第一六話 宗教と日常
日本皇国皇都画一地区三番通りの一一四号にある、既に廃墟となったカレルト教の教会前で、イェズラルム教会の宣教師が立っている。
カレルト教は、ユズラム教を祖とする一神教であり、世界で最も信徒の多い宗教であった。
対してイェズラルム教は一神教でありながら偶像崇拝を禁止しており、厳しい戒律を守り生活することで現世と幽世での安寧を得られるのだと伝えていた。
カレルト教の教会の前、既に扉も腐り中が僅かに見えているそこで、質素な服を着たイェズラルム教の宣教師が声を上げる。
しかし、誰もその声に耳を傾ける者などおらず、誰もがその男なんて存在しないかのように通り過ぎていく。
ただ、男の傍に行く場所の無い痩せこけた野犬が寝そべって目を閉じていた。その体が僅かに上下していることから、野犬が未だ生きていることを示している。
「この日本皇国自衛軍は、憲法へ抵触しており、存在を許されないものだ! 我らイェズラルム教は、殺生を許さない! この国で、自衛軍と名乗りながら他国へ軍を派遣し人を殺傷している、この状況をただ見ているお前たちも! 人を殺していることになるのだ!」
目を見開き、瞬きすらほとんどすることなく宣教師は何度も同じ言葉を、まるでロボットのように繰り返し繰り返し、声が枯れるほどに叫ぶ。
誰もが、その叫びを聞こえないふりをして歩を速めた。振り返った子供が母親に袖を引かれ、速歩で通り過ぎていく。
御口は近隣の住民からの通報で出動し、その宣教師へと近付く。
「すみません、イェズラルム教信徒の方ですね。ここはカレルト教の教会前なので、移動しましょうか」
御口の優しい声に、宣教師は見開いた目をそのままに、ぐりんと御口の方を振り返る。
「お前も! お前も! お前も!! そうだ! その腰の拳銃で! 人間を殺す! お前は人間を殺すんだ! 神、ラ・ルーダーはお前を見ている! お前を許しはしない! ラ・ルーダーは! お前を許さない! ラ・ルーダーは! お前を見ているぞ!! お前の血で、地面は赤く染まる!!」
その剣幕に、御口は思わず閉口して言葉を口の中で探す。男の足元には穴の空いた茶色い帽子が逆さまに置かれており、中には薄汚れて錆びかけた一〇圓銅皇貨や一圓皇貨が数枚顔を覗かせている。
男の目は血走り、ただ御口の顔を睨むように見つめている。
男の、履き潰された靴の穴から覗く足指が泥に汚れている。ひび割れた親指の爪は黒く、壊死しかかっているようにすら見える。
彼の破れかけ、ほつれた黒い靴下は泥に汚れ、ずり下がっている。
どれだけ狂信者に見えたとしても、彼は御口が守るべき日本皇国の市民であった。
彼は、制度に守られるただの人間なのだ。御口は言葉を選びながら、思考を巡らし、眉を下げて男を誘導しようとする。
「僕は、確かにいつか人を殺してしまうかもしれません。ですが、イェズラルム教の戒律には“汝、他者を害する者を排するべし”と書かれてます。もしも、いつか僕がこの拳銃を抜く時があれば、それはあなたたち市民に害が及ぶ時です」
微笑み、柔らかい口調で、優しい言葉で戒律を口にして宣教師を落ち着けようとする御口に、しかし男は更に目を見開く。
まるで眼球が眼窩から零れるのでは無いかと思うほどに丸く見開かれた目が、ギョロリと御口を見つめる。
「お前は、人間を、殺す」
それはさながら、神託のようであった。
それに、御口は思わず唾液を嚥下する。
男の、今にも折れそうなほど細い、枯れ枝のように細く震える指が御口の胸を貫くように指差す。
「覚えておけ、お前が殺すのは、人間だ。罪なき人間を、殺すのだ。神、ラ・ルーダーはお前を見ている。人間を殺すお前を見ているぞ。ラ・ルーダーは、お前を許さない」
先程までの空が揺れるほどの叫び声が嘘のように、男は見開いた目で御口を見つめて、そして密やかな声で囁く。男の声は掠れていたが、御口の耳には妙に大きく聞こえた。
その声が御口の鼓膜を打った瞬間、人混みのざわめきすら一瞬止まったように思えた。
胸を貫くような細い指は、もう震えていなかった。
男が、歯の数本抜けた口をぱかりと開いて笑う。そして地面に置かれていた帽子を取り上げ、足を引きずりながら歩き出す。
既にその通りはいつも通り歩く人々でごった返していた。
人混みは相変わらず男のことなど見えていないかのような素振りをしたままだった。人混みに見えなくなっていく男を、御口は留めることすらできなかった。
人混みの中で御口は、一人立ち尽くす。
立ち止まる御口にぶつかりそうになった市民が舌打ちをしかけて、彼が身に付けている“権力”の象徴である青い制服を目にして、目を逸らし足早に去っていく。
立ち止まったまま動くことすらできない御口は、男の言葉が理解できなかったのだ。御口は自分が正義を執行する人間であると理解をしている。
だからこそ、自分が銃を抜く時はその“正義”に反する者がいる時であると、そう信じているのだ。
それが、彼の世界のすべてだった。
御口は意識をしながら肺の中の空気を全て吐き出すように呼吸をし、そしていつもよりもゆっくりと瞬きをした。
そこには、変わらない日常がある。
御口は、おかしな人間に絡まれたのだと思って、いましがたの出来事を忘れることにした。
御口は半田帽子を被り直し、そして日の傾き始めた空を見る。
三番通りからほど近い、二番通りにある一番街は画一地区に住む者たちにとって大事な商店街だった。
御口はそこへと足を向ける。
『ヤンソンミート』と書かれた、僅かに傾いた看板を掲げるその店は安価で肉を売っている、一番街で人気の肉屋だった。
「いらっしゃい! イルカさん」
日本皇国民とは少し違う顔立ちをした、婿養子のフェイが御口に手を振る。
細面で片目だけ二重の彼は、不器用に右側だけ頬を上げて笑う。
「こんにちは、ポルックを貰っても?」
常連と言えるほどにまで通い詰めたヤンソンミートへ顔を出すと、すぐにフェイは片手ほどの小さな紙袋に一〇〇グラムのポルックを計り始める。
ポルックは荒く潰したじゃがいもと賽の目に切った牛肉を混ぜて衣を付けて揚げた、スナック代わりに食べられるような、安価な揚げ物だった。
魚屋では牛肉の代わりに魚肉を使われることもあるほど一般的な料理で、学校帰りの学生が食べながら帰る姿すら見るほどのものだった。
安くて腹持ちが良いポルックは、御口にとって欠かせない食べ物だった。間食にしたり、夕飯にすることすらあったのだ。時には出勤前に寄り、朝食にする日だってあるほどだった。
ヤンソンミートでは一〇〇グラム二五〇圓で販売しており、金のない学生や給料の少ない御口の強い味方だった。
これなら、給料日前のひもじい時でも買うことができた。
「ありがとう、フェイさん」
「どうも、いつもありがとね、イルカさん。今日は暇だったから、イルカさん救世主だよ。閑古鳥鳴いてたから五〇圓アップね」
本当か嘘かも分からない物言いをするフェイが、肉を入れた冷蔵ケースへ頬杖をついてケタケタと笑う。
そんなフェイに苦笑を零し、御口は財布から一〇〇圓皇貨を二枚と五〇圓皇貨を一枚取り出してキャッシュトレイの上へ置く。随分前から割れている青いキャッシュトレイを、御口は「変えないんですか」と数度聞いたが、その返事はいつも同じ「明日買うよ」だった。
「あー、イルカさん、五〇圓足りないよ」
笑いながらフェイは口を二回折った紙袋を渡してくれる。白い袋には油が染みて、芋と牛肉が揚げられたいい香りが御口の鼻を擽る。
御口はその場で紙袋を開けて丸く整えられたポルックをひとつ口へ放り込む。
揚げたてのポルックは噛むと肉汁と油が染みだし、火傷しそうなほどだった。
熱を加えられた脂は御口の舌を刺激し、ガツンとした旨味を与えてくれる。肉の脂と、ポルックを揚げる時に使われるラードを吸った芋がその旨味を更に押し上げる。
「相変わらず、ここのポルックは美味いな」
「ありがと、みんな買ってくれるから値上げできなくて困るよ」
冗談めかしてフェイが笑っていると、店の奥から女性の声が聞こえてくる。
「アンタ、ポルックは揚げたのかい」
その声に、フェイはわざとらしく自分の体を抱いて大仰に怯えたような仕草を見せて「じゃあね、イルカさん」と告げて店の奥へと向かう。
「いま揚げるよー!」
「早くしなよ、もうすぐ、学生がたくさん通るんだから!」
奥からは肉を解体しているのだろう、包丁を動かす音が聞こえる。
昔、ヤンソンミートの女主人である崎山めぐるに、「フェイに解体や肉磨きを任せないのか」と聞いたことがあったが、返ってきた言葉は簡単だった。
「アイツに任せたら、可食部がこーんなになっちまうよ」
彼女の親指と人差し指はぴっちりとくっついて、隙間すら見えなかったのだ。
御口はポルックが入った紙袋を片腕に抱いて交番へと向かって歩き出す。
袋に入ったポルックは、制服を隔ててもなお熱を御口の腕へと伝える。揚げたてのそれを食べることのできる時間が、御口にとっての幸せでもあった。
すれ違う市民たちが「あ、イルカさん」と声を掛けて会釈し、手を振る。
御口の所属する画一地区の交番は、地域に根ざした親しみやすい交番だった。
市民はみな御口の名を覚え、誰もが彼を「イルカ」と呼んだ。
それは愛称であり、信頼の証でもあった。
御口は、精悍な顔立ちをしていた。きりりとした眉に、切れ長の一重の瞳と整った鼻梁、薄い唇、緑の黒髪と称されるほど見事な黒い髪。
彼の上司である狭山は、初めて御口のことを見た時に御口の姿をしげしげと見つめて、「いやー、もしかして神様って君のこと作る時に力入れすぎたんじゃない?」などとしみじみ言って笑っていた。
それに御口は「ありがとうございます、両親に感謝しないといけないですね」と苦笑しながら言ったのだ。それにまた、狭山は笑った。
「しかも謙虚だ、神は二物を与えるものだな」
そう笑った狭山を、御口は時々思い出す。御口はその言葉を、初めて交番に配属されたあの日の自分を和ませるためのジョークの一種だと思っていたのだ。




