第一九話 時を識る人
シャチは朝になるとイスナの部屋の前、通称“王の間”の前に座って彼の目覚めを待つ。
ただ座っているだけなのに、胸の奥が静かに昂るような時間だった。
少し経つと、サメが起きて同じようにシャチの隣に座ってイスナの目覚めを待つのだ。日が差し、風が心地好く吹き込み鳥達が鳴いて、ようやくイスナは目覚める。
イスナがやって来てから、このスラムは随分と変わっていた。
淀んだ空気の中日の差さなかったスラムには、いまでは柔らかな太陽の光が差している。
どぶ川は植えられた蒲のおかげで浄水されて飲料水にも困らなくなっており、黄金に輝く麦の収穫が終わると、その土地に大豆を植えて食糧を得るようになっていた。以前はこのスラムの中をどんなに水を探しても泥水しかなかったのだ。
既に飢饉への備えとして畑近くのビルには、スラムの人間が二年は食べていけるほどの備蓄があった。
誰もが初めて、いつ訪れるか分からない空腹の不安から解放されたのだ。
「なあサメ」
シャチが自分を呼ぶ言葉に、サメは兄を見る。
昔は苛烈な性格でサメのことを虐めることも多かったシャチは、イスナが現れてからはイスナの傍付きのような仕事をするのに忙しく、サメを虐めることはなくなっていた。
「なんだよ、兄ちゃん」
サメはシャチを兄と呼ぶ。
彼らは同じ場所に捨てられていたのだと、彼らを育てた年老いた夫婦にそう言われた。
シャチが最初、次にサメ。彼ら一人でも育てるのは大変だっただろうに、ここまで育て上げてくれたことに、シャチもサメも言葉にしないまでも感謝していた。
シャチは昔サメに、一度言ったことがあった。
「俺たち血は繋がってねぇけど、同じ場所に捨てられてたんだろ? だから兄弟だろ」
同じ老夫婦に育てられたからだけでなく、シャチがそう言ったからこそ、シャチのことをサメは兄と慕うのだ。
そして何より、彼らは髪と目の色こそ違えど同じような顔立ちをしていた。
細い輪郭に一重の涼し気な目元、高く整った鼻梁に薄い唇。あまりにも似ていて、彼らは自然と、自分たちは兄弟なのだろうと思っていたのだ。
彼らは、似ているのが当たり前すぎて、疑問に思ったことすらなかったのだ。
「イスナって、すげーよな」
シャチの言葉に、サメは静かに兄を見てから、そしてイスナの部屋を覗くように見て、自分の目の前にある壁を眺める。
イスナがこのスラムへやって来てから、既に四年が経過していた。
もう四年と言うべきか、まだ四年と言うべきか、サメには分からなかった。けれど、来てすぐのあの日イスナを虐めていた子供たちはもう、イスナを虐めようなどと思わない。
彼は、ついていくのに相応しい王だったのだ。
サメはそうして静かに言葉を考えるようにゆっくりと目を瞬かせて、それから口を開く。
スラムの現状は変わっていた。イスナという王の力で。
「うん、イスナは、すげーおーさまだよ」
シャチとサメはいつの間にか字が書けるようになっていた。いまは、イスナから漢字を倣っている。
イスナが冗談を言うように「漢字は一〇〇〇字はある」と言った時、シャチとサメはひっくり返りそうになった。
それにイスナは「冗談だ」と告げて、「本当は二〇〇〇字以上だ」と言ったのだ。
イスナは、いつだって全ての知識をシャチとサメに教えこもうとしていた。分からないと言っても、イスナはそれをバカにすることはない。
スラムではスラムの子が知っていることを知らないと言えば馬鹿にされるのだ。
イスナは、漢字を教える時に静かに言ったことがある。
「これから、徐々にこのスラムも忙しくなっていく。畜産も、農業だってある。どちらも二四時間気を配る必要がある仕事だ。だが、覚えておけ」
静かなイスナの言葉を、シャチは忘れることなど無かった。
「忙しいって字は、こう書く。りっしんべんに、亡失の亡だ。これは、心を失うという意味でもある」
イスナは、そこで彼のトレードマークでもある煙草から紫煙をくゆらせる。
イスナの説明に、サメは言葉を飲み込み、シャチはただその紫煙の行方を目で追った。
「心を失わず、忙しくても必要なこと、大切なことは忘れんなよ。忘れるも、心を亡くすと書く。心を亡くすほどに忙しくなれば、大切なものを忘れることになる」
「大切なものって、例えば?」
「勉強とか、飯の作り方とか、麦の育て方とかか?」
「……勉強も、飯の作り方も、文字も、麦の育て方も、もちろん大事だ。だが、本当に大切なモンはもっと単純だ」
イスナは、一文字一文字を区切るように、何か大切なものを抱き締めるように言葉を紡ぐ。
彼の言葉は深く静かで、その顔には笑みの影すら浮かばなかった。
「本当に大切なモンってのは、心の一番真ん中にある。兄弟や、友達、そういうモンを大切にする心だ」
イスナがそう言ったのは既に一年半は前で、シャチもサメも未だにその言葉の意味を完全に理解はできていなかった。イスナって難しいこと言うな。と、そう思った程度だった。
彼らにとって、兄弟も友達もいるのが当然だったからだ。もちろん、ほんの少しの傷で死ぬことだってある。昨日まで遊んでいた子も、熱を出した次の日にはもう帰ってこない。そんな世界だった。
でもそれは、彼らが弱かったからだ。
だからこそ、彼らは理解が及ばなかった。それでもイスナの言葉を覚えるように数度ゆっくりと瞬きをする。
木片に言葉を書き残すこともしなかった。ただ、この言葉は心に刻むべきだと、そう思ったのだ。
イスナがこのスラムへ来てからいつの間にか四年が過ぎていた。その時間の数え方も、イスナが教えてくれたのだ。
五回太陽が昇るのを七三回で一年になるのだと。
イスナがこのスラムへ来るまでは、一日の感覚はあれど、それが積み重なって一週間や一ヶ月、一年という時になるなど誰も考えたことすら無かったのだ。
彼らにとって、時間は“今日”で終わるものだった。
スラムにいる誰も彼もが、“今日”を生きるのに必死で“今日”が積み重なり“明日”へと続き、その“今日”が“昨日”へ変化し、積み重なった“昨日”が過去へ、“明日”が未来へ変化するということを、彼らはその時初めて知ったのだ。
昨日は泥と飢えだけだった。でも今日にはパンがあり、明日には麦が育つ。
イスナが「明日には麦を植える」と言った言葉は、ただの言葉ではなく、未来への約束で未来への礎だったのだ。
シャチは、知らなかった。未来という存在を、それを語る言葉を。
未来を語る彼の横顔に笑みはなかった。
スラムに生きる者にとって時間とか“いまこの時”が重なるだけのものだった。
そこに過去も未来も無く、ただ時間だけがそこにあるのだ。
シャチは思うのだ。
穏やかな今日を、流れる明日を、過ぎ去っていく昨日をスラムに生きる誰もが愛することも無かった時間を、自分が愛しく思おうと。
イスナが教えてくれたこの、“時間という概念”そのものすらをも、愛しく思おうと、そう思ったのだ。たとえ誰も気づかなくても、自分だけはと。
──もしも、世界中の誰もがイスナを信じなくなったとしても、自分だけは信じよう。自分だけは傍にい続けよう。
もしも、イスナがこの園路国から消えたとしても、彼の選択を尊重し続けよう。
それは誰に聞かせるでもない、たったひとりの決意だった。
シャチは、祈りにも似たその考えを胸の中にそっと抱き締める。
宗教家が説いた言葉はすぐに忘れた。けれどイスナの言葉は忘れられなかった。
シャチは宗教を理解していない。時折、表にいた宗教家がスラムへ宗教を広めようと訪れることもあった。
しかし、神ラ・ルーダーという名を聞いても理解はできなかった。
シャチの中に存在するのは弟とスラムの仲間たちだけで、見えないけれど存在する審判者などというものは良く分からなかったのだ。天から見下ろす誰かより、隣にいるイスナの方がよほど真実だった。
「今日の勉強はこれで終わりだ、仕事の手伝いしてこい」
イスナが木炭を段ボールの上へと置き、授業の終了を告げる。
それにサメはぐいっと体を伸ばして立ち上がる。
「イスナ、今日もありがとな! 俺、今日牛の世話らしいんだよな、楽しみだ!」
サメはズボンを上げて走り出す。
草鞋に、麻のズボン。スラムの子供たちは随分と小綺麗な姿になっていた。
綺麗な水が手に入るようになり、体を清めることができるようにもなっていた。かつては泥と垢で皮膚病になる子も多かったのが、衛生的になっていったのだ。
黒く汚れた顔も、伸びっぱなしの髪も、綺麗に整えられていた。
シャチにはそれが新しい夜明けのようにも思えた。
ガラスの嵌っていない窓から日が差してサメの背中を照らしている。
サメの着ている麻の僅かに生成が入る白い服が日を反射して目を焼く。
「なあ、イスナ」
「なんだ」
シャチの言葉に、イスナの静かな声が返る。イスナの声音はいつでも柔らかかった。硬さがあるにも関わらず、どこか柔らかさのある声は、まるでイスナという“矛盾”を表すかのようだった。
「あのさぁ、この国、すごい良くなったよな。イスナのおかげだよ」
シャチがそう言うと、イスナは両切りを咥えたまま、火も付けずに外を見つめる。
笑っても泣いてもいない、石のような横顔が日差しに照らされている。
大豆畑へと変化した、二毛作の畑。その周囲で子供達が笑いながら鬼ごっこをしている。麻畑では大人達が手入れをしているのが窓から見える。
川では水を汲み火にかけている子供もいる。木で作った簡素な風呂に水を汲み上げて下でごうごうと火を燃やすのだ。
牛舎や鶏舎では餌と水をやり、その体を丁寧に梳いてやっている姿すら見える。最近は卵も採れるようになり、子供たちの食事事情も十分に良くなっていた。
子供たちの、げっそりと痩せていた体もいつの間にかふっくらとしていた。
その景色を眺めて、イスナは深く息を吸う。ゆっくりと瞬きをしたイスナの目に、何が見えているのかシャチは知らない。
「いい国に、なってきたな」
イスナの手の中でマッチが擦られ、咥えた両切りに火が灯される。灯った小さな火が、窓の外の陽光と重なった。
イスナが変えたスラムは、この灯火から始まったのだと、シャチは思い返す。
シャチには、その火がこの国の心臓の鼓動に見えた。
二人きりの部屋の中、シャチはイスナを眩しく見つめる。ただ、窓から差し込んでくる光が眩しいのか、それともイスナが眩しいのか、シャチには分からなかった。
その刹那、シャチには世界が止まったように思えた。




