第二話 王の器と呪いの言葉
凍砂の母が彼女の部屋で首を吊ってから、東雲家の屋敷の中は妙に広くなった。
親子二人で同じ食卓に座っていても、凍砂と父との間には壁よりも氷河に浮かぶ氷よりも厚い沈黙があったのだ。
家の中に敷かれている毛の長い赤い絨毯の上を歩いていても、凍砂の足音はやけに冷たく響くような気すらしたのだ。
温かみのある赤色であるはずの絨毯は、血の色にも見える。その赤は凍砂の瞳と同じく、家族の中でただひとつ異物として浮かんでいた。
母のいない食卓は、妙に空々しかった。元より誰も話すことの無い食卓ではあったものの、それにも増して言葉は無く、使用人たちも目を伏せて、食器を置く音すら立てない。
ただ、凍砂だけが返事すら無い父へ学校であったことを口から音として落とすばかりだった。
その言葉は伽藍のように広いダイニングに響くこともなく、誰にも届かず埃ひとつ落ちていない床に落ちてゴミとして捨てられていく。
父親がそれに反応することもない。
東雲家の当主とその妻は元より政略結婚であり、愛など無い家庭ではあった。
なにより、父は母の死にも世間体を気にする反応をするばかりだった。共に過ごしていた人を失ったにも関わらず、父の背中は空虚で、家の中の温度は徐々に失われていく。
父の、背広の皺ひとつない背中が、広い屋敷の中で最も冷たい壁のようだった。
元々両手両足の指を足しても足りないほどいた使用人の数すら、徐々に減っていったのだった。
気が付けば、凍砂のことを気にかけていたほんの数人の使用人すら東雲邸からはいなくなってしまっていた。
気が付けば、食卓の皿を運ぶ音も、廊下を掃く音も、誰も立てなくなっていた。
凍砂の味方は家の中にすら既におらず、ただ嘲笑する声から逃げるようにベッドの中で目を瞑り耳を塞ぐ日々だった。
それでもなお、凍砂は勉強も武芸もスポーツも、決して手を抜くことはなかった。せめて何か、一言でも褒められたならば凍砂はそれで良かったのだ。
これまで生きてきた中でただ一言すらも貰えず、話しかけられたことすらほとんど無く、まるで透明人間のようだった人生の中でただ一言、「よくやった」とだけですら貰えたならば、凍砂はそれから先の人生を安寧と共に生きていけると、そう思っていたのだ。
凍砂は、一度でもその言葉を聞けたら、きっと何十年でも生きられると思っていた。
そんな中で、凍砂は当時通っていた帝政学園の中、唯一の友人であった両儀園路から煙草を教えられたのだった。
それは、ソフトケースに入った両切りのPeaceだった。両切りの煙草は安価で、安価な煙草は学生が手を出しやすいためによく出回っている。
凍砂の白い指でソフトケースから抜き取られた一本は、祝福のようにも呪いのようにも見えた。
園路に教えられた煙草はしかし、その紫煙は、凍砂にとって大人の真似事にしても美味いとは言えず、ただ苦くて、胸の奥に穴を開けるだけだった。
「おーい、凍砂! これ、使えよ。センパイが作ったんだ」
そう笑いながら言った園路から渡されたのは、凍砂のやや解像度が低い証明写真が貼られた偽造身分証であり、成人を偽証するためのものだった。
官僚や政治家、マスコミの二世三世が通うその帝政学園の中で園路は珍しく、平民の家系から入学した生徒だった。
「昔は貴族だったんだぜ、俺の家系」
園路は凍砂にそう言って笑っていた。彼の前歯が一本欠けた顔は、笑うとより目立ったが、園路自身はそれを一切気にしていなかった。
むしろ、その前歯を「俺のチャームポイント!」などと言っていた。
凍砂は、園路の出自を決して笑わなかった。ただ、その園路が話す言葉を、どこか羨ましげに聞いていたのだ。
凍砂は彼の両親の話、両親が恋愛結婚だという話だって聞いたし、親戚とおいかけっこをしたり、ゲームをしたという話、大掃除をした時にサボって怒られた話だって聞いたのだ。
それらは全て、凍砂が背伸びして得られなかった自由だった。その自由を、園路は最初から持っているように見えたのだ。
しかし、そんな園路は帝政学園に通う中で何度も苦難に遭遇していた。園路の上靴は何度も生ゴミが入っているようなゴミ箱や汚泥の中から見つけられ、教科書には落書きがされ破られていることすらあった。
彼は平民出身だと笑われ、「元貴族ってただの没落だろ」と揶揄される。
それを園路は笑ってやり過ごしていたのだ。
体育館裏やトイレで園路は殴られ、蹴られ、「身分違いのくせに同じ学校に通いやがって!」「豚小屋のニオイが移る」とバカにされる。
それは既にいじめですら無く、暴行と言うべきものだった。
しかし、庶民のために学園は動かない。学園長が動くのは上流階級の生徒のためだけだった。
帝政学園の中で園路は、存在しない透明人間のようなものだった。
凍砂も、園路と同じようにいじめられてはいた。
しかし園路とは違い、彼はその容姿を揶揄され、差別され、東雲家の貰われ子などと言われるのが常であった。
そのいじめも、学園長は何を言うこともない。何故なら東雲家は学園に対して何も言わないのだ。凍砂が何をされようとも、東雲家の当主は興味が無いのだ。
いっそ、いじめられて死んだとて東雲家の当主は気にすらしないだろう。
園路が殴られていても、教師は窓を閉めて見なかったことにし、凍砂が机に落書きされても誰もその机を交換しない。
透明人間にされる園路と、透明人間にされる凍砂は、生まれの差こそあれど似た者同士だったのだろう。
制度も、家も、学園にいる大人の誰だって二人のことを守ってはくれないのだ。
暴力を振るわれ、血が滲んだ体で園路は凍砂と話す。
「痛ぇよ、ひっでぇよなぁ。こんなめちゃくちゃに殴りやがって」
凍砂へと不満を零し、園路は地面に血混じりの唾を吐き出す。アスファルトに僅かに赤色が混じった唾液が潰れ、広がる。
それを、凍砂はただ見ているだけだった。
「ごめんな、守れなくて」
小さく呟いた凍砂の言葉に、園路は笑って「気にすんなよ、俺ら、友達だろ」と笑うのだ。
その言葉は、救いにも関わらずまるで呪いのように凍砂の体を縛って動けなくしてしまうのだ。
園路はある日、凍砂に持っていた全ての煙草を渡した。ソフトケースに入った両切りのPeace。平和の名を冠する、煙草。
オリーブの葉を咥える鳩のデザインが輝くパッケージ。
それはまだ新品の、封を切っていないものまで。
「お前はさ、吸っといてくれよ。俺の分まで」
唇の端を切って血を零したままに言う園路の、掠れた言葉に違和感を覚えた凍砂は、けれど「ああ」と頷いて終わらせてしまったのだ。
園路は翌日、川から冷たくなった体で、引き上げられた。
まるでマネキンのように白く色を失った体で河川敷に倒れていたところを、釣り人に発見されたのだと言う。
彼が飛び込んだと思われる橋には『遺書』とだけ書かれた罫線のない、破れたノートの切れ端と、それを押さえていた石だけが残されていた。
その『遺書』の文字に、凍砂は衝撃を受ける。喉の奥が焼けつくように痛んで、息が詰まった。
それは、凍砂の知る園路の字では無かった。
園路の死体には、彼が好んで履いていたスニーカーが履かされており、明らかに自殺ではなかった。
それは、園路の妹や弟たちが小遣いを貯めて贈ってくれたもので、彼がいつも大切そうに紐を結び直していた、擦り切れたスニーカーだった。
しかし、遺書も出ており、不自然に靴が履かされていた園路の死は、自殺でも他殺でもなく、ただ“事故”として処理されたのだ。
マスコミは「不慮の事故で帝政学園の生徒が亡くなり」などとセンセーショナルにがなりたてている。
その一方でニュースキャスターは、抑揚なく園路の死を読み上げていた。
ここですら世間体が優先されるのかと、凍砂は怒りすら覚える。
しかし凍砂は、何よりも自分にどうしようもないほどの怒りを覚えたのだ。
あの時、頷くだけじゃなくて問い詰めていれば、俺が笑って誤魔化さなければ、園路は、まだ生きていたんじゃないか。
それはただのたらればではあったものの、考えれば考えるほどに凍砂の心を凍てつかせ、そして傷付けていく。
園路の葬儀には、学校関係者の誰もいなかった。教師も、生徒も、学園長ですら。誰もいなかった。
祭壇の前に並ぶ椅子は二〇脚。埋まったのは、たった五つだけだった。
ただ一人、凍砂だけが友人として参列し、その参列者の少なさに彼は滂沱と涙を流したのだ。
声をあげることもできず、ただ水のように流れ落ちる涙が膝を濡らしていった。
あの、おおらかで、優しく、他者のことを自分事のように受け止めるような奴の死が、たったこれだけの人数にしか受け止められないのかと。
棺の中に横たわった園路は、あの歯の抜けた笑顔も無く、ただ青白い顔で眠っているかのようだった。
「そのじと、仲良くしてくれてありがとう」
園路の母親から告げられたその言葉に、凍砂は何を言うこともできず、ただ唇を噛む。
目を見開いても、眦から零れる涙を止めることすらできなかった。
──友人一人、救うことのできなかった俺が、園路を友人だと言ってもいいのか。
その言葉を、凍砂は口にできなかった。園路によく似た園路の母親はそれに「もちろん、あなたは園路の友人よ」と言うだろうことは想像に難くなかった。
そう言われ許されれば、凍砂は一生自分のことを許せなくなると思ってしまったのだ。
その日のうちに墓へといれられた園路に会いに、凍砂は墓地へと向かう。
「お金が無いの」
そう恥ずかしそうに呟いた園路の母親は、彼のための墓など建てることもできず、代々続く墓の代金すらも払うことすらできず、土地は取り上げられ、泣く泣く彼を共同墓地へ眠らせたのだった。
名札もなく、番号だけの木札が寂しそうに風に揺れていた。白木の札は風雨に晒され、墨で書かれた数字がもう滲んでいた。
それに、凍砂は愕然とする。足がもつれて土に手を突き、その爪と指の間に土が入り込み黒く汚れる。
しかし、言葉すら出なかった。
金が無いと、死すら辱められるのかと。
「なあ、園路。お前さ、自分が死ぬの、分かってたのか?」
寒くなり始めた冬の始め、誰も墓参りにすら来ない共同墓地の前に座り込んで凍砂は問い掛ける。
返事は、無かった。
園路から受け取った新しい煙草の封を切って一本咥え、火を付ける。
煙草の先から伸びる紫煙だけが、風に揺れながらも、まっすぐに空へ伸びていった。まるで園路が最後に「行け」と背を押しているように。
煙だけが、園路の死を悼むように空へと立ち上っていく。
空と凍砂のあいだを、ただ紫煙だけが静かに繋いでいた。
──凍砂はさ、王になる器だよ。
──笑ってんなよな、ほんとに思ってんだからよぉ。
そう笑う、園路の姿だけが凍砂の脳裏に映る。
前歯が抜けた園路の、間抜けな笑顔が凍砂は好きだった。これから先も園路とは永遠に親友であると、凍砂はそう思っていたのだ。
家に戻った凍砂を迎えたのは、警察と報道陣の群れだった。
まるで野犬が兎を狩るようにギラギラとした目で、我先にとカメラマンが押し合い、リポーターが声を上げている。
門の前に立つナナテレビのリポーターが喚き立てる。
「優秀な政治家として最も注目されていました東雲秋斉氏の汚職が発覚しました! 地下カジノで得た莫大な金を、天下り企業であるサカイ石油工業でマネーロンダリングして使用していたとのことです!」
家の中から警察官に挟まれて出て来る父親の姿が、凍砂の目に映る。
彼はまるで、何も悪いことなどしていないかのように堂々と背筋を伸ばし、糊の聞いたダークグレーのスーツを見に纏い、口元をしっかりと引き結んでいた。
カメラのフラッシュが東雲家当主へと雨のように降り注ぎ、手錠を掛けられ腕に白い布を被せられた父親へ、矢継ぎ早にマイクが突き出される。
警察官に挟まれて歩く父親は、その時ですら凍砂のことを見ることは無かった。
彼は、何も言わず眉一つ動かさずに連行される。何も悪いことなどしていない。そう言うかのような背中だった。
彼のその姿勢は、まるでこの場所に凍砂という存在自体が、存在しないかのようだった。
この瞬間に凍砂は、家も庇護される立場をも失ったことを、否応なく理解させられた。
唯一の友を失ったその日に、凍砂は全てを失った。
その時、東雲凍砂の世界は終わったのだ。
──だからこそ、イスナは王にならなければならなかったのだ。
王に、なるしかなかったのだ。