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スラムに王は生まれる  作者: 田中
第一章
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第一五話 未来を紡ぐ黄金

 川を整備した日から、早くも三ヶ月が経過していた。いつの間にか下水は蒲の根と茎に浄化され、濁り異臭を放っていたそこは透明な水が流れるせせらぎへと変貌していた。

 子供たちも大人たちも、生まれてからずっと汚泥と濁りに満たされていた下水が美しく整備されたことに、誰もが水面を覗き込み、思わず声を呑んだ。


 彼らの足には、イスナが作りそれを見よう見まねで作り上げた草鞋が履かれている。

 ガラスや釘で怪我をし、破傷風で死んでしまう子供も、寝込んで衰弱し、少し前まで転がっていた小さな亡骸が、いまはもう、どこにもない。


「やっぱ、イスナってすげぇな」


 シャチの、口から転げ落ちた言葉が子供たちの間へと広がっていく。彼が来てから、このスラムは住みやすくなっていた。


「次は、ビルを整備する」


 イスナの言葉に、大人たちは顔を見合わせる。


「川なら泥を掘って植えればよかった。でもビルは……どうやって直すんだ」


「屋根のない場所に住むことが普通になってたのに、いまさら家を整えるなんて、なんの意味があるんだ?」


 大人たちが腕を組んで唸る者、唇を噛む者、うつむいて目を合わせようとしない者、それぞれが不安そうに顔を見合わせる。

 子供たちよりも長く生きてきた彼らは、変化が恐ろしかった。変化しなければ今日も昨日と同じく、安心して暮らすことができるのだ。

 平和な生活ではないものの、それでも暮らすことはできる。

 彼らにとっては、飢えも寒さも当たり前になっていた。それを平和と呼ぶならば、彼らの世界はあまりに小さい。


 しかし、崩れかけたコンクリートの壁から粉塵がぱらぱらと落ち、彼らの不安を裏付けていた。


「屋根を直したら、上から崩れてきて潰されるかもしれないだろう」


「俺は昔、崩れた壁の下で仲間を失ったんだ」


 ぽつりと、大人が言葉を落とす。


「雨が降っても濡れない家に住みたい!」


「僕は、雨とか雪が降ると、寒くて眠れないんだ」


「もう、あの青いシートの下で震えるのは、やだ!」


 幼い子供たちが、声を上げる。彼は穴の空いたブルーシートの下で足を抱えて生活をしている少年だった。襤褸を着て、雨が降ればブルーシートの下で濡れて体温を奪われ、時には熱すら出していた少年。


 その声を聞いてもなお、大人たちの怪訝な、不安そうな瞳がイスナを見る。コンクリートが崩れ、壁や天井の崩落したビルを、どうすれば整備できるのかという表情だった。

 それにイスナは目を細めて、子供の声と大人のざわめきを同時に聞いているようだった。そして、ゆっくりと深く息を吐き出す。


「まず、蒲の茎を混ぜ込んだ泥を作る」


 静かな言葉に、大人や子供が互いに顔を見合わせる。

 この頃になると、子供を食い物にする大人の数は随分と減っていた。大人たちの顔からは険が消え、子供たちの顔には笑顔が増えていた。


「なんで、ビルの整備なんかすんだよ」


「ビルを整備して、地面の上に寝てる奴らをビルの中に入れて、そこに麦畑を作る」


「麦畑ぇ? 麦なんて、どうすんだよ」


「すぐ食えるもんにしようぜ、カボチャとか、芋とか」


 少年たちの言葉に、イスナはどこか遠く、崩れた天井の隙間から覗く灰色の空の、その向こうを見ているようだった。

 腹を鳴らす声の中で、イスナだけが飢えを越えた先を見ていた。

 そして、口を開く。


「想像しろ、金色に輝く畑を。それを全て刈り取っても、麦は一年に二度穂を付ける。今年は足りなくても、来年には有り余るほどの糧になる」


 すぐにでも腹を膨らませたい子供たちの声と、遠い未来を見つめるイスナの視線は重ならない。

 しかし、イスナの言葉に少年たちはそこに作り上げられた金色の麦畑を夢想する。

 その目に映っているのは、まだ存在しない光景だった。風に揺れる黄金の波、笑う子供たちの姿。それを信じろと言うように、イスナは低く囁いた。

 彼の低く囁く声は、石を積み上げるように一つひとつ確かだった。誰の反論も許さない重みがあった。


「金の穂を付ける麦は、両手で抱えきれないほどのパンを作る糧になる。麦の茎は畑の糧になり、畜産にも使える」


 静かなイスナの言葉が、少年たちの視界へ金色の麦畑を見せる。小さな喉が、ごくりと鳴った。まだ見ぬパンの香りを嗅いだように。

 僅かな湿気を含んだ風が、彼らの頬を撫で、髪を揺らす。湿った風は、まだ芽吹かぬ麦の香りを運んでくるようだった。


 イスナは少年たちの目を見渡し、静かに告げた。


「最高の、未来だろ」


「俺、イスナの言う通りにやるよ」


 シャチが告げると、徐々に子供たちがそれに同意を重ねていく。

 その様子に、大人たちは一瞬の沈黙ののち、肩を落とし、それでも笑って頷いた。長い諦めを抱えてきた者たちの笑みは、ぎこちなく、それでいて温かかった。

 そして、「なら、自分たちも」と声を漏らす。

 その場にいる者たちが、同じ未来を夢想したのだ。


 使われていなかった、古いセメント袋を大人たちが運んでくる。

 バケツの中にセメントと砂と砂利を混ぜて、そこに水を注いでいく。水を注ぐたびに砂利がザラザラと音を立て、湿った泥の匂いが立ち上る。

 イスナが言ったように、泥へ蒲の茎を混ぜたものを壁に塗り付け、乾いたところにコンクリートを塗り込んでいく。


 大人たちは、乾いていく壁を見つめながら、自分たちが子供だった頃には決して訪れなかったはずの光景を、そこに見ていた。

 子供たちがまるで泥遊びをするように、楽しげに混ぜて塗っていくのを、大人たちはどこか憧憬の混じる瞳で見つめていた。

 自分たちが子供であった時分に、イスナのような先導者がいれば……そう思うと、彼らの胸の奥が少し痛んだ。


 壁が、天井が少しずつ少しずつ、時間をかけて作り上げられていく。泥遊びをするような子供たちと、いままで彼らを食い物にしていた大人たちが共に。

 それは、まるでこのスラムが求めていた、まだ形になってない未来が、確かにそこに、土の下でまだ見えぬ芽が膨らんでいるようだった。


 イスナがやるように、地面に散っていた段ボールやブルーシートを集めていく。王であるならば、白く柔らかく、傷など無いはずのイスナの手指は擦り切れ、擦過傷もできていた。

 イスナのその手の皮は厚くなり、汚れていたが、シャチはそれが誇らしかった。その傷だらけの手が、シャチには宝物のように見えた。

 自分の信じる王は、自分たちと同じように汚れることを厭わない者なのだと思えたからだ。

 だからシャチはイスナを信じ、その足跡をついて歩けるのだ。その背中が、どこか遠くへと行くのなら、自分は迷わずその足跡を辿るだろう。


 イスナがシャツの袖を捲り、その額へと浮いた汗を拭う。

 いつもその肩にかかっている黒いジャケットは、いまはその腰に巻かれている。イスナは命令するだけの王ではなかった。必要ならばその手を汚すことすら厭うことは無い。

 地面に広がっていた、濡れて腐りかけた段ボールやブルーシートを一箇所へと集めたイスナがそれらへと火を付けて燃やす。

 腐敗と湿りを纏った残骸が、ぱちぱちと音を立てて赤い火へと変わっていく。

 まるでキャンプファイヤーのような様相になったそこに、子供たちが「わっ」と声を上げる。両手を広げて火にあたる子や、黙って炎を見つめる子もいる。


 秋口となり、やや肌寒さを感じ始めた頃に燃える炎で温まるスラムに、少年たちが集まる。炎が、冷え切った空気を押し返すように揺らめく。

 大人たちですら、炎の暖かさに火へ近付きセメントや泥の冷たさに濡れて悴んだ手を温める。

 橙色の炎が、濡れた段ボールを乾かしてぱちぱちと音を立てて崩していく。火に当たる少年たちの頬が赤く染まり、その黒い瞳に揺れる炎が映る。


 地面の掃除に体を動かしていた少年たちが、ぐっと腰を伸ばし、両腕を伸ばす。初めてのまともな労働に疲弊した体が、彼らにはどこか心地よかった。

 彼らの背筋に走る痛みすら、生きている証のように感じられた。

 冷たい泥と灰色のコンクリートを、橙色の炎が揺らす。


「なあ、イスナ。次は何すんの?」


「いま片付けたところを耕して種を植えていく。東側には陽がよく当たる、南側は風通しがいい。だから東側には麻を、南側には麦を植えていく」


 イスナは空いた土地を見渡して告げる。


「でも、種は?」


 問い掛けたハチに、イスナは自身の傍らに置いていた段ボールを開く。そこには、ずっとこの土地に放置されていたらしい種が入っている。


「戦争で逃げ出した人達が持って逃げてきたんだろうな。この種を使う。ただし、物によっては芽が出ないものもあるだろう。この一年は、始まりだ」


 段ボールの中には、乾いた袋に入った小麦が詰められていた。少年たちは一目見てそれが小麦であるとは分からない。それを理解するだけの知識すら無かったからだ。

 乾いた袋に入った小麦が、腹を鳴らす音に応えるように香りを放つ気がした。


「それ、食ったら今日の食事にはなんのに、植えちまうのか」


「腹減ってんのに、埋めちまうのかよ」


 呟いた少年たちに、シャチが「うるせぇよ、イスナのやることに任せろよ」と言う。

 スラムにいる誰もが飢えていた。未来への糧を今日の糧にしたいと思うほどに。


「俺らだって、腹減ってんだ」


 そこで、シャチは一度言葉を切る。そして深く息を吸い込んだ。

 段ボールが燃えていく焦げ臭さや、濡れたコンクリート、泥の匂いを、シャチは肺いっぱいに、飢えと一緒に吸い込む。いままでのスラムでは嗅ぐことの無かった香りだった。

 それが、ただ心地好い。


「でもイスナがやるっつってんだ。それを俺らが信じなくてどうすんだ。イスナを王だって認めたのは、俺らだろ」


 堂々としたシャチのその言葉に大人も子供も、みな口を噤む。大人の一人が、何度か口を開こうとして、そして小さく頷いた。


「……王に、俺たちのこれからを、預けよう」


 静かな、低い言葉。

 大人たちはそれぞれが顔を合わせる。女性も、男性も、泥とセメントに汚れていた。

 そして、互いに頷き合う。


「ああ、俺たちの、……未来を賭けよう」


 その声は震えながらも、腹の底から搾り出すような強さがあった。

 それが、答えだった。


 彼らの会話をただ聞いていたイスナは、小麦の種を見つけた倉庫から持ち出した鋤で地面を掘り返している。

 鉄の刃が地面を割る音が、彼らの誓いを静かに受け止めるように響いた。

 大地が、彼らの声を刻み込むように。

 掘り返された土から立ちのぼる湿った匂いに、子供たちは胸いっぱいに息を吸い込んだ。


「イスナ! 俺もやる!」


 イチが走って来て、細い腕に鍬を持つ。


「それは、鍬だ。先に鋤で土を掘り返さないと使えねぇ」


「すき?」


「くわ?」


「なんだよそれ!」


 まるで遊び道具を取り合うかのように言い合う。

 イチとハチがイスナの元へと集まり、刃先の形を見る。鋤で地面を掘り起こすのを見て、彼らは倉庫代わりになっていたビルの一室に立てかけられた鋤を見つけると、「あったー!」と声を上げてイスナの元へと走る。


 イスナの動きを見ながら、ハチは地面へと鋤を振り下ろす。思っていたよりも硬い土に、ハチとイチは眉を寄せてふらつきながらも重い鋤を振り下ろし、土を掘り返す。

 いままで、戦争が終わって三〇〇年近く掘り返されることもなく、数多の人によって踏み固められた土は固く、人々の礎すら感じられる。

 三〇〇年分の戦火と足音が、この地面を押し固めていたかのようだった。

 鋤の刃が土に食い込むたび、乾いた鈍い音が響き、腕に重い衝撃が走った。何度も腕に響く衝撃で、掌に豆が浮きはじめる。


 子供たちが懸命に土を掘り返す姿を見て、焚き火で暖まっていた大人たちが迷いを顔に浮かべながらも、火から立ち上がり、工具を手に取り、次第に一人、また一人と再びビルの補修へと戻っていく。

 悴む手を何度も擦りながら、乾いた泥の上へとコンクリートを重ねて塗り広げていく。


 三〇〇年、誰も変えようとしなかったスラムを、一人の少年が変えようと動いているのだ。

 そのスラムという牢獄の壁に、小さな亀裂が入る瞬間を、その過渡期を、彼らは見ていたのだ。


 一〇時間、一一時間と時が経ち、空は茜から群青へと変わり、焚き火の光だけが彼らの汗を照らしていた。

 手の豆は潰れて血が滲んでも、彼らは誰も言葉を発さず、ただ呼吸と鋤の音だけが闇に響いた。それだけの時間をかけて、土はようやく掘り返された。その土へと小麦の種を植えていく。

 飢えに苦しみ、生活に苦しみ、生きることに苦しみ続けたスラムが、いまようやく彼らの手は、未来へと繋がる糧を掴もうとしていた。


 彼らの掌を食い破ったマメは、やがて明日を支える糧となる。

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