揃えられた白髪。夕焼けを閉じ込めたような、赫眼。
栄口は無意識に顎の黒い髭を撫でた。
どこかで見た覚えがある。記憶の底に沈んでいた顔が、ゆっくりと浮かび上がる。
──七年前の新聞。世間を震撼させた大見出し。
紙面いっぱいに刷られた黒々とした文字。そこに焼き付けられた少年の顔。
政治家であったにも関わらず、その立場を失った父親と、その父親によって存在すらも奪われた子供。
国を震撼させた汚職事件の渦中で“東雲凍砂”と書かれた名前と共に踊った写真に、酷似している。
奥寺巡査部長が報告書として上げていた“東雲凍砂”の名が、事実であると証明された。
栄口は短縮番号を押す指が、僅かに震えていた。呼び出し音が一度鳴る間に、ゆっくりと息を吸い込み、吐き出す。
「──要監視対象I〇〇二七〇一は、黒です」
受話器越しの空気すら張り詰めるような、一拍の沈黙。
『……了解した。しかし御口家は代々警察官の家系だ。表立って始末するのは難しい』
織部の声は冷たく均されており、そこに感情の揺らぎは無かった。まるで台本を読み上げるかのような、静かな声。
「そうですね……何か、うまく誘い出せれば良いのですが」
栄口の言葉は、受話器越しの湿気ごと吸い込まれるように消えた。
御口が戻るよりも先に、栄口は静かに来た道を辿り警視庁へ戻った。
警察官の中から裏切り者が出る。それは、いつの時代も最も苦い報告だった。
ましてや、それが代々警察に身を置いてきた名家の人間であれば、なおさらだった。
廊下の白光に押し返されるような足取りで織部警視の執務室へと向かう。
三度のノック。沈黙が数拍、廊下の時計の音だけが響いた後、低く重い「入れ」が返り、栄口は扉を押し開けた。
白い髭を蓄えた織部が机に肘を置き、険しい目を細めていた。
「……ご苦労だ。報告を」
その一言に背筋を正し、栄口は声を低く落とす。
「要監視対象I〇〇二七〇一──御口鯆。皇都画一地区三番通りの貧民窟入り口にて、東雲凍砂と思しき青年と接触。……密談を交わしていた形跡がありました」
部屋の空気が一瞬にして氷に変わった気がして、栄口は無意識に喉を鳴らした。
「ご苦労だった。……もう少し泳がせてみるか」
織部の言葉に、栄口は「了解しました」と告げて執務室から出て行く。
執務室から出た栄口はゆっくりと息を吐く。目頭をぎゅっと指で摘み妙に疲労した目を労る。
栄口は、未だに信じることができなかった。
御口鯆という青年が裏切り者だなどと──どうして容易に信じられようか。信じることは、正義そのものを疑うことと同義だった。
御口家と言えば誰もが警察官となり、その誰もが警視長や警視正へと上り詰めている。
御口という名前は、警察庁内では正義と忠誠の代名詞だった。
御口の祖父は警視監、父親は警視長、父方の叔父も殉職するその瞬間まで現場に立ち続けた。
栄口は何度も逡巡し、それでもなお忠誠と疑念の狭間で揺らぐのだった。




