第二四話 反逆の狼煙
山城は、熱心にパトロールへ向かう鬼気迫ると言いたくなるほどの御口の危うく感じられるほどの執念を感じて、放っておけず、その様子を心配して一度、その跡を付けたことがあった。
御口はキコキコと音の鳴る自転車でゆっくりと街中を見回りながら、三番通りへと向かう。
彼は出る前に言っていた二番通りの一番街では無く、三番通りの周囲より一際暗い路地へと向かう。
そこは学校でも警察学校でも決して近付かないように言い含められていた“危険”で“汚い”スラムだった。
それに山城は思わず呼吸を失った。
御口の背中は、まるでそこが日常の巡回コースの延長であるかのように迷いがなかった。
しかし山城にとって、その路地は境界線だった。湿った空気と、澱んだ匂いが鼻を刺す。
そこにいたのは、暗闇の中で白にも見える薄い紫色をした髪を顎下で揃えた、不気味なほどに赤い大きな瞳をした青年だった。
僅かな光に反射する赤い瞳が闇にぽっかりと二つ浮かび、まるで人間の顔に貼り付けられた異物のように見えた。
御口が「イスナ」と呼ぶその青年に、山城は見覚えがあった。
数年前、新聞で大々的に報道されていた東雲凍砂という、東雲家の一人息子だった。そんな少年が、何故スラムにいるのか。
その青年の正体に気付いた瞬間、山城は思わず口を押さえて駆け出す。サッと血の気が引くようだった。
任務意識と本能的な恐怖がごちゃ混ぜになり、頭の中で“国家転覆”の言葉が勝手に浮かんだ。
まさか、御口がスラムの人間と共謀して国家転覆を狙っているのでは無いかと、そう錯覚するほどに恐怖したのだ。
息を切らしながら走った山城は、近所の公園にある公衆トイレへと駆け込む。
誰に相談をすれば良いのかなんて分からなかった。
ただ、山城はスマホを取り出し、急いで彼女が研修をしていた明ノ寺地区の分署へと電話をする。
『はい、明ノ寺地区第二分署です』
「皇都画一地区二番通り派出所の山城巡査です、奥寺部長はいらっしゃいますか?」
『奥寺でしたら……ああ、奥寺部長! 山城巡査からお電話です』
『山城から? ああ、分かった。すぐ行く』
ドクドクと、山城の胸が強く鼓動を打つ。
冷たいタイルの壁に背を預け、上から降ってくる蛍光灯の白い光がやけに眩しかった。
早く電話口に、と願う山城の耳に、ザーッという小さなノイズと共に電話口から足音が響く。
手汗でスマホが滑りそうになり、喉が渇いて言葉が掠れた。
『もしもし、お電話変わりました。奥寺巡査部長です』
奥寺の、低く落ち着いた声が山城に届く。
「奥寺部長、お久しぶりです。山城巡査です」
『ああ、久しぶりだな。元気だったか?』
「はい……あの」
呼吸が荒く、指先が汗ばんで滑る。ドクドクと胸の鼓動が強く打ち、耳の奥まで響いていた。
「あの……っ、その……御口鯆巡査部長が……、御口鯆巡査部長が……画一地区の貧民窟に通っているんです。そこの……ゴミと、国家転覆を企んでいるかもしれません」
声が震え、言葉の重さが空気に乗り切らない。
一瞬沈黙が落ち、電話口のノイズだけが互いの声を繋いでいた。
『国家転覆ぅ?』
一拍置いて、笑いが混じった声が続く。
奥寺の声は低く抑えられていたが、その奥に小さな笑いが混じっていた。
『……よし、場所を変えよう。……それで、国家転覆だと?』
「そうです!」
山城の声は裏返り、切羽詰まっていた。
『ハハハ……まさか。御口巡査部長が? 彼に限って、それは無いよ。彼はとても正義感が強いし、彼の一族は代々警察の家系だよ』
彼に限って、と奥寺はそう言いたげな様子だった。それに山城は喉がひゅっと狭まって、目の前が真っ暗になり、膝が抜けそうになったような気すらしたのだ。
自分が信じていた御口に裏切られ、奥寺すら信じてくれない。
山城は何を拠り所にすればいいのか、分からなかった。
「……御口部長が話していたのは……あの、元官僚の一人息子……東雲凍砂だったんです!」
声は震え、喉を擦り切るように迸った。
絶叫にも似たその言葉に、電話の向こうがシンと静寂に包まれる。誰かが息を呑む気配だけが、微かに伝わった。
山城は思わず唾を嚥下し、ドクドクと心臓が逸った。
『東雲? 見間違いじゃないのか?』
「み、見間違いじゃありません! 私、小官は……確かに、彼は成長していましたけど、でも、確かに東雲凍砂でした!」
声が裏返り、息が詰まるたびに胸が焼けるようで、涙と一緒に喉が震える。
『……ふむ、なるほど』
奥寺の静かな声。その温度を、山城には読み取ることができなかった。
泣きそうな山城の声だけが、公衆トイレの冷えた空間に響いていた。
『分かった、一応上にはその情報を上げておこう。……だが、上が動くかどうかは、分からんよ』
「ありがとうございます! 私、私……また何か分かったら、すぐ連絡します!」
声は震え、涙で滲んだ視界の先で、スマホの画面に、涙と汗がぽたりと落ち、握る手は滑りそうに震えていた。
『ああ。だが、もう分署には掛けるな』
奥寺は一拍置き、低く抑えた声で続けた。
『連絡先は……〇七〇ー……七七一七……』
一桁ずつ、まるで念を押すように番号を読み上げる。
『次はここに掛けてくれ』
「分かりました……! 今日は突然、すみませんでした」
山城の言葉に、奥寺は『ああ、気にするな、──また食事でもしよう』と軽く告げて電話を切った。その言葉の軽さが、山城の背筋を冷たく撫でた。
派出所へ戻ると、すでに御口が戻っていた。山城の心臓がドクリと大きく鳴る。
「おかえり。戻ったら山城くんがいなくて驚いたよ」
御口はいつも通りの柔らかい笑みを浮かべていた。だが、彼のその笑みは柔らかいはずにも関わらず、山城の目には一瞬、冷たい仮面にすり替わったように見えた。
「あ、……えっと、すみません。少しスーパーに行ってて」
「そうだったか。次はせめて書き置き残しといてな」
御口の声は穏やかで、派出所の静けさに響く。その静けさは山城の胸を締め付けた。
時計の秒針の音、蛍光灯の微かな唸り。二人きりの空間が、酷く頼りなく、心細かった。
「コーヒー、飲むか?」
「私は大丈夫です」
朝よりもずっとよそよそしくなった山城の様子に、御口は不思議そうに眉を寄せる。だが、女性だから、そういう日もあるのだろう、御口はそう勝手に納得し、それ以上考えることもなく、自分の分のコーヒーを淹れ始めた。
安っぽいインスタントコーヒーの香りが漂う。それなのに、山城の胸の奥にこびりついた不安はひとつも薄れなかった。
ポットから落ちるお湯がインスタントの粉を叩き、かすかな香ばしい匂いが漂う。
そのチープな味わいが、御口は嫌いではなかった。むしろ、庶民的で安心できるとすら思っていた。
御口は派出所に電気ケトルが欲しかったが、予算が降りないために未だ電気ポットを使っていた。
白く在り来りな電気ポットはオンボロで、時々お湯が沸かないことすらある。
山城はコーヒーの匂いから目を逸らすように、机の書類へと視線を落とした。
そのコーヒーの匂いすら、何かを覆い隠しているようで吐き気すらしたのだ。
別段、それは急ぎの書類でも無い。ただ忙しくすることで、先程見た光景を忘れたかったのだ。紙を捲る指先に汗が滲み、シャーペンの芯がカリカリと震える。
シャーペンが擦れる音と、御口がコーヒーを啜る音が重なる。
御口の一挙手一投足に、山城の神経がピリピリと張り詰める。
東雲凍砂の後ろにいた紫色の髪をした青年は、どこか御口に似た顔立ちをしていた。
一重のアーモンド型の瞳に、高く細い鼻梁、薄い唇。御口家の男はみんなこの顔だと、過去に御口が笑っていたのを思い出す。
山城の脳裏で、歯車が外れたように思考が暴走を始める。
もし、あの紫髪の青年が御口の親族だったなら──。
ならばスラムと警察は繋がっている。国家転覆など、決して有り得ない話では無い。
怯えの滲んだ瞳で山城は御口を見る。
しかし、それに御口は気付かない。
正義を掲げる御口が、けれど隣の瞳に宿る怯えを見ようともしない、それが証だった。
その時だった。ザーッという雑音混じりに警察無線が入る。
『皇都画一地区三番街にて食い逃げが発生、近くの警官は直ちに対処に当たってください』
「山城さんはここにいて、俺が行ってくる」
御口の言葉に山城は声が上ずりそうになるのを必死に抑えて、静かに「分かりました」と頷いた。




