第一七話 創国の日
「なあ、イスナ」
サメがイスナへと言葉を掛ける。
対面に座ったイスナが、火をつけていない煙草を咥えてサメとシャチへ文字を教えている。
壁に差し込む光が、黒板代わりの壁を照らしていた。灰色の壁に、木炭が黒く染まっている。
以前、「何故自分とシャチにだけ教えるのか」とサメが聞いたことがあった。その時、イスナは興味の薄い瞳でサメを見つめた。サメの、赤が滲んだ瞳が僅かにたじろいだのだ。
そして、彼が言ったのはただ「お前らが教えろ」という一言だった。
「なんだ」
文字を並べながら、サメは以前から気になっていたことを口にする。
「あのさ、この、にほんこーこくって戦争に勝った国なんだよな」
「ああ、そうだな」
イスナが目を逸らさずに硬く整った文字を書き、その読みと書き方を教える。
未だ平仮名とカタカナだけの、簡単なものだ。
「なんで、戦争に勝ったのに、俺たちってこんな場所に押し込められてんの?」
サメの言葉に、手を動かしていたシャチも興味を惹かれたように視線をサメとイスナへ向ける。
その言葉は子どもっぽい疑問のようでいて、場を支配する鋭さがあった。
そんな二人の様子にイスナは何かを考えるように煙草へ火を付ける。
擦ったマッチの、赤リンに火花が散り頭薬の硫黄へ火が移る。マッチ特有の匂いが、鼻を擽った。その赤い火花がこれから語られる血の歴史を予感させた。
「歴史の授業になる」
イスナの言葉は静かだった。
「この国が戦争してたのは、世界だった。枢経国側としてゲルド帝国、イチリャム王国、日本軍事国、そして当時の日本皇国を含むアザイアのほとんどの国と、蓮華異国《れんげいこく》側として、ランドゥルビア協国、フランシスコ共和国、ユナイステッド連合王国、中華人民地区共和国、アマイアス合衆国。これらの国と、王舟州国のほとんどを含む世界大戦が起きた」
国名の列挙だけで、サメは問いかけたことを後悔するほどの表情を浮かべている。彼の顔が引きつり、唇がひくひくと動いている。
カツカツと国名が書き込まれていく木炭の音がサメとシャチの耳に届く。
「アザイアってなんなんだ?」
シャチの問いに、イスナは彼へと視線を向ける。Peaceのバニラが混じった甘い香りが、窓ガラスの嵌っていない窓から外へとゆっくり伝っていく。
甘い香りが、語られる苦い歴史をかき消すように漂った。
「アザイアは、地区のようなものだな。例えば、日本皇国や|中華人民地区共和国……現・中華人民地区協国、朝富人民区、タイラントのような国を纏めてアザイアと言う」
イスナがビルの壁に木炭を使って地図を描いていく。
木炭が削れ、そのカスが床へと降り積もる。まるでそれは、シャチとサメの脳に刻まれ降り積もっていく知識のようにも見えるのだ。
「王舟州国は、……ここが日本皇国で、この辺りだな」
「そこにある国が全部、俺らの敵だったってこと?」
シャチの問いにイスナは「そうだ」と言う。
「皇歴一九二五年。五二カ国が参戦し、戦争被害も膨大になった世界大戦が終結した。それが、約三〇〇年前だな。当時は日本皇国側、つまり枢経国側が勝つなんて微塵も思われていなかった」
イスナは静かに、吐き捨てるように言葉を重ねていく。
「どの国も、新聞やラジオでは“我が国は勝利に向かって邁進している”と言ってたからな」
その文字に描かれた数字の大きさに、過去深くの話に、シャチは何度も目を瞬かせてサメは木片に文字を刻んでいる。
そして、シャチは「勝利に向かって邁進している」という言葉に眉間へ皺を寄せて首を傾げた。
「イスナ、それはなんでだ?」
「そりゃそうだろ、『我が国はいま、負けてます』なんて言われたらお前らは戦いたいか?」
シャチとサメは互いに顔を見合わせてから思わず強く首を振った。
それにイスナは淡々と「そうだろ」と答える。
「だから、どの国も勝ってるって言ってたわけだ。特に、ゲルド帝国やイチリャム王国、それに日本軍事国なんていう小さな国が集まった寄せ集めに……」
そこでイスナは一旦言葉を切る。そして、壁へと再び木炭で汚れた指を向けて文字を刻んでいく。それを真似るようにサメとシャチが木片へ文字を刻む音がやけに大きく響いた。
それと同時にイスナの唇から煙が吐き出され、短くなった煙草が窓枠で潰された。潰された紙巻きから甘い香りが立ち上る。
「合衆国やユナイステッド連合王国なんていう大国たちが集まった軍事国たちが負けるなんて思っていなかったわけだ」
ビルの壁が木炭で書かれる国名で少しずつ埋まっていく。イスナの書く文字で、灰色の壁が黒に飲まれていくようだった。
年号が書かれ、その隣に“ユナイステッド連合王国参戦”、“アマイアス合衆国参戦”などと書かれていく。
「全部の国が一気に参戦したわけじゃないんだな」
「ああ、少しずつ、参戦していった。帝国と日本軍事国が勝利していくと他の国々が徐々に参戦して、最終的には全世界を巻き込んだ大戦に変化したわけだ」
「へー」
サメとシャチが同じような反応を返す。サメは退屈そうに、シャチは素直に言葉を零す。
「イチリャム王国はどうだったんだ?」
「あの国は、海戦が強かったが陸戦は散々だったと聞いてる。いまでも海戦は強いらしい」
「それが、このスラムとどう繋がってんの?」
シャチに聞かれ、イスナは壁に数字を書き込んでいく。
死傷者約三一〇万人、軍属者約二三〇万人、民間人約五〇万人以上。
そう書かれた文字に、その大きすぎる人数に、シャチとサメが互いの顔を見合わせる。
サメの手が止まり、木片に刻む音が消えた。
「ここで死んだ軍属者の家族、民間人の家族が行く場所も無く集まったのが、各地にあるスラムの始まりだ」
イスナが壁の空白へ日本皇国の地図を木炭で描く。
崩れやすい木炭でどうしてそんなにも精巧な地図を描けるのかと疑問になるほど、見事な地図だった。
黒く、崩れやすい線が、それでも確かに国を形作っていく。指先に木炭が潰れ、黒い粉が壁を滑った。
「スラムはこの日本皇国に一五〇以上あると言われている。ただ、ここまで大規模なのはこの日本皇国皇都画一地区だけと言われてるな」
「それはなんで?」
「他のスラムは、戦争被害者の他国籍者が集まってできた場所がほとんどだからだ。もちろん、日本軍事国籍者もいたが、彼らはそのままスラムで暮らした者とそうでない者がいる」
一五〇以上のスラムの中で日本軍事国籍者が多いスラムをその地図へ記入していく。
「まず、日本軍事国籍者が多かったのはここ、皇都。そして雅府、大仙府、福善県だ」
聞き慣れない地名に、サメは首を傾げ、シャチは遠くを見るように目を細める。何より、一五〇という数字は、彼らにとって大きすぎたのだ。
「皇都にも他のスラムってあんの?」
「ああ、ある。だが他のスラムは他国籍の者が多い。ここのように日本皇国籍すら持たない者が集まってるスラムはここだけだ」
「なんでここのスラムは国籍? って奴がない奴が多いんだ?」
「まず、第一にこのスラムは元から国籍の無い浮浪者が集まっていたところが戦争で焼け野原になり、その焼け野原に戦争孤児や行き場の無い人が集まったわけだ」
壁には更に文字が増える。
焼け野原、浮浪者、皇都、戦争孤児に、住所や自分が誰彼であるという証明を失った人々。
そういった言葉が、イスナの硬く整った文字で木炭によって書かれて灰色の壁が埋まっていく。整いすぎたそれは、まるで軍人の記録のように見えた。
サメはその文字を必死に目で追ったが、意味を掴みきれなかった。
「住所も戸籍も失って、自分が誰彼であるという証明を失い、また別の人間に自分の戸籍を乗っ取られてしまった人々もここに集まったわけだ。俺が来た頃にあったビルや、その中に溜め込まれた様々な物資も、当時の人間が残したものだ」
そこで、イスナはシャチたちの方を見つめる。
「これが、このスラムの……俺たちの国の成り立ちだ」
「そっか、俺らの国って、そんな古い時からあったんだな」
さて、とイスナが足を揃えて立つ。既に煙草は二本目になり、煙が薄く立ち昇っていた。
彼の足元に灰が落ちた。足元に落ちた灰は、この国が救うことの無い人々のようでもあった。
「それで、なんでこんな場所に押し込められてるか、だな。その理由は簡単だ。国籍を持たない人間、お前らのように色の違う人間はこの場所へ捨てられるようになったわけだ。ここは、この国のゴミ箱ってことだな」
イスナが咥えた煙草から紫煙が静かに、音もなく漂った。
「だから下水とかもこの国に流れ込んでたのか?」
「ああ、そうだ。画一地区のゴミは全てこの場所に来ていた」
物に満ち溢れたこの国で、ゴミに溢れているのはこのスラムだけだった。
「イスナ、なんでこのスラムには名前が無いんだ? “こうと”とか、“かくいつちく”とか、場所には名前が付いてるんだろ?」
「つまり、ここは真っ白ってことだろ。誰も名を付けていない、俺たちが名を付ける余白があるってことだ」
静かなイスナの言葉と共に、イスナの視線が窓の外へと向く。その言葉は、窓の外の光と同じくらい澄んでいた。
小麦が穂を付け、重そうに垂れ下がっている。
その小麦を、子供たちが笑いながら収穫し、麻を採っている者たちもいる。笑い声は、かつてここにあった泣き声をかき消すように響いていた。
農場から盗んだ牛や豚、鶏を捕らえている舎に小麦の茎や麻の葉などが与えられている。
イスナがやっていたように、麻の茎から繊維が取られ糸へと変化させていく。
そこには、文明が出来上がっていっていた。
イスナが望んだ未来が、そこに見えるのだ。
「なあ、イスナはこの国に、なんて名前を付けんの?」
サメがそう問い掛ける。
それにイスナは暫し無言になり、そしてゆっくりと瞬きをする。
その視線はずっと外を見つめている。
子供が、大人が笑いあっている。そこには、いままでこのスラムになかった未来が、歓びがあった。
子供は食い物にされることも無く、世界は笑いに満ちているのだと、彼らは知ってしまった。
イスナはその世界を、ただ見つめている。
風だけが、壁の木炭文字をかすかに揺らした。
「俺が、名を付けるならか……」
静かな言葉が、風に吹かれてシャチとサメの耳を叩く。
しばらくの間、誰も話すことは無く、窓の外の笑い声だけが響いた。
「えんろ……」
イスナはそこで一度切って、そして遠く、どこか過去を見つめるように窓の外を見つめるままに再び唇を開く。
「園路、だな」
「なんで園路なんだ?」
サメの言葉に、イスナは外を眺めるまま口を開く。
「園路は、円滑に移動できる道や回遊性を高め、美しさを演出する役割になるんだ」
イスナの言葉に、シャチとサメの口元が緩む。自分たちがただ惰性で生きていたこの国に名が付いたのだ。
いまこの瞬間に、自分たちが“誰彼”であるという証明ができたのだ。
「おーい! お前ら!」
シャチが、イスナの隣に立ち窓から声を上げる。
シャチは体が勝手に動いた。一気に体が熱くなり、そのまま吐き出したいものを口から一気に吐き出したのだ。
「この国は今日から、園路! 園路国だ! イスナが王様の、園路国だぜ!」
子供たちは一瞬シンと静まって、そしてワアと声を上げる。
シャチの声に、それを理解した子供たちが頬を赤くしてパッと笑う。振り返った子供たちが一瞬何を言ったのか分からないと言うように呆然とし、すぐに笑顔で応じた。
仕事途中の子供たちが「俺は今日から園路国のマメだ!」「園路国のヤタだ!」と抱き合い、笑い合い、喜びを伝え合う。
彼らは今日、自分は人間だという証明を得たのだ。
“この国は、園路”




