第一二話 光と影と
選挙ポスター掲示板に、八代肇の禿げ上がった頭が輝いている。贅肉に埋もれた頬がニッカリと笑い、奥歯の金歯がきらりと覗く。彼の笑顔は、下手な人工知能が描いた“人間の笑顔”のように固まっている。
薄いグレージュのスーツはボタンが弾けそうで、空気を入れすぎたバルーンのようだった。
胸ポケットには、汗もない頭をしきりに拭うためのハンカチがのぞいている。
ポスターの下部には赤い帯が掛けられ、白抜きの大文字で『八代はじめ』と名が踊っている。
右側には、『拓こう! 未来を!』のスローガンが掲げられ、左側には『安定・安心・雇用』『日本人の雇用を増やします!』『最低時給の引き上げを!』と大きな書体で並んでいた。耳に馴染む言葉が、これでもかと貼り付けられている。
八代は、坂本靖子と同じ経団党に属していたが、子育て世代を狙う坂本とは違い、働く世代を票田に見据える政治家だった。
御口が出勤し、その黒髪に帽子を被ったところで八代の選挙カーが遠くから掠れた大音声を垂れ流しながら走ってくる。
『八代、八代肇でございます! 日本人の雇用を増やすことをスローガンに、わたくし、八代肇は精一杯努めて参ります!』
御口がジャケットを脱ぎ、動きやすいシャツとベストのみの姿になり、ロッカーからガンホルダーや警棒を取り出し腰へと取り付ける。
そうすれば、御口は市民の姿から警察官の姿へと変貌する。
気合いを入れようと、日に焼けて少し茶色く染まった頬を掌で打つと、熱のこもった皮膚がじんわりと響いた。彼の机の上に積み重なった『禁』の印が押された書類をそろそろ片付けなければならなかったからだ。
『暖かいご声援、ありがとうございます!』
誰かが八代に手を振ったのだろう、スピーカーから僅かに雑音が混じった声が響く。
選挙カーに取り付けられたスピーカーが『八代肇でございます!』と喚くたび、御口のベルトに銃や警棒が重みを増していくようだった。
八代の「雇用を増やす」という声と、「禁」の押された書類の山。そのどちらも人を救うより、人を数として扱っていた。
御口は被った帽子を椅子の背へと掛けて、積み重なった書類を一枚ずつ確認していく。
御口の、上流階級らしい硬く整った筆跡で書かれた申請書類には全て禁の赤い判子が押されて返ってきていた。判子の赤色は乾き、紙の繊維に少し滲んでいるようにも見える。
確認者は内務省に所属している山口壱蔵だった。彼の少し崩れたサインが左下の枠内に記されている。この程度の書類であれば、上まで上げる必要もないということだろう。
「おはよう。おっ、ちゃんと整頓を始めたのか。いいことだ。机の乱れは心の乱れ~ってな」
御口の上司である狭山洋輔巡査部長が歌うように節を付けて言い、奥にあるロッカーでシャツを着替える。僅かにベルトに乗った贅肉が見える。伸びきっていたベルトの穴が二つ前へと進んでいた。
以前、「五年前にはこんな贅肉無かったんだけどな」と照れくさそうに笑っていたことを、御口は覚えていた。
狭山はシャツを着替え、ベストを着ると御口を振り返る。
「あの駅前のコーヒーショップで、新しいなんだったか? 白桃、ピーチ? メルメル、なんとかフラ、ペペチーノってやつ買ってきてくれないか」
照れ臭そうに狭山が言い、財布の中から二人分にも少し多い金額を御口の机へと置く。
「自分で行ってきたら良いじゃないですか」
「やーだよ、恥ずかしいだろ。こんなおじさんがオシャレなカッフェに並んで、ピーチメルメルフラなんちゃらなんて頼むの」
軽口を言うように「やーだよ」と告げた狭山に、御口は軽く苦笑する。
そして、尻ポケットへと片付けていた財布のカードポケットへ、渡された紙幣を折って入れる。自分の紙幣と混ざらないようにするためだった。
「なら、今日は少し早めにパトロール行きますね」
「ああ、最近パトカーの出動も多いから、二回パトロール行くか」
「行くかって、パトロール行くの俺の仕事じゃないですか」
御口の言葉に「そうだっけ」と目尻にきゅっと皺を寄せて笑って見せる狭山に、御口は思わず力が抜けたように笑う。
まずは目前の禁の判子が押された書類を片付けようと、御口は紙の束を纏めてはシュレッダーへとかける。
シュレッダーは機械的に、入れた紙をなんでも砕く。御口の心にしこりとして残るやるせなさを労ることもせず。
机の上に山となっていた書類を砕き終えた御口は、残っていた画一地区の組合旅行のチラシを見る。
首都である皇都から離れ、台頭府の山和地区にある温泉宿へ二泊三日の旅行を計画しているらしい。
そのチラシには、赤い着物の女将が笑顔で手を合わせ、背後には湯けむりに包まれた露天風呂の写真が掲載されている。
「狭山部長、組合旅行知ってましたか?」
「ああ、俺は行くから御口は留守番だぞ」
「聞いてません」
「いま言ったからいいだろ。だからお前は机の上が片付かないんだぞ。それに、そのチラシが届いてたの、二週間は前だ、確認してなかったのはお前の怠慢だ」
狭山のもっともな言葉に、御口は唇を引き結び、チラシをシュレッダーへとかける。砕かれた紙片の鮮やかな赤が、灰色の書類の山に吸い込まれていった。
──この人に口で勝てた試しが無い。
そう思った瞬間、狭山が御口を見る。
「言いたいことがあるなら直接言うんだな。さて、御口がパトロールに行ってる間に俺は仕事だ、仕事仕事ぉ」
「パトロールに俺が行くのに、なんの仕事があるんですか」
御口の言葉に、狭山は「ワッハッハ」と笑い裏へと入っていく。
その時、交番へ小さな影が入ってきた。小学生ほどの少年で、彼は小綺麗なシャツにズボンを履き、二つ折りの白い靴下を履いている。
「こんにちは!」
「こんにちは、どうしたかな?」
少年と視線を合わせるように御口がしゃがむと、彼は右手を突き出す。その上には五〇〇圓皇貨が乗っている。
銀色に鈍く光る五〇〇圓皇貨が、彼の小さな掌に不釣り合いに重たそうだった。
「これ、拾ったので届けに来ました!」
元気いっぱいの少年の声に、御口は自然と口角が上がった。
御口はその様子に、子供を持つどころか、結婚すらしていないにも関わらず父親のような気持ちになってしまった。
「ありがとう、拾って自分のものにしないなんて、偉いぞ」
御口の言葉に、少年は僅かに胸を張り、小鼻を膨らませて誇らしげな表情を浮かべる。普段親や先生以外の大人から褒められることなど、この時分の少年にはそうないだろうことから、相当嬉しいことが分かる。
「それじゃあ、そこの椅子に座ってくれる?」
御口が椅子を示すと、少年はパッと表情を明るくする。
「交番の椅子に座ってもいいんですか!? おれ、僕! 僕、初めて座ります!」
逸る心を抑えきれないのだろう少年が椅子へと腰掛け、両手を握りしめて落ち着かないように足をぶらぶらさせた。
それに、御口は頬を緩める。
少年のはしゃぎぶりに、御口は、子供らしい様子に、どう返していいか分からず頬を緩めた。
御口は机の中から書類を取り出すと、どこで拾ったのか、少年の名前、持ち主が現れなかった場合の措置を問いかけながら埋めていく。
御口特有の硬く、整った字で書き込まれていく『拾得物届』の欄に、子供の声が弾むように重なる。
「もし、落とした人が現れなかったら、君の物になるけど……」
「いりません! お母さんから、人のものを欲しがる浅ましい人間にはなってはいけないって、教えられてるので!」
少年の宣誓にも似た言葉に、御口は、その言葉にかつて自分も抱いた理想の匂いを嗅いだ気がした。
その声は交番という小さな空間に澄んだ音のように響いた。
「そっか、ならお兄さんも頑張ってこれを落とした人を見つけないとね」
「うん、ちゃんと見つけてください! じゃーね、イルカ兄ちゃん!」
椅子から降りて手を振り去っていく少年に、御口は眩しそうに目を眇めて手を振ることで応える。
「狭山部長! パトロール、行ってきます!」
「おー」
書類をバインダーへと閉じて、御口は力無い応えを返した狭山を置き去りに自転車へと乗る。
未だに整備不良の自転車は、ペダルを踏むと動物の鳴き声のような音が鳴る。
「御口さん、今日はパトロール早いのね」
「まあほんと! 相変わらずいい男ね~!」
通り過ぎようとした、井戸端会議をしている主婦たちに声を掛けられる。御口は常通りの笑顔で彼女たちへ軽く会釈をする。
「こんにちは! 今日も暑いですね!」
「ほんと、暑くて嫌になるわ。しかも選挙カーがうるさいでしょう、暑苦しくて嫌になるわ!」
「でもやっぱり、坂本さん! 子育て世代への給付金って、疑う気持ちはあるけど欲しいわよね」
「うちの駿斗はそろそろ就活だから八代さんに当選してほしいわぁ」
女性が三人揃えば姦しいと言うが、本当だなと、御口は苦笑しながら額に滲む汗を拭う。
「あら! そんなに汗かいて! これでも飲んでちょうだい!」
山本が一本のスポーツドリンクを買い物袋から取り出し、御口へと渡す。キンと冷えたそれを、御口は断りきれず「ありがとうございます」と笑い受け取った。
「そういえば、御口さんは組合旅行にいらっしゃるの?」
「ああいえ、自分はここに残るので、代わりに狭山巡査部長が行きますよ。なので、防犯面はご安心ください」
御口の言葉に、主婦たちは残念そうな表情を浮かべる。
「せっかく若いイケメンと行けると思ったのに」
「ねーえ、どうせなら若い子の浴衣とか見たかったわ!」
ケラケラと笑う彼女たちの声に、御口は苦笑し軽く頭を掻く。髪には汗が玉となりぶら下がっている。
「それじゃあ、自分はパトロールがあるのでこれで。スポーツドリンク、ありがとうございました」
御口が軽く会釈をし、ペダルを踏む。それに彼女たちは残念そうな声を出すも、「気を付けてねー!」と声を上げる。その声に御口は「ありがとうございまーす!」と告げた。
遠くから、選挙カーの音の割れた声が聞こえてくる。
『香山耶麻へ、清き一票を』
『内田早世、内田早世へ清き一票を、お願いします』
候補者の名が蝉の声に溶けて、どちらも暑さに絡みついてくる。それらを浴びながら、ペダルへ体重をかけると、ぐんとスピードが乗る。
二人乗りをする高校生へ「こら! 二人乗りは禁止だよ!」と声を掛ければ、彼らは楽しそうな笑い声を上げながら「ごめんなさーい!」と返し、自転車から降りる。
駅前へ到着すると、そこには八代肇の選挙カーが停まり、八代が市民と握手をしている姿があった。
「八代さん、応援してます!」
「ありがとうございます! これからもわたくし、八代肇は皆様の応援を糧に尽力して参ります!」
「八代さん、雇用はあなたに掛かってるんです! 期待してますよ!」
「ありがとうございます! 精一杯尽力して参ります! この八代肇、皆様の安心に太鼓判を押せるよう、邁進して参ります!」
一人一人と握手をしながら、炎天下の中スーツを着用して判を押したように同じ笑顔で、同じ調子で、しかし市井の人間からは違和感を持たれないようなギリギリのところで八代は声を上げている。
彼の禿げ上がった頭には玉のような汗が噴き出し、贅肉の乗った顔は汗で濡れていた。彼の着用している、いまにもボタンが弾けそうなスーツは汗で濡れて張り付いていた。
普段はグレージュのスーツを着ている彼も、今日ばかりは汗ジミを隠すように黒いスーツを着用している。その濃い黒色は汗を隠したが、代わりに熱を吸い込み蒸気をまとっていた。
その八代の様子を後目に、御口は駅前のコーヒーショップへと自転車を置き自動ドアを潜る。
コーヒーショップの中はまるで木陰にいるように涼しく、先程まで炎天下の中自転車を漕いでいたとは思えないほどだった。
自動ドアを抜けた瞬間、冷たい空気が汗に張り付いたシャツを撫で、体温を一気に奪っていく。それだけで、ほんの少しだけ救われた気がした。
「いらっしゃいませ!」
女性スタッフの明るい声に御口は軽く会釈をする。
「新発売のフラペチーノを二つ、カスタム無しで」
「かしこまりました! お持ち帰りですか?」
「ああ、はい。持ち帰りで。袋いただけますか」
御口の言葉に、スタッフは輝かんばかりの笑顔を浮かべて「もちろんです!」と告げる。
「いつも、お疲れ様です」
女性スタッフからの言葉に、御口は一瞬面食らったような表情を浮かべ、そして自分が警察官の制服を着ていることに思い至ると照れが混じった笑顔を浮かべて後頭部を掻く。
「いえ、自分の仕事ですから」
御口は軽く会釈をすると、カウンターを進み受取口で止まる。
そこでドリンクを作っていたバリスタは、待機しているのが警察官であることを確認すると一瞬ギョッとした表情を浮かべるも、彼もまた「お疲れ様です、頑張ってください」と声を掛けて御口へと茶色の紙袋を渡す。
警察官の制服を見ると、誰でも少し構えてしまうのだ。だから御口はこのバリスタのような反応を見慣れていた。
「ありがとうございます」
爽やかな御口の笑顔と返事に、バリスタは一瞬惚けるも「ありがとうございました!」と声を上げる。
御口はフラペチーノの入った茶色い紙袋を自転車の前カゴに置く。プラスチックカップとカゴがぶつかる音がカコッと鳴った。その軽い音は、さっきまでの群衆や選挙カーの喧騒とはまるで別の世界のもののようだった。
そして、来た時とは別の道を進む。
交番へ戻るまでのルートで見回りを終えようとしたのだろう。
スラムの入口である路地を通り過ぎようとした時、背後から声が掛けられる。
「あ、あの!」
御口が自転車を停めて振り返ると、そこにいたのは金髪をモヒカンにした少年だった。
白い肌は垢に汚れ、ボロボロの布を身に纏っているその姿は、明らかにスラムに住む者の様相だった。
「なんだ?」
威圧感のあるその姿に、少年はカラカラに乾いた喉を鳴らして唾液を嚥下する。
「あの、これ……」
彼の薄汚れた手の中にあるのは鍵、それもディンプルキーだった。スラムに住む者が持っているはずのないそれに、御口は眉を顰める。
「これ、拾って……」
「どこで盗んだんだ」
御口の言葉に、少年の目がまん丸に見開かれる。自転車のスタンドを踏み降ろす音がやけに大きく響き、少年は肩を震わせた。そんな少年へ、御口は一歩一歩近付く。
御口の靴底が路地の砂利を踏むたび、少年の肩が小刻みに跳ねた。その足音は、追及ではなく職務の延長にすぎない。だが少年には、それが裁判官の鳴らす槌のように響く。
その時だった。
路地から差す影が少年の背に覆い被さり、その影の主が前へ出る。
白にも見える薄い紫の髪に血のように赤い瞳をした少年。以前、御口がここで見かけた少年と同一だった。あの時と違うのは、少年の拳が血に塗れていないことだけ。
「先、戻っとけ」
「で、でもよぉ、イスナ……」
イスナ、という名が御口の脳のどこかに引っかかった。
どこで耳にしたのかも、思い出せないまま、しかし胸の中にざらつきが残る。
「鍵を貸せ。戻れ」
モヒカンの少年はイスナと呼ばれた少年に鍵を渡してから、後ろを気にしながら路地へと戻っていく。
イスナはスラムに住んでいるにしては髪も服も埃に塗れた他の子供たちと違い、どこか場違いなほど整っていた。
「俺の国民が邪魔したな」
「国民?」
「ああ、テメェらに迷惑は掛けねぇよ、これだけ持ってさっさと戻れ。お使いの途中だろ」
イスナが、顎をしゃくって、御口が乗ってきた自転車カゴの茶色い紙袋を示す。
「どうして、お使いだと?」
御口の問いに、イスナはどうでも良いと言いたげに鼻を鳴らす。
静寂が支配するその路地の前を、蝉の劈くような鳴き声と選挙カーの撓むような音が通り過ぎていく。
「紙袋の膨らみは一本じゃなく二本。軽く染みができているところを見ると、どちらも冷たいもので、この時期にわざわざ制服で買いに出るなら期間限定品を依頼されて買ってきたというところだろ……制服姿でこの暑さに並ぶ馬鹿はいない。頼まれでもしなきゃな」
静かなイスナの声に「そうだ」とも言えず、御口は視線が泳ぎ、汗が頬を伝った。
「悪いことは言わねぇから、早く戻れ。ついでに、おまわりさんにはこれの処理もしてもらわないとな」
イスナは左手に握っていた鍵を御口へと投げ渡す。
その鍵は、人間が握っていたにしては血の通わぬ鉄片のように冷たく、まるで彼が人間でないことの証左のようでもあった。
「ま、待て!」
思わず漏れた御口の言葉にも、イスナな応えることなく路地の暗闇へと姿を消した。
御口は一人、交番へ戻り鍵の遺失物届を記入する。
狭山はフラペチーノに大喜びし、「これ、白桃タルトみたいな味するよ、飲んだ?」と御口に絡んでいた。
「いえ、まだ」
煮え切らない返事をする御口に、狭山は「飲まないなら俺が貰うよ」と笑うのだ。
交番の中は既に日常が戻っていたにも関わらず、ただ御口だけが未だ日常に戻れずにいたのだった。
その手に握った、鍵の妙な冷たさだけが御口の心を冷やしていた。
その冷たさが、鍵のせいなのか、あのイスナという少年のせいなのか、御口には分からなかった。




