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スラムに王は生まれる  作者: 田中
第一章
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第一三話 ドブ川を浚えば、文明の音がする

 籠が完成してからいつの間にか太陽が三五回は顔を出した頃、イスナは次の物資を探すため広大な廃ビル群へと足を踏み入れていた。


「おい、シャチ。サメ」


 呼ばれた二人の少年が顔を出す。一人は肩甲骨まで伸びた紫の髪を揺らし、もう一人は顎のあたりでぱつりと切った金髪をしていた。まともな散髪用具のないスラムでは、石を擦り合わせて摩擦で髪を削り切るのが常だ。

 ハチのようなモヒカンにするなら、ガラスを研ぎ、薄くしたもので剃り上げるしかない。


「はあい」


「どうした、イスナ」


 シャチとサメが返事をしながら、イスナの少年とも青年ともつかない、ややハスキーな声が響いた方へと足を踏み出す。

 そこには、太い縄を前にしたイスナがいる。


「イスナ、なにそれ?」


「麻縄だ」


「あさなわ?」


 イスナが、その汚い縄を持ち上げる。数匹の蜘蛛がワサワサとその何本もある脚を動かして逃げていく。


「うひぃ!」


「きもちわりー!」


 うげーと舌を出して吐く真似をしたシャチに、イスナが腕の中にある縄を持たせる。そこから蜘蛛が覗き、シャチは思わずその縄をサメへ渡す。


「おい兄ちゃん! やめろよ!」


「無理無理、俺マジで、蜘蛛無理だから!」


 互いに縄を押し付けあっていたところへ、更に縄を二束見つけてきたイスナが埃と蜘蛛の巣だらけの縄を二人へ投げ渡す。


「イスナぁ!」


 泣きの入ったシャチの言葉も無視して、イスナは他に無いかと周囲を見渡す。


「一旦戻るぞ」


 イスナの声に、仕方なく縄を持ったまま歩き出すシャチとサメ。どうか縄の隙間からまた蜘蛛が這い出してきませんように、と内心で祈りながら。


 拠点としているビルの下へ戻ったイスナは、シャチに濾過した水を持ってくるように言う。


「沸騰させてないやつで構わねぇ」


「はあい。はー……まだ腕に蜘蛛の感触残ってる気がする」


 ぶつぶつ言いながら、シャチは捨てられていた鍋に濾過した水を注ぎ込む。水面が揺れるたびに、澄んだ透明が蜘蛛の残像を反射するようで、余計に鳥肌が立った。鍋の三分の一ほど満たされた水を、こぼさぬよう慎重に運ぶ。

 イスナの横へと持ってきた鍋を置く。


「イスナ、持ってきたぞ」


「ああ、ご苦労」


 一言だけを返し、綺麗になった水へ薄汚れた縄をぶち込んだイスナに、シャチは思わず絶叫を上げる。


「あーっ!! せっかく濾過したのに! 飲む水が台無しだろ!」


 シャチは両手を振り上げ、今にも鍋を抱えて逃げ出しそうにわめいた。


「これで靴を作る。黙ってろ」


 イスナの冷ややかな声に、シャチは唇を尖らせてしゃがみ込み、膝を抱えてぶつぶつと文句を垂れる。


「そんな縄で靴なんて作れんのかよ」


 唇を尖らせ、しゃがみ込んだ自分の膝を抱えるようにして文句を言うシャチを、イスナはチラと見てから再び縄を洗う。

 縄を揉むたびに、濁った水面に泡が弾け、埃や虫の死骸、蜘蛛の巣がふやけて浮かび上がる。むっとした臭いが広がる中、イスナは眉一つ動かさずに縄を擦り続ける。

 ようやくある程度綺麗になったその縄を絞ると、水が滴り落ちる音がコンクリートに響いた。その縄を近くのビルへと掛けて干す。


「なー、イスナ。ほんとにそれで靴が作れんの?」


「ああ、作れる。だが、この縄を使えばもう無くなる。麻が必要だ」


 イスナの静かな声に、シャチがしゃがみ込んだまま「あさ?」と首を傾げる。

 それに、イスナは頷く。


「こういう植物だ」


 イスナは指先で地面にざらついた線を引く。細長い茎の先に房のような葉を描くと、埃の舞う地面に、簡素ながら麻の姿が浮かび上がった。


「知ってる! 川んとこの茂みだ! おーいサメ!」


 シャチが立ち上がってサメを呼ぶ。その声に、サメが「なんだよー!」と笑いながら近付いてくる。それに、シャチは「知ってるよな、この草!」と言うのだ。

 そんなシャチに、「知ってる」と頷いたサメを引き連れて歩き出す。


「イスナ、行ってくる!」


 はしゃぐ声と駆け足の音が遠ざかっていく。埃を巻き上げて消えていく背中を、イスナはただ一瞥しただけだった。

 彼の手は既に鍋を掴んでいる。濁った水がさらさらと濾過装置を伝い落ちる音だけが、残された場所に静かに広がった。

 たったっと厚くなった足裏の皮膚が地面を蹴る音がスラムに響く。


「イスナー! 見つけた!」


 シャチとサメが両手に抱えるほどの麻を持ち帰ってきたのを見て、イスナは頷き立ち上がる。

 彼らの手は草の汁で汚れ、黒く染まっていた。


「次の仕事だ、ガキ共と一緒に、いまある下水道から繋がる新しい水路を作れ」


 イスナは、吸殻を指に持ち現在の水路とその横に伸びる水路を描く。

 シャベルが近くの倉庫に眠っていたことは確認済だった。


「シャベルを持っていけよ」


「へいへい、イスナって人使い荒いよなー」


「ガキ共ー! 泥遊びだ!」


 サメとシャチに呼ばれた子供たちが「わー!」と声を上げて走ってくる。「ほんとに遊びー!?」「やったぁ!」とはしゃぐ彼らを連れて、ビルの一部へと向かう。そこに置かれていた柄の長いシャベルを持ち、シャチたちはドブ川へと歩いた。


 そんな彼らの足を守るため、イスナは麻の茎から繊維を一本ずつ裂いていく。

 摘みたての麻はまだ瑞々しく、指先に青臭さを残す。繊維を一本ずつ裂くたび、ぷつりとした音が小さく響く。

 細い繊維はイスナの柔らかな指先を食い破るが、それでもイスナは繊維を裂くことをやめなかった。


 街の下水が流れ込むドブ川は、排泄物や何かも分からない油まで浮いている汚い川だった。

 いまでこそ濾過装置を通して比較的安全な水を飲めているが、イスナが来るまでは赤痢や食中毒で死んでいく大人や子供も少なくなかった。

 そんなドブ川から、水路を伸ばすと言うのだ。結局変わらないだろうとシャチは思う。

 しかし、彼は麻を裂いていたイスナを思い返す。彼のお陰でここまで変わったのだ、もしかすると、水の事情だって変わるかもしれない。そう思った。


 ドブ川の横っ面を崩す。幾年もドブ川の水に晒され続けた土は、酷く脆かった。

 靴下も履いてない足に、ぬるりと気味が悪いほど滑る泥が絡む。

 その土を蒲の生えている方へと投げ、子供たちと共に水路を形作っていく。その土が蒲の根元へ届くと、葉がぱさりと揺れた。

 暑い季節に泥に塗れながら作業をするシャチたちの額に汗が浮かぶ。


 ようやく新しい水路が完成したのは、既に空のてっぺんまで藍色に染まった頃だった。汗と泥の匂いが混じり、彼らの肌にまとわりつく。

 汚泥と汚水に塗れたシャチたちがその場に座り込む。そこへ、イスナが割れた瓶をグラス替わりにして常温の水を持ってやって来た。

 その指先も掌も、細かい裂傷に塗れている。それを見て、シャチもサメも疲れが吹き飛ぶ気分だった。


 渡された瓶の水は、泥と汗の匂いがこびりついた空気を洗い流すようだった。

 誰も文句を言わず、泥に汚れた唇で次々と口を付ける。そのたび、ひと口の水がまるで甘露のように尊く思えた。


 自分たちの王様は、部下に全てをやらせるだけじゃないのだと。

 ニカッと笑ったシャチが肩に腕を回すと、イスナは無造作に肘で小突いて払い落とした。


「仕事は終わりじゃねぇぞ」


 その静かな声に、ハチは全身を投げ出すように座り込む。


「嘘だろぉ! 俺、もうヘトヘトだって!」


「まあまあ、ハチ。もうひと頑張りしようぜ!」


 シャチがシャベルに体重を掛けて笑う。古ぼけたそのシャベルは、既に文化遺産レベルの代物だったが、彼らにとって見れば便利な道具に過ぎない。


「ドブ川沿いに生えてる蒲を泥ごと掬って来い、根の上を切るなよ」


「はあい」


 イスナの命令に各々がシャベルを使い、泥と蒲を掬う。


「これ、どーすんの?」


「泥の斜面に埋め込め。押し込んだら入るだろ」


 言葉に従い、シャベルでぐっと突き刺すと、泥水がじゅわりと濁って、その奥に根が飲み込まれていった。

 まるで「自分はいましがたまで、ここに立っていましたよ」と言わんばかりだ。


「おもしれー! 泥遊びみたいだ!」


「俺、こっちにも植える!」


 シャチが泥ごと抱えてきた蒲の根を、水路の端にぐっと突き刺す。

 サメと子供たちがその周囲に泥をかぶせ、「よし、立った!」と声を上げる。

 まるで旗を立てるみたいに、次々と泥に突き立てられていく蒲は、彼らの勝利の印のようだった。


「なあ、イスナ。結局これってなんのためにやってるんだ?」


 サメの言葉に、イスナは彼をチラと見る。そして、その蒲に埋まる水路を見つめた。


「これは、明日の糧だ」


「イスナのよく言う、今日の糧と明日の糧って、どういう意味だ?」


 ハチの問い掛けに、イスナは少しだけ思考を巡らせるように顎へ傷だらけの指先を触れさせる。


「糧は、食料、食べ物って意味だ」


「今日の食料、明日の食料ってことか?」


 子供たちの輪の中から飛んだ言葉に、イスナは首を振る。


「明日の糧とは、活動の本源となるもの、この体を力付けるもののことだ。綺麗な水を飲むと体が元気になる、腐ってないものを食うと、体が動く」


「確かに! 俺ら、イスナが来てから腹が痛くて死にそうになること、無くなったもんな」


「糧は食べ物だ。だが、今日の糧は腹を満たすだけだ。明日の糧は、もっと先でお前らを生かす」


 イスナの視線の先で、泥に突き刺した蒲がわずかに揺れている。


「今日植えたそれは今すぐ水を変えねぇ。だが明日には、泥水を澄ませる。糧ってのはそういうもんだ」


 静かなイスナの声は、不思議と良く通る。低くも高くも無い、少年と青年の間の声。

 それが、風のように彼らの間を通り抜けていく。


「糧は、お前らを裏切らねぇ。学習も、川を整備することも、竹でペンを作ったことも、それは全てお前らの、明日への糧だ」


 まるで政治家の演説のようだった。

 彼らは誰一人、政治家なんて見たこともない。時々ガーガーうるさい音を立てながら表通りを走っているのを聞くだけだ。

 けれどと、彼らは思う。

 政治家とはイスナのような者なのかもしれない。イスナのように、市井の民を背負って立つ者なのかもしれないと、少年たちはイスナを見上げて思うのだった。


「飯は裏切らねぇ。食えば動ける。水も裏切らねぇ。飲めば走れる。それが糧だ」


 泥に立つ蒲が風に揺れた。


「学ぶことも、手を動かすことも、全部お前らの明日の糧になる」


 子供たちは意味が分かるような、分からないような顔をしながらも、胸の奥が少し熱くなるのを感じていた。


 政治家の選挙カーが表を走っても、彼らの耳に届くのはスピーカーの声だけ。けれど目の前で泥に手を突っ込むのはイスナだった。

 ハチは、意味が分からないまま、けれど胸が熱くなった。

 シャチは一人、後ろで組んだ手をぎゅうと握り締める。

 サメはただ、イスナをじっと見つめていた。


 彼らには、イスナの言葉の全ては理解できない。あまりにも難しかった。それでも、イスナが何か凄いことをしようとしてるのではないかと言うことだけは、分かった。

 この人についていけばきっと安泰なのだと。

 イスナという、表から来た異物こそが、王なのだと。スラムに住む子供たちは自然と理解していた。


 気付けば、彼を王と呼ぶ気持ちが芽生えていた。

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