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スラムに王は生まれる  作者: 田中
第一章
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第二一話 大切なこと

 スラム──園路国は豊かになっていた。

 初夏には麦が金色の穂を付け、風が揺らしてサラサラと音を鳴らし、秋の終わりである一一月には大豆が金色に変化して風に吹かれてカラカラと音を立てる。

 季節が巡り、畑は違う顔を見せていく。


 いままでのスラムと違い、卵や肉を口にでき、綺麗な水を飲めるようになった。

 清潔な水が大量に必要になる風呂に毎日のように入り、麻で作った服や草履も手に入る。

 イスナがやって来てからスラムは変わったのだ。


 だが、豊かさと共に緊張感は失われていく。

 命の危機が遠のいたことで、子供たちは新鮮な麦や大豆の一粒すら粗末に扱うようになった。

 時に投げあって遊ぶことだってあった。遊び盛りの子供たちは仕事を放棄することだってある。

 風呂の湯を使って水鉄砲をすることも、清潔な水を無駄にすることも珍しくはなくなっていた。


 かつては一滴の泥水を分け合い、麦粒を拾い集め、パン屋のパンを盗み死ぬほどに殴られてきた大人たちにとって、その光景は耐え難いものだった。

 そんな子供たちに、大人たちは徐々にフラストレーションが溜まり始めていた。

 彼らの行動を問題視した大人たちがシャチへ声をかける。


「子供たちがまともに働かず、豊かになった実りを遊び道具にしているんだ」


「アタシたちが生活してきた中で、こんなにも豊かだったことも、飲んで腹を痛めない水があることもなかった。だからアタシたちにとって、この豊かさはとても、貴重で変え難いものだ」


「イスナに、どうか聞いて欲しい。どうしたら子供たちが働いて、実りを無駄にしなくなるのか」


 大人たちは唯一の頼みの綱であるイスナへの橋渡しとしてシャチを選んだのだった。

 大人たちは次第に集まってくる。一人、二人、五人、一〇人と。

 スラムの大人たちのほとんどが集まってきたその現状に、シャチは頭をガリガリと掻いて深く息を吐き出した。

 そして左腕を腰に当てて鼻から息を吐いて「……分かった」と長い沈黙の末に呟いた。

 それは諦めでもなく、覚悟でもなかった。ただ息を吐き出した延長線に出た言葉だった。


「イスナがどう動くかは分かんねぇし、どう対応するかも分かんねぇからな」


「分かった、それでもいい、よろしく頼む!」


 大人たちの顔には喜びや安心感、安堵が見られる。シャチに頼めばもう安心だとばかりに顔を見合わせ微笑んでいる姿すらもある。

 大人たちの言葉に、シャチは板挟みになっている自分を少しだけ自分の小ささを笑った。

 シャチは長い紫の髪を肩から流して歩き出す。


 イスナが居を構えるビルの四階。

 階段を上がって行くと、彼の部屋の中から声が掛けられる。

 扉の無い入口からは、イスナの部屋がよく見える。

 木を切り出して作った机の上には教科書や専門書、地図までが広げられている。

 壁には農具が立てかけられており、その農具は土で汚れている。その、泥のついた農具を見てシャチの胸に誇らしさが膨らむ。

 隅にある木でできたベッドには麻で作られたシーツが掛けられている。


 イスナが人間らしい生活をして見せることで、スラムに住む者がその真似をして生活するために、イスナの部屋は誰の部屋よりも設備が揃っていた。

 しかし、その中心にはシャチとサメが探してきた綺麗な段ボールに、柄の入った布が掛けられた玉座が未だに捨てられることも無く残っている。

 金でも銀でもない、捨てられた紙の玉座。それを誇りにするのが、この国の王と自分たちなのだ。

 それが、シャチは愛しかった。


 イスナがまだこのスラムに来たばかりの頃、遊び半分で見つけてきたものが、いまや誰も触れない象徴になっている。

 イスナの部屋は、紙の乾いた匂いと、土の湿った匂いと、煙草の苦い匂いが一つに溶けていた。


 イスナは誰よりも働く王だった。

 だからこそ、シャチはイスナを信用し、信頼しているのだ。

 トイレを汲み上げて汚物に塗れながらも肥料を作り、川底の泥を掬う。

 イスナの元は労働を知らなかった、綺麗だった爪の間には泥が黒く残り、皮膚は水や土に長く触れていることで硬くなり、荒れている。


「シャチか」


「よく分かったな、俺だって」


「足音がしたからな。どうした?」


 イスナの部屋は、スラムの中を一望できた。綺麗にコンクリートが塗り直されたビルに、土を押し固めて作られた道。

 畑は区画分けされ、麻と大豆が美しく風に揺られている。

 その中で子供たちが鬼ごっこやケンケンパをして遊んでいるのが見える。


「イスナ、大人たちが、不満を漏らしてる。子供たちが食いもんを粗末にしたり、水を粗末にしたり、仕事をしないって」


 シャチの言葉を聞き、イスナは硬いベッドに座る。

 木で作られた硬いベッドの上へ座ると、ギシッと軋む音がする。僅かに生成が残る、清潔な麻の布が掛けられただけのベッド。

 イスナは一瞬黙り、窓の方をチラと見つめる。空は青く、澄み渡っており白い雲が柔らかく浮かんでいる。


「詳しく話せ」


「……子供たちがまともに働かずに、実りを遊び道具にしていると。どうしたら子供たちが働いて実りを無駄にしなくなるか、力を貸してくれって」


 イスナは短く「なるほどな」と言ったきり、少しの間口を閉ざした。

 シャチには、その数秒がやけに長く感じられた。

 顎に触れる指先は土で僅かに荒れており、赤く焼けた肌に黒く煤けた部分が浮かんでいる。

 シャチには、窓の外の子供の笑い声が、妙に遠くに感じられた。

 その沈黙ごと、言葉に重みが宿る。


「イスナ、どうする?」


「子供には、言っても分かんねぇことがある。その最たるもんが恵みと他者の憎悪だ」


「なら、そのままにすんのか?」


「いや、思い出させるんだよ。渇きと飢えを」


 イスナの言葉に、シャチは目を瞬かせる。シャチの耳に、その言葉はどこか鉄のように重く響いた。


「飯食わせねぇってこと?」


「いや、ほんの数年前まで食えなかったことを思い出させりゃ、それでいい」


 イスナがベッドから立ち上がる。

 その動きに連動するように、硬いベッドの板が小さく軋んだ。そのイスナに、シャチは思わず背筋を伸ばした。

 イスナの革靴の踵が、硬く塗り直された床を叩く。その音はスラムの誰のものとも違う、外から来た王の響きだった。

 シャチはその背を見つめながら、胸の奥で思う。


──やっぱり、イスナは王なんだ。


「行くぞ、シャチ」


 黒いジャケットを翻し、四年の間に少し長くなった白に似た薄紫の髪が靡く。

 イスナが階段を降りていく。

 階段を降りるだけなのに、それはまるで、王の凱旋のようにも見える。


 そんなイスナの姿に、シャチは自分が彼に従っている事実を誇らしくすら思っていた。

 地面へと降り立ったイスナが畑へと向かう。


「あ! おーさまだ!」


「イスナ!」


「おーさま、どうしたんだよ!」


 声が幾重にも重なり、畑の中に響き渡る。小鳥の囀りのように絶え間なく声は響く。

 イスナはその声に応えることなく、ただ爬虫類よりも無感情な瞳で子供たちを見下ろす。その視線は冷たさでも優しさでもなく、ただの“無”だった。

 まるで、感情の色が一切映らない湖面のような瞳。

 イスナの姿を見た、遊んでいた子供たちが、畑仕事をしていた子供たちが走ってイスナに寄ってくる。


「お前ら、いまは楽しいか?」


 イスナの問いに、子供たちは意図が見えず互いに顔を見合わせるも、それぞれが声を上げる。


「楽しい!」


「寒くないし、足も痛くないし、最高!」


「イスナのおかげだよな!」


「毎日ご飯食べれて、ひもじくない!」


 子供たちの声が次々に重なり、歓声のように畑へ響く。彼らは一斉に口々に叫び、その笑い声と歓声が渦のように畑を満たした。

 イスナはその声を黙って聞き、短く鼻を鳴らした。その音は賞賛でも叱責でもなく、ただ事実を受け止めたような響きだった。


「なら、どうしてお前らは糧を、恵みを無駄にする」


 その言葉に、子供たちの笑顔が一瞬曇り、互いに笑おうとして、でも笑えずに口を閉ざし、互いの顔を伺う。


「無駄……?」


「麦や大豆を投げ合い水を無駄にし、糧を得るための仕事をせずに遊んでいる。それは何故だ」


 イスナの言葉に、少年たちは気まずそうに顔を見合わせる。


「だって、イスナ。遊んでるほうが楽しいし」


「飯食えてさ、あったかいとこで寝れて、遊べるって、すごい幸せだろ」


「だってさ、だってさ、楽しいんだよ。ひもじくないし、動けるくらいお腹がいっぱいなんだ」


 彼らは口々に叫んで、声が重なり合い騒がしいほどだった。

 響く子供たちの声に、大人たちが互いに顔を見合わせ、小さなざわめきが生まれる。

 イスナは返さない。ただ煙草の先に火を灯し、静かに紫煙を吐き出した。

 その場の熱気を冷ますようにイスナの持つ煙草からは紫煙が立ち上る。


 大人たちは、このスラムで育ちその中で遊んだ記憶などなかった。ただ、飢えと渇き、そして動けないほどのひもじさだけが、このスラムにはあったのだ。

 自分たちが経験できなかった少年時代を、彼らは経験しているのだと。羨ましさと苛立ちがないまぜになった感情が、大人たちの胸を焼いていた。


 しかし、それに大人の中の一人がゆっくりと息を吐き出す。


「なあ、俺たちが経験できなかったからって、それを子供に押し付けるべきじゃ……ないんじゃないか」


 声を落とし、諭すように語る声がその場に落ちる。


「だが! そんなのは、おかしいだろ。イスナが決めたことに反してる!」


「そうだ、王の決定を曲げるのは間違いだ!」


 まるで王の言葉を語り扇動するように激しい声が熱っぽく響く。


「でもさ、俺たちができなかったことをしてるからこそ新時代が訪れてるって証明にもなるんじゃないか」


「分かんねぇよ……」


 大人たちが顔を見合わせ、腕を組んで首を振る者、拳を握り締める者達が言葉を重ね、悩むように口を噤む。

 イスナは、声を発さない。ただ、その様子を見つめている。


「なあ、イスナ。仕事はさ、俺ら大人がするから子供たちは手伝いをするってのはどうだ? もちろん、麦とか大豆を無駄にさせんのはやめさせるしさ」


「でもよ、それだと俺たちだけが働くことになるだろ」


「いいじゃねーか。年齢を決めて働くようにさせたら。一五歳から働くのはどうだ?」


「いいな、それならお前らも文句ないだろ」


 大人たちが言葉を重ねていくことに子供たちも頷き、「分かった!」と声を上げる。ざわついていた声が次第に一つにまとまっていく。

 最初は険悪だった空気が、少しずつ落ち着いていくのが、イスナの後ろに従っていたシャチにも分かった。

 イスナの一言からそれぞれが考え変化を促していくことに驚き、そしてまた一つイスナを尊敬する出来事が増えたのだ。


 シャチは、そこでイスナはやっぱり王様だ。と思ったのだ。


「これからは、糧を無駄にすんなよ」


 イスナの言葉に、少年たちは頷き「分かった!」と答える。

 子供たちは徐々に先程まで興じていた鬼ごっこやケンケンパへと戻っていく。

 鬼ごっこの声が、風に混じって再び響く。子供たちの楽しげな笑い声が畑に戻ってきた。

 大人たちが、それを微笑ましそうに、羨ましそうに見つめているのがシャチには分かった。

 しかし、それに何かを言えるわけでもなかった。


 新しいスラムの日常が、戻ってきた。

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