第二二話 邂逅
巡査部長へと昇進した御口は、ゆっくり呼吸をする。
しかし、ゆっくり呼吸をしようとすればするほど呼吸が荒くなり、胸の奥が重くなり、ただ何もできず制服の襟を握りしめる。
指先に汗が滲み、喉の奥が焼けるようだった。
ずっと尊敬なんてできないと思っていた狭山洋輔が、まるで英雄のように幼い女の子を守ったのだということを聞いてからずっと、考えていたのだ。
御口鯆にとって、英雄とは誰もに賞賛され、傷も死も恐れず、しかし死ぬことは無く、歴史書に描かれる英雄のように人を助ける存在だったのだ。
御口は、ただひたむきにそう信じ続けていた。
しかし、狭山の死と英雄的行動が御口の思想に変革を起こしたのだ。
御口の信仰するカレルト教は教える。殺人と自殺は最も悪だ。
だが、他者を助け隣人を愛することこそが最も善なのだと。
狭山はカレルト教の教えによるならば、最たる善行を積んだことになるのだ。
他者を助け、他者を愛する。
御口がいままで普通にしてきたこと以上に、狭山はずっと前から実行していたのかもしれないとすら思ったのだ。
三〇代半ばの、柔和な顔をした狭山を、御口は何度も思い出す。
好きではなかったし、尊敬だってしていなかった狭山の顔を、しかしいまは違う意味で御口の脳裏に焼き付いていた。
あの狭山は、果たしてどんな表情で死んでいったのだろうか。
胸に下げたカレルト教のナスキトゥル・カルぺ・ディエムが十字架に打ち付けられた姿が刻まれたペンダントを強く握り締める。
その冷たい金属の感触が、揺らぎそうになる信念と信仰を繋ぎ止めてくれる気がした。
苦しみを抱えたままそれでも生きることを表す、カレルト教の信仰を象徴する神の姿。
机に散らかった書類や菓子袋、いつも買いに行かされていたコーヒーショップのフラペチーノ、制度に頭が上がらずスラムへの立ち入りを許可してくれることの無かった狭山。
そんな彼と、女の子をその身を呈して守り撃ち殺された狭山。
その姿が、何度も何度も脳裏に焼き付いて離れない。まるで、狭山が忘れるなと言うかのようだった。
御口は、悪から目を逸らしてはならないのだと、改めて思うのだ。
悪から目を逸らすことは、カレルト教に背くことだ。御口はそう思い、深く細く息を吐き出した。
デスクへ座り、散らかった机が視界を埋めても、御口はそれを払いのけるように背筋をぐっと伸ばす。
自分は、英雄にならねばならないのだと、御口は思ったのだ。
父や祖父、叔父たち、そして過去正義を執行してきた親族のように御口鯆も英雄たれと自分へ課さずにはいられなかった。そうせねば自分が崩れると思ったのだ。
御口は立ち上がる。
「イルカ部長、どこに行くんですか?」
「パトロールに行ってくるから、山城くんは留守番よろしく」
「えっ、パトロールくらいなら私が……」
山城の言葉に、御口は首を振る。ポケットの無線と手帳を、軽く触れて指先で確かめる。それは、警察官である自分を繋ぎ止める唯一の錨だった。
何か良い言い訳を、と考えて浮かんだのはやはり狭山で、自分でも苦しいと分かる言い訳を、御口は口元にだけ笑みを浮かべて吐き出した。
狭山にはよく、パトロールに行かされるついでにポルックを買わされたものだった。少しだけ、懐かしくなる。
「山城くんに秘密でポルックを買いたくてさ」
御口の言葉に、山城は一瞬ポカンとしたあと、肩を揺らして声を上げて笑った。
笑いすぎて目尻に滲んだ涙を指先で拭って、山城は「それは大事な任務ですね」と言うのだ。
「分かりました、行ってらっしゃい部長」
御口は帽子を取り、軽く肩をすくめて出ていった。理由は十分。そのパトロールに出るための理由に大層な意味はないのだ。
交番の前に停められた、画一地区二番通り派出所とシールの貼られた自転車へと跨り、御口はペダルを踏む。
重いペダル。
油を差してもペダルを踏むたびに、キコ、キコ、と軋む音が鳴る自転車。
自転車屋で修理を頼んでも買い直した方が早いと言われるほどの、オンボロ自転車だった。
ポルックが売られているヤンソンミートのある一番街とは真逆の三番通りへとキコキコ音の鳴る自転車で向かう。
一番街がある二番通りの整った様相とは違い、三番通りには香辛料と油の匂いが濃く漂っていた。
そこにあるのは、エスニック料理店やアジアン食品が多々置かれている店舗が並んでいる。
その一つ奥。
店舗の並びの陰に、ぽっかりと口を開けるようにスラムの入口はあった。
御口はその入口、路地へと立った。
「イスナー! 誰か、入口に立ってる!」
子供の声が、御口の耳を刺した。
まるで表にいる子供たちと同じような、明るい声だった。御口はまるで頭をガンと殴られたような心地がしたのだ。
路地の奥から足音が近づく。御口は思わず息を呑み、数秒の沈黙が落ちた。
その奥から出てきたのは、白に近い薄紫の髪に血を掬ったような赤い瞳をした青年だった。
身長は一七五センチメートルほどだろうか、薄く、細い体付きをしている。青年からは薄く、湿った泥のような匂いが漂っていた。
彼の白い指先には泥がこびりつき、御口のアイロンで糊の効いた制服とは対極の現実を物語っていた。
「表の奴が、何の用だ」
湿った路地に吸い込まれるような声が御口へと届く。御口の喉がごくりと鳴る。
御口は喉を鳴らしたまま、しばし口を開くこともできなかった。
「スラムを、正しに来た」
自分の口から出た言葉にすら縋るように、御口は背筋を伸ばした。
「……表の人間は、いつもそうだ」
イスナと呼ばれた青年の瞳には、感情の一欠片だって浮かんでいない。爬虫類や魚類のほうがよっぽど感情豊かだと、御口が思うほどだった。
「正しに来たって、どうするつもりだ」
イスナの静かな声は、まるで子供に言い聞かせるかのようにゆっくりと、湿った空気を押し出すように紡がれる。
御口のほうがよっぽど大人の体をしているにも関わらず、まるで子供のようだった。
「正しい言葉、正しい生活、正しい考え方、正しい生き方。それがどれだけ馬鹿らしいものなのかを分かっていない」
「どういうことだ、正しさとはこの世を生きるために必須のものだろう」
「言葉にしてみれば違和感にも気付くんじゃないか」
イスナはまるで余計な塵でも吐き出すようにそう言う。
路地の壁に体を預けて短くなった煙草を地面へと落とし、靴裏で踏みねじ消す。
路地裏の湿った匂いと、イスナの吐き出した煙草の紫煙が入り混じり、御口の呼吸は胸の奥でざらつくように滞った。
「正しい言葉、正しい生活、正しい考え方、正しい生き方。それで満たされる世界がどこにある。正しさで腹が膨れるのか、正しさで渇きは癒えるのか」
御口は渇いた唇を舐めて唇を開く。その脳裏には、正しく死んで行った狭山の姿が浮かぶ。
生きていた頃の狭山の姿が脳裏を掠める。
しばしの沈黙の後、御口は言葉を落とした。
「正しさで、人は救われる」
御口の口から乾いた石ころのように口から転がり落ちた言葉は、酷く掠れ、あまりに空虚だった。
「話にならねぇな」
「正しさは、人を救う! 正しさがなければ人は獣になるんだ! 人は正しさでのみ生きていける、カレルト教の教典にも、そう書いてある! 『人は正しさでのみ救われ、人は隣人を愛することで救いを見出す』と」
イスナは右目を眇めて御口の姿を見る。いままで感情の乗っていなかったイスナの瞳に、濃厚な嫌悪が浮かぶ。
イスナは吐き捨てるように、腐臭を嗅いだ獣のように、目だけで御口を切り捨てた。
「正しさは……人を救うんだ」
「話にならねぇ。ならその正しさで誰がこのスラムを救ってくれたんだ」
「政府からはきちんと支援金が……予算だって降りているんだ!」
御口の甘ったれた言葉に、イスナは目を眇める。
「そんなものがあるなら、何故だ。アイツらは下水を飲み、土を食い、虫を食い、ドブネズミを食った。親に腕や足を踠れて物乞いをさせられ、体を売らされ、盗みをして生きてきた。それを、正しさを口にする誰が救った。
その全てを、正しさが救ったのか」
イスナが言うスラムの状態に、御口は言葉を失った。
御口の、喉の奥が石を詰められたように固くなり、声が出なかった。
まるでそんな状況を想定していなかったとでも言うかのようだった。
そんな御口の様子を、壁に凭れて腕を組んだイスナはまるで虫を払うように鼻で笑った。
「誰が救える、救えねぇだろ」
静かなイスナの言葉が、御口を刺す。
静かだからこそ御口の心を刺すのか、それが御口には分からなかった。
ただ御口に分かるのは、目の前にいる青年がスラムを体現するような闇そのものが人の形を取ったような存在だということだけだった。
眼光は強く鋭く、ただ全てを睥睨し、静かな言葉で他を圧倒する。
御口は信じたくなかった。もしこの青年が本当に救ったのだとすれば、自分の正しさは何だったのか。
御口の信じる正義が、揺らぎそうなほどに、イスナの視線は強い。
「……君は、救えたのか」
「ああ、救った」
御口にはとてもではないが、信じられなかった。信じたくなかった。信じれば、自分が信じてきた正義が瓦解してしまう気がしたからだ。
泥水を啜りドブネズミや虫を食べていた者たちを、一体どうして救えたのか。
喉を鳴らして唾液を飲み下す。
御口は喉がカラカラだった。
イスナと対峙し、話し始めてからまだほんの数分にも関わらず、既に数時間も話したかのように精神が疲弊し、喉は砂漠のように乾き、肺は空気を吸い込むたびに砂を吐き出すように痛んだ。
このスラムの入口の前で、清潔な御口の服だけが場違いだった。
糊の効いたジャケット、清潔な白いシャツ、折り目の付いたスラックス、ピカピカに磨かれた革靴。左腕には銀色の腕時計まで付いている。
対するイスナは着古した黒いジャケットに汚れた白いシャツ、よれたジーパンを履いている。靴だけは革靴だった。まるで、スラムに溶け込みながらも、靴だけは表を踏んでいた。
スラムと表、二つの世界を繋ぐのは、ただその足元だけだった。
「君は、元々こちら側の人間じゃないのか」
「そうなら、どうする」
御口はイスナから間髪入れず返ってきた言葉に再び黙り込む。
ただ、同じ場所に生きていた人間ならば分かり合えると思っていたのだ。
よく分かったなと返され、そのまま愚痴を言い合い、また来いよと笑い、コーヒーでも勧められる。そんな優しさを、無意識に期待していたのだった。
表であれば、そういった建前だってあっただろう、しかしスラムは違うのだと、御口は胸倉を掴まれて地面に叩きつけられたような気分だった。
「もう良いだろう、早く帰れ」
イスナは振り返り、御口から顔を背け、暗いスラムへと歩を進める。それを止めることも、スラムに足を踏み入れることも、御口にはできなかった。
御口の心に変わらず生まれたのは、このスラムをどうにかするには、あのイスナという青年を御口の胸に残ったのは、このスラムを変えるには、あのイスナという青年を排さねばならないという、硬く重い意志だけだった。
御口は唇を結び、ただ背筋を伸ばした。
御口はキコキコと鳴る自転車に跨り、一番街のある方向へと走らせた。
その道中、御口を知る市民に、老婦人に「いつもありがとうねえ」と頭を下げられ、子供に笑顔で手を振られる、誰もが御口のことを「イルカにーちゃん」「イルカさん」と呼び、自分を頼る。
御口は胸を張った。これこそが日本皇国の国民があるべき姿だと思うのだ。
あのスラムに住む人々はおかしいのだと、良くない姿なのだと一層強く思う。
一番街へと向かい、ポルックを二〇〇グラム買った御口は、イスナのあの射るような視線を思い返し眉根を寄せる。
あんな目をする人間は、この日本皇国にいてはならないとすら、御口は思ったのだった。
派出所へ戻った御口は、二つに分けて入れてもらったポルックの片方を山城へと渡す。
山城は笑顔で「ありがとうございます、お腹空いてたんです」と受け取った。
イスナの目には冷たい刃が宿っていた。だが山城の目は柔らかく笑っていて、それこそが御口の信じる正しい姿だった。
交番の机に置いたまま、ふと山城が頬張る姿を思い浮かべたが、その日はついぞ彼女がポルックを食べているところを見ることは無かった。
もっとも御口は、彼女が体型を気にして遠慮するかもしれないなんて、一度も考えなかったのだ。
御口の正義に、他者の小さな葛藤が入り込む余地はなかった。
ポルックは、御口にとって正義の勲章のようなものだった。だが、それが誰かにとって重荷になるかもしれないことに、彼は気付かない。




