第二〇話 ヘラクレスへの憧憬と泥臭い正義
後輪が泥に嵌った大型バイクを後ろから押して、御口は額にかいた汗を拭った。
「山本さん! エンジン、どうですか?」
山本と呼ばれた二〇代半ばだろう、未だにリクルートスーツを着た男性は「空回りしてる!」と裏返りそうな声で言う。バイクのエンジンをふかして進もうとしても後輪が泥を噛んでキュルキュルと音を鳴らす。
御口が来るまでの間、一人でバイクを押したり引いたりしていたのだろう、彼の黒いスーツも埃と泥で汚れており、オールバックにしていた黒髪も乱れている。
季節はいつの間にか夏を過ぎて少し肌寒いほどになっており、街中にはセミではなくアキアカネが飛んでいた。
そんな中で泥濘に嵌ってしまったバイクを助けるため、御口はスラックスの裾を折り、腕まくりをしてバイクを後ろから押していた。
泥水がスラックスに跳ねて、冷たさが太腿にじんわり染みてくる。御口の頬にも泥が飛び、白く汚れを残していた。
涼しい季節にも関わらず、御口の額には汗が滲んでいる。汗が泥水と混ざり顎を伝う。
排気ガスのニオイが汗ばむ御口の体にまとわりつき、空回るエンジン音が響いている。
御口が巡査として交番に務め始めてから早いもので四年が経過しており、御口は巡査部長になっていた。
彼が昇進してから部下になった山城アザミはよく気がつく女性で、長い黒髪に大きな瞳をしていた。御口のことをイルカ部長と呼び、親しんでいるのだ。
濃い青色の制服に身を包んだ、まだ若い彼女に女性経験の無い御口はタジタジだった。
「イルカ部長! 大丈夫ですか?」
「ああ、山城くん。このバイクが泥濘に落ちてしまって、前から引っ張ってくれる?」
「分かりました、任せてください!」
そう告げた山城が、押す前にすぐ腕まくりをして泥に汚れることも気にすることなく、迷う素振りなく取りかかる。
キュルキュルとエンジンが空回りしている音を立てているバイクを山城と御口、前後に分かれて思い切り引き、押す。背中に泥の飛沫が冷たく弾ける。
泥濘に、御口が好んで履いているイタリア製のブランド革靴の靴底が沈みこみ、体の重みで泥がズブリと音を立てた。もちろん、汚れるのを承知で履いているが、それでもブラウンの革靴が泥に沈むのは少々心が痛むことだった。
ようやく一〇〇キログラム近い巨体がジワ……と動き、泥濘からその後輪が外れた。
腕が軋み、背中に汗が流れ、ようやく動いたバイクに二人の気が緩む。
「やりましたね、イルカ部長!」
「本当に、山本さん! 次はJAFに電話してもらいますからね!」
「わ、分かってるって……ありがとな、イルカさん、アザミちゃん」
山本は薄ら笑いを浮かべて、何度もペコペコと頭を下げて泥で白く汚れた黒い車体を気にすることもなく、まるで何事も無かったようにバイクに跨りすぐに姿が見えなくなった。
御口はこういった些細な事件から市民を救う度に思うのだ。
ヘラクレスだってなんでもないことを積み重ねていったんだ、その積み重ねが英雄としての自分を作るのだと、そう思うのだった。
伝説の英雄ヘラクレスも、きっと最初は泥に足を取られたのだろう。いまの御口のように。御口はそうに違いないと強く思った。
途中参戦だった山城よりも、御口の姿は散々だった。山城は涼しい顔をしており、腕が多少汚れている程度だったが、御口は全身泥まみれだった。
足元は捲っていたものの泥と泥水に汚れ、白かったり茶色かったりしており、その制服の前面は何度も空回りしていた後輪から飛んだ泥に汚れて真っ白になっている。
肘まで折っていた袖の内側も泥に汚れている。御口の外で働く人間らしい、白い泥が、日焼けた肌の上でひどく目立っていた。
しかし、御口にはその泥が勲章のようにすら映る。泥の染みが、金色のバッジと同じくらいに誇らしく思えたのだ。
「それにしても、大変でしたね部長」
「本当に、次は早くJAFに電話してほしいな」
「でも、部長ってこの区域の人に頼りにされてて羨ましいです。私も部長みたいにしっかりしないとですね」
「俺なんてまだまだだよ。制服が汚れたから着替えないとね」
その言葉に御口は、ますます自分が“正しい道”を歩んでいるように思えたのだ。
ふと、御口が汚れた自分の体を見下ろして苦笑を零す。
御口は代々警察官の家系であり、祖父が警視正に、父が警視の座にいたためか、まだ若い段階で巡査部長になることができた。
彼はその昇進の速さが普通のものであるとすっかり思い込んでいたのだ。御口の周りには“恵まれた”存在が多かったし、警察官の二世三世も酷くたくさんいた。父親の同期も叔父も、皆出世街道に乗っていたのだ。いまはみな、警視以上へとなっていた。
御口の耳には、同僚たちの苦労話は都合よく届かなかった。彼らも自分と同じだと、そうずっと思っていたのだ。
だからこそ、同僚が遅くまで残業している理由を彼は理解できなかった。
御口は、その昇進がコネによるものだなんて一欠片だって思っていなかった。
御口自身は、自分は正義の人であり、正義に反することはしていないのだと強く、強く信じていたのだ。
何より、御口は自らが恵まれているとも思っていなかったのだ。
交番へ戻った御口はタオルを用意して交番の前にある蛇口で手と足を濯ぎ、ロッカーの中に入れていた替えの制服へと着替える。
御口は、新品の制服が常にロッカーに用意されていることを、当たり前だと思っていた。
御口にとって制服は、ただの布切れではなかった。
それは正義の象徴であり、着替えることは信念を新しく纏い直すことに等しかった。糊の効いた襟が首筋を正すたび、御口は自分が再び英雄に近づいたように思えた。
糊の効いた制服へと腕を通し、首元を整える。
不意に、自分が巡査であった頃に巡査部長であった狭山はいまどうしているのだろうかと思いを巡らせる。
警察庁へ行ってるのだろうが、噂も何も聞かない。ただ、彼がこの交番にいた最後の日、狭山はいつも通り「駅前のコーヒーショップでフラぺぺ買ってきてくれ」と言っていた。
最後の日だとのに、狭山は変わらずそんな調子だった。
「御口、元気でやれよ」
静かな狭山の声を、御口は良く覚えている。
狭山は、警察官にしてはやや腹回りが膨らんでおり、御口からしてみればだらしない体をしていた。彼の体は、腹回りの膨らみでボタンが引き攣っており、ベルトの穴も二つ分伸びていた。
最後まで書類は散らかしっぱなしで、机の上はいつも紙と菓子袋で埋まっていた。
それに文句を言いながら片付けるのは御口の仕事で、狭山は「お、自主的に動いていていいね、若者は働くべきだ」なんて言っていた。
だからだろうか、狭山がいなくなった交番は同じ場所なのに妙に広く感じられた。机の紙も菓子袋も片付いているはずなのに、そこに狭山が座っている気がした。
自分は狭山のようにはならない。それは御口の心の中、中心にあるものだった。
泥臭い正義ではなく、光を纏った英雄になるのだと、御口はそう思っていた。
しかし、そんなだらしなくて嫌いだったはずの狭山の声が、なぜか今も耳の奥に残っている。
それは狭山がしっかりと正義に準じていたからだろうと、御口は思うのだ。
「イルカ部長! 警視庁からお電話です!」
表にいる山城が御口を呼ぶ。
「ああ、ありがとう」
着替え終えた御口が慌てて走り、裏のロッカールームから出てくる。彼の長い脚は慌てて走り出し、思わずもつれそうになった。
「ありがとう、山城くん。お電話代わりました、皇都画一地区二番通り派出所の御口鯆巡査部長です」
『どうも、警視庁の花町さかえ警部補です、普段であればこのようなお電話は差し上げないんですが』
静かな花町警部補の淡々とした声が、御口の鼓膜を震わせる。それに、御口は何故か緊張して乾いた口内を潤すように唾液を嚥下し、唇を舐めた。心臓がひとつ、打ち遅れたように感じた。
時計の音が、妙に遅く感じる。
この後の言葉を、聞きたくなかった。
「はい……?」
『警視庁の、狭山洋輔警視が殉職されました』
「……狭山さんは、警部補のはずです」
信じたくない言葉に、絞り出すような御口の言葉が漏れる。
そんな御口に、花町は『ええ、殉職されたので二階級特進しました』と、なんでもないことのように答える。
人が死んだことよりも、肩書きが優先されるのか。そんな思いが、御口の胸を刺した。
まるで死亡宣告よりも階級の昇進こそが業務であるかのように。
狭山の死を告げられた御口の脳裏には、狭山の「駅前のコーヒーショップで新作のフラぺぺ買ってきてよ」という言葉が何度もリフレインする。
長い時間を一緒に過ごしたのに、思い出すのはそんなことかと、御口は笑いそうになる。
「狭山さんは、どのように亡くなったんですか」
『この間の立てこもり事件、ご存知ですか』
「はい、恩座地区であった犯人二人が八歳の女の子を人質にして立て篭もった事件ですよね」
『ええ、その事件です。その事件で少女の盾になった刑事が一人死亡したとニュースにはなったかと思います。その刑事が、狭山洋輔警視です』
狭山の声が、まだ聞こえる気がして、御口は、深く深く、肺の中の呼吸を吐き出した。
「そうですか、……ありがとう、ございます」
『いえ、それでは』
受話器の向こう側から、電話が切れたツーツーという音が聞こえてくる。
御口は受話器を置いてからデスクへと座り、頭を抱える。机に散らかった書類が、視界を埋めた。それを片付ける人間は、もう狭山ではなく自分なのだ。
それはまるで、狭山の残像のようにすら見える。
「イルカ部長、大丈夫ですか?」
「……ああ、うん。大丈夫だよ」
掠れた声が御口の口から零れる。
御口は、狭山が好きではなかった。どちらかと言うと嫌いだっただろう。
いい加減で、正義の執行人とは言えないような人だった。それでも正義に殉じた人だったのだ。
声を出すと涙になりそうで、鼻から深く息を吸い込む。
鼻の奥がツンと痛んで、目の奥がじんわりとぬるく熱くなった。
下を向いた御口の眦から涙が零れる。
狭山の、その正義は御口が夢見た英雄像とは違う、あまりにも泥臭いものだった。
けれど、実際にその行動で狭山は人を、未来を託された少女を守ったのだ。
デスクにポタポタと落ちる御口の涙を、御口はまるで他人事のように見つめた。
手指を組み、ギチギチと音が鳴るほどに握り締める。
御口は英雄になりたかった。泥臭い英雄ではなく、スポットライトを浴び、拍手喝采を受ける、誰もから素晴らしいと賞賛される英雄に、自分の父や祖父のようになりたかったのだ。
しかし、そこで御口は思う。
泥臭さの中にも、確かに英雄の形はあったのだと御口は初めて知った。だからこそ彼は英雄的な行動を取れるような、そんな正義の執行人になりたいと思ったのだ。
そんな御口の姿を、山城は声をかけることもできずに、じっと見つめていた。まるで、彼の姿を忘れないようにするかのように。その背中を、胸に刻み込むかのように。




