第二五話 信望
イスナがスラムに産声を上げたのは、彼が一六歳の時だった。
母は一〇歳の時に自殺し、父は一六歳の時に汚職事件で捕まり、豪邸の何もかもが運び出されイスナの手元に残るものはひとつだって無くなった。
カーテンの外された窓からは剥き出しの床が見え、本棚の中身すら全て撤去されていた。
母が死んだ時には滂沱と泣いたイスナは、父の逮捕の時には一欠片だって泣くことはできず、父も一度だって視線をイスナに向けることは無かった。
イスナのスクールバッグの中に入っていたのは財布といくつかの教科書くらいで、他は何も無かったのだ。
ただ、頭の中を園路の言葉がリフレインしていた。
──イスナ、お前は王になる器だよ。
まるで呪いのように響くその言葉に、イスナはそれならば王になってやろうと思ったのだ。
リサイクルショップに制服を売り、質の良いシャツと革のジャケット、ジーンズを購入する。
履きなれた革靴がイスナの足を包む。
ローファーとは違う、固い革の感触がイスナの足を両側からキツく包んだ。
イスナが売り払った制服は、他の安っぽい古着の隣に並べられ、もう二度とイスナの手元に戻ることは無い。
しかし、それで良かったのだ。
イスナにとってその制服は既に過去だった。
「おや? アンタ、もしかして東雲凍砂じゃないのか。ほら、汚職事件が発覚した東雲家の」
そうイスナへと声を掛けるリサイクルショップの店主に、イスナは「知らね」と答える。
店主の目は酷く好奇心に満ちており、値踏みするような視線でイスナの体をジロジロと見つめる。その声には侮蔑すら宿っているようだった。
店を出てすぐに、イスナは煙草へ火を付ける。
火を点けた瞬間に立ちのぼる煙は、甘くも苦くもなく、ただ過去を思い出させる匂いがした。
未だ煙草の煙に慣れないイスナの器官はそれだけで噎せる。肺に煙は入れず、ゆっくりとふかす。
それがPeaceの吸い方だと、園路は言ったのだ。
園路が残して、イスナへ教えた両切りのPeace。それだけがイスナと園路を繋ぐものだった。
革靴の踵を鳴らしてイスナは歩く。コツ、コツと規則正しい音が、次第に湿った地面に吸い込まれていく。
舗装されたアスファルトの道を、押し固められた土の道を。
そして、スラムの入口へとイスナは入ったのだ。
あの汚水のニオイと湿り腐りかけた段ボールのニオイ、そして皮脂と垢の脳天を突くようなニオイが支配するスラムへ。
「イスナが初めてスラムに来た時、びっくりしたよなぁ」
サメの声がイスナへ届く。
「そうそう、ひょろっひょろで、風で飛んでくんじゃねーかって思ってた奴が『俺が王だ』って言うから、なんのジョーダンかと思ったしさ」
そう笑ったハチに、シャチは彼らを見つめる。
「俺は最初から分かってたぜ、イスナが王になる器だってな」
「シャチ、イスナが来た次の日には従ってたもんな」
シャチとサメは、イスナからすっかり文字を教え込まれていた。文字がしっかり書けるようになれば、他の子供へ教えても良いと言われたのだ。
ここに辿り着くまでに、三年という歳月が掛かった。
イスナがこのスラムに降り立ってからは、もう七年が経っていたのだ。
最初の四年で、スラムは泥を飲み死体を喰らう地獄から、畑の匂いのする街へと変わった。
次の三年で、シャチとサメは文字を覚え、子供たちは未来を夢想し始めた。
スラムはもう、死と絶望が支配する場所では無くなっていた。
金色の麦が穂を天へと突き上げ、清潔な水が流れる。
かつて腐臭しかなかった路地には、いまは牛の鳴き声、豚の足音、鶏の羽ばたきが響いていた。
大人は子供を食い物にせずとも暮らせるようになり、腕や足を切り落とされる子供もいなくなった。
すべての人間に役割が、仕事が割り振られ、誰もが毎日を忙しく動くことができる。
物乞いをするスラムの者も、いつの間にかいなくなっていた。
その光景を前に、シャチは胸の奥に誇らしさを覚える。
イスナが変えたスラムは、もはやただの寄せ集めではなく、確かにイスナが築いた「国」だった。
みんな、もう襤褸ではなく麻で織られた服をまとい、足には草鞋を履いている。
かつて泥の上に寝ていた人々は、木で作られたベッドに清潔な麻のシーツを掛けて眠っていた。
スラムの中央には大きな屋根付きの炊き出し場が設けられており、そこでは水を沸かし、食事を作り、笑顔が溢れている。
かつて泥に這いずっていた人々は、イスナが来てから「動物」ではなく「人間」として生きられるようになったのだ。
その変化を導いたのはすべてイスナだった。
王のようにふんぞり返るのではなく、自ら泥に手を突っ込み汗を流すからこそ、スラムの人々もまた進んで動いた。
汚水に塗れ、泥に塗れ、汚物に塗れ──そのすべてを厭うことなく歩む姿。
シャチにとって、イスナはこの世で最も信頼できる人間だった。
イスナのためなら、何度でも死ねる。
だがイスナは決して「俺のために死ね」とは言わないだろう。
人を簡単に切り捨てるように見えるその目の奥に、他者を捨てない強さが宿っていることを、シャチだけは知っていた。
シャチとサメが、文字が書けるようになるまでの三年を、イスナは辛抱強く待ち、教え、時に褒めた。
ここまで指導者に向く人間もいないと、シャチは思っていた。
地面に降り立ち、収穫を先導し、穀物倉庫から麦と大豆を持ち出させ食事を作らせる──その背中を見つめるたび、シャチの胸にはただ一つの感情が育っていった。
イスナだけは、絶対に信じる。
たとえこの国から消え去る日が来ても、自分だけは信じ続けるのだと。
この国の誰もがイスナを信用しなくなったとしても、自分だけはイスナの隣でイスナの手足として動く。
──それがシャチの、揺るがぬ誓いだった。
シャチにとって、イスナとはサメ以外に唯一信用できる存在だった。
同じスラムに住む老夫婦に拾われ、三歳の差があれど同じように兄弟として育てられ、物乞いをし、パンを盗み、人を殺して糧を得ていた。
盗み、殺せば老夫婦は二人を褒め、糧を分け与えてくれた。
それがおかしいことだったのだと知ったのは、イスナが来てからだった。
老夫婦が死んでからイスナがスラムへ現れるまで、シャチには何年が経ったのかも分からなかった。彼らは時間を理解することもできず、今日と明日が地続きであることも理解できていなかったからだ。
ただ、それらは全てイスナが来てから変わった。
イスナは時間の概念を教え、数の概念を教え、そして人から奪わずとも生きていく術を教えたのだ。
イスナは空の色が変わることを数えさせ、太陽が沈むことを一日として教えたのだ。それが七回で一週間、七回が四回で一ヶ月、一ヶ月が一二回で一年。
そうして教えられた時間と一日、そして数を、誰もが覚えて産まれてくる新しい命へも教えていくのだ。
最初のうち、イスナは奪うことを黙認した。だが、子供が反撃に遭えば、自ら出向き、相手を死ぬ寸前まで殴って見せた。奪えば必ず報いがあると、体で刻ませたのだ。
やがて水路を敷き、畑を作り、奪わずとも生きられる道を示した。
そこから、スラムは変わっていった。
シャチが知っていた常識は、イスナの登場で覆されていた。
盗めば褒められ、死んでも仕方ないとされてきたニ四年間は、イスナに完全にひっくり返された。
それでもシャチには、それが不愉快ではなかった。
「イスナって、すげーよな」
シャチの言葉に、誰もが賛同する。
けれどその賛同は、腹を満たせるようになったからの歓声に過ぎない。
本当の意味でイスナを分かっているのは──自分だけだ。
シャチはそう信じていた。




