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スラムに王は生まれる  作者: 田中
第一章
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第二三話 あなたの横顔

 初めて、スラムの入口前で警察官の青年を見た日から五ヶ月、雨の日も雪の日も、仕事の合間を縫って毎日のように彼はスラムへと足繁く通っていた。

 青色の制服で、きっちり綺麗にまとめられた髪型で、折り目のついたスラックスに、ピカピカに磨かれた革靴。その姿はいつだって、雨や泥と無縁のもののようだった。


 湿った路地、積まれた木箱やゴミ袋、壁のひび割れ。

 湿った路地には苔の匂いが漂い、積まれた木箱は崩れかけて、ゴミ袋の隙間からは腐敗の甘い臭気が漏れていた。

 それはさながら、スラムと表とを分断する異界との境界線のようだった。

 革靴の底に貼りつく湿気と鼻を刺す酸っぱい臭気が警察官を襲う。


「今日も来たのかよ」


 紫色の長い髪をした青年、シャチが呆れと皮肉を交えた声音でそう言う。

 互いに同じ輪郭を持ちながら、違う色彩を帯びた二枚の絵画のように向かい合う。片方の黒と茶の濃淡は硬質な鉛筆画のようで、片方の紫と赤は油絵の絵具を厚く塗り重ねたようだった。

 黒髪の短髪に茶の混じった黒色の瞳、涼し気な切れ長の目元の警察官と、紫色の長髪にイスナに似た血を掬ったような瞳は切れ長だった。

 その赤が、警察官の黒をじっと射抜いた。


「おまわりが毎日、ずっと、なんの用だよ。俺らはお前らよりもずっと、やることがあるんだからな」


「ふん、スラムに住んでる奴に、なんのやることがあるんだ」


 警察官は鼻で笑い、靴底で路地の泥を払い落とす仕草を見せた。声色からは体温が抜け落ちたかのようで、吐き出す言葉が氷の粒のように地面へと落ちる。

 そんな警察官の言葉にシャチの眉根が寄る。不愉快をそのまま押し固めたような表情だった。


「お前ら表の奴らは、いつもそうだ。俺たちを人間とも思っていない」


 シャチの低く吐き捨てるような言葉にも、警察官はスラムに住んでる奴に、なんのやることがあるんだとばかりの様子だった。

 まるで彼の言葉は、スラムに住んでいる人間を人間と思っていないと思っている証左でもあるようだった。

 路地の空気は重く張り詰めているのに、奥からは子供たちの笑い声が聞こえてくる。その落差が、なおさら御口の言葉を冷たくした。


 表の喧騒は届くのに、この路地へ一歩入ると途端に静かになる。御口が歩くとその足音と声だけが響く。

 路地へ入ると、スラムの子供たちが笑い走り回る音が聞こえた。かつて汚泥に塗れたスラムには光も届かなかった。だが今は、子供の笑い声が絶えず、汚泥の臭いもしない。

 警察官の目が一瞬だけ細められ、靴の先で泥の無い石畳を強く擦った。変化を認めまいとする意地が見えるようだとシャチは思う。


 路地の奥から子供たちの笑い声が響いた。

 御口は一瞬だけ足を止める。

 けれど、その表情に浮かぶ感情は誰にも読み取れない。

 ただ、制服の肩口がわずかに上下し、子供の笑い声に乱されるように、整っていた呼吸が乱れているのだけが分かる。


「今日はあの、イスナという男は?」


「俺たちの王なら、今日も朝から畑仕事をして、川の泥をさらって勉強してるよ」


 シャチの返事に、警察官の目が見開かれる。眉間に皺を寄せ、口元がわずかに歪む。それは、信じがたいものを見せられた子供のような顔だった。

 それはまるで、王と呼ばれる男がそんなことをするはずがないと言うかのような、まるで、己の常識を笑われたかのような表情だった。


「ところでさ、この何ヶ月もアンタ来てるけど、名前は?」


 興味も無さそうにシャチは問い掛ける。

 薄汚れた壁に体を預けたシャチへ、警察官は「俺は御口鯆だ」と言う。それにシャチは少しだけ面白そうな笑みを浮かべる。


「へえ、イルカか。お似合いだな。人間に媚びへつらう、弱くてちっさい海獣だ。俺はシャチ。イスナの一番の臣下だよ」


 壁のひびから水が滴る音が聞こえる。

 遠くからイスナを呼ぶ子供たちの声すらもが聞こえる。

 御口にとって、その情景は信じられないものだった。御口には到底受け入れられない光景だったのだ。

 背筋に冷たいものが走り、靴底が、湿った石畳に張り付いた気がした。


「アンタら、表の人間がスラムのことをどう教えられてきてるかなんて知らないけどさ、俺らにとっては大事な居場所なんだ」


 シャチの静かな声が響く。

 湿った壁に吸われて消えるようだった。

 このスラムへの入口は、表の人間は誰も通り抜けない。辿り着く場所はこのスラム以外に無いからだ。

 そんな、スラムと表とを繋ぐ唯一の場所で、スラムに住むシャチと表に住むイルカは静かに言葉を重ねる。

 だからこそ、この場所の会話は外には届かない。

 水滴がポタリと落ちる音が会話の間を繋ぐ。


 御口の張り詰めた、やや強がりすら感じられる声とは逆で、シャチの声は終始穏やかだった。まるで、イスナの声を聞いているようにすら御口には感じられる。耳に届く声は、どこかイスナのものを思わせるのだ。

 彼らは激昂することも、声を荒げることもない。


 シャチはスラムの方へと顔を向ける。その顔には優しい色が乗っていた。

 いままで御口が見た事のあるスラムの人間は、もっと険のある表情をしていた。色を失い、その日を生きることに必死で他者を見る余裕も、未来を見る余裕も無いような、未来なんて一度も視界に入らない顔だった。

 しかし、いまのスラムに生きる人間はそうではない。

 それはシャチが最も分かりやすく示していた。


 御口にとって、それは危険思想だとしか言いようがなかった。笑顔や安らぎに包まれたスラムの姿こそが、表の人間を脅かす種に見えた。

 万が一にも、このスラムから革命が起これば、それは御口の信じる皇都を、日本皇国を根底から揺るがす事態になるのではないかと。

 背筋に冷たい汗が滲み、拳が無意識に握りしめられていた。


「お前たちは、何を望んでいるんだ」


「安寧だよ」


 御口の言葉に、シャチは穏やかに答える。その言葉は、湿った路地に静かに沈んでいくようだった。

 ただ、安寧が欲しいだけなのだと。

 その意味が、御口には分からなかった。御口にとって安寧は、呼吸のように当然そこにあるものだった。

 だからこそ御口は眉を顰めることができる。


「どうして、そんなものを欲しがるんだ」


 御口の問いかけに、シャチは静かに瞬きをする。

 シャチの肩がほんのわずかに上下し、呼吸が僅かに逸った気がした。

 赤い瞳が御口をまっすぐ射抜いた。


「どうして? 分からないのか」


 静かに、静かに重ねられる言葉。

 路地の湿気に沈むように、水滴が落ちるように、言葉は重なる。


「スラムで生きてきたいままでが、安寧じゃなかったからだ」


 言葉に激昂は無い。ただ、心の奥底で燃える何かがあるようだった。

 御口には、そのシャチの赤い瞳の奥で微かに赤い火が揺れたように見えた。


「今日を生きるのに必死で、隣でダチが死んだことすら気にかけられず、肉が手に入ったくらいの気持ちでしかなかった。今日が重なって明日が、未来が形作られることすら、俺たちは知らなかった」


 それは、御口には到底想像できない光景だった。御口は喉が詰まり、言葉が出ず、視線が逸れそうになるのを無理やり繋ぎ止めた。

 彼の世界では想像することすら許されなかった光景だった。


「それ、は……不幸だとは思うが」


「不幸?」


 沈黙が、一瞬落ちた。


「はは、表の人間にとっちゃ、そんな簡単な言葉で言い表せるものなんだな」


 壁に体を預けたシャチが、喉を、体を震わせて笑う。

 その赤い瞳が、矢のように御口を貫いた。

 下がる瞼に血を掬った瞳が隠され、少しずつ、再び現れる。

 シャチは小さく息を吐いてから口を開いた。

 声は静かだったが、決して揺らがなかった。


「俺たちにとっちゃ、食の心配もせず、飲み水の心配をすることもなく、毎日を生活できることがただ幸せなんだよ」


 静かなシャチの声が沈んだ瞬間、背後から明るい声が掛かる。


「おーいシャチー! 飯、作ろーぜー!」


「おー、いま行く!」


 空はいつの間にか青から橙へと色を変えていた。シャチと話していた御口が気付いた時には、もう空は橙に沈んでいた。


「アンタも、早く帰れよ。仕事中だろ」


 シャチはそう告げると体ごと振り向き、スラムへと足を進める。もう御口を振り返ることは無かった。

 シャチの紫色の髪が翻り、着ていた夕陽に透けて麻のシャツが揺れる。


 竈へと到着したシャチに、子供たちが「おせーよ!」「何してたんだよ!」と喚く。

 それに、シャチは「悪い悪い」と笑う。子供たちがシャチの裾を引き、腕を引っ張って竈へと連れて行く。

 イスナが王政を敷くこのスラムでは、誰もが空腹を訴えることは無い。汚水を飲んで苦しみに悶え死ぬことは無い。

 友の死体を前に、食糧が手に入ったと思うことも無い。


 ようやく、他者の死を悼むことのできる下地が出来上がったのだ。

 シャチは不意に上を見上げる。イスナがいつもいる部屋の窓枠には彼が座り、スラムを見つめている。

 イスナの顔も体も、夕陽に照らされて影の中に沈んでいた。


 その目には何が映っているのか、シャチには分からなかった。それでも、このスラムを変えたのはイスナだった。


 それでも、シャチは安心して笑えるのだった。

 イスナを、疑うことなく信じていたからだ。

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