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スラムに王は生まれる  作者: 田中
第一章
11/31

第一一話 拝啓、存在する場所

 画一地区のスラムは、日本最大の存在しない場所だった。

 市民すら、なぜこの国にここまで大規模なスラムがあるのかを知らなかったのだ。

 他の地区にある小さなスラムなら、安い焼肉屋や輸入雑貨を買いに足を運ぶ者もいたが、ここではそれすら無い。

 ここでは、安い飯も異国の雑貨も手に入らない。そこにあるのは生活ですらなく、制度に見捨てられた肉体が息をしているだけだった。


 時折、物同士を交換をすることはある。

 しかし、その物々交換も食品が最も高いレートとなっており、貨幣や金はここでは価値も無く、食べ物だけが唯一無二の通貨だった。

 画一地区は、ひどく長い歴史を持つ。

 皇歴一九二五年。五二カ国が参戦した大戦が終結してから、三〇〇年近くが経つ。画一地区は、その戦後に差別を受けた人々が放り込まれた土地を再開発して生まれた区域だった。

 だが、再開発の名を借りても、そこに根付いた差別の記憶は消えない。

 行き場を奪われた人々は、最終的にこの貧民窟へ押し込められた。

 彼らは、制度にとって存在しない者であった。

 しかし彼らは、制度にとって存在しない者であった。

 それでも、息をし、生きていた。


 他の地区に存在するスラムには、もちろん戦争による被害者が住み着いた者もいたが、そのほとんどは戦争移民であった。

 昔からこの国に流れ着き、住み着いた外国人が根を下ろした場所なのだ。

 画一地区のスラムは、差別という過去の記憶と、制度という現在の仕組みによって、二重に閉じ込められた場所だった。


 そのスラムの中、ようやく綺麗な水を飲めるようになった子供たちが、イスナに倣って石や崩れたレンガを使って作った竈に、シャチやサメが鉄板を何度も叩き作った鍋を乗せる。

 その中へ濁っていた水が透き通り、鼻を突く異臭の消えた水を注いで沸騰させ、飲むようになった。

 それにより、これまで毎日のように路地裏に転がる小さな亡骸は、少しずつ数を減らしていった。

 病院も医者もいないこのスラムでは、腹を下せばほとんどの確率で助かることはないのだ。


 イスナがシャチを見上げる。

 シャチもサメも、栄養状態は悪かっただろうに、細いながらも身長は高かった。

 一重の目、細く高い鼻梁、そして薄い唇。三つの要素が揃って、どこか表の有力者を思わせる顔立ちだった。

 シャチの紫色の髪は元からその色だったのだろう、何ヶ月が経過してもその根元から黒髪は生えてこない。

 サメも似たような顔立ちをしていたが、ただ髪色だけが金だった。


「俺ら、髪の色がこーだから捨てられたらしいんだよな」


 過去、彼らはそう言ってイスナへと笑いかけていた。

 そう笑う彼らの口ぶりは、まるで“昨日の飯は酸っぱかったから腹壊すかも”と言う程度の軽さだった。

 イスナと同じく、シャチとサメは親族に捨てられた存在だったのだ。


 イスナは、数多あるビルの中を何かを探すように見回す。いくつかの部屋から本を持ち出すと、ハチとサメにそれを自身の部屋へと持って行くように告げる。


「崩れやすくなってるから、気を付けろよ」


「はーい、おーさま、これ何?」


「いいから持って行け」


 イスナの命令に、それぞれが反応を返して彼らが口々に“おーさま”と呼ぶ存在の部屋へと運ばれていく。

 ビルの下からはシャチが「水配るから並べよ」と声を上げているのが聞こえてきた。


 イスナの部屋へと運ばれた、雨や風に晒されて崩れかけた本が重なる。

 分厚いそれらは、過去戦争の最中に逃げ込んだ者たちが運び込んだ専門書や教科書の山だった。

 それらには、掠れた字で『数学』や『農業』と書かれているものも見える。

 崩れそうなそれらの紙束は、かつて誰かが未来に託した知識の墓標のように積み上がっていく。


 文字を読めるだけで、その知識は命を繋ぐ術となるのだ。


「知識は腹を満たす。これは、制度の外にある俺たちにとっての武器だ」


 そう告げたイスナの言葉を理解する者はおらず、ただハチとサメは互いに顔を見合わせるだけだった。意味は分からずとも、その言葉が妙に胸の奥に引っかかる感覚だけは残った。


「知識が武器だって」


「なんだろうな、武器って」


 彼らのポカンとした表情に、イスナは「いまはそれで良い」と告げる。

 イスナはその中にある『生活の知恵』という本を丁寧に取り上げ、紙を崩さないように巡る。

 硬い紙のページは、折ればすぐに崩れ落ちそうなほどだった。


 イスナは軽く目を通した本を置き、ハチとサメを伴ってビルの下へと降りる。このスラムの中で靴を履いているのは、表から来たイスナだけだった。

 だからこそ、階段をコツコツと降りる音は、イスナという名を告げる合図のようだった。

 その音を聞けば、誰もが“王”を思い出すのだ。


「ガキどもを連れて蒲を取って来い。いつも通り、二〇本だ」


「はーい」


「ガキども! せいほーのガマを取りに行くぜ! 二〇本だ!」


 サメの言葉に、水を飲むために並んでいた子供たちが「わあ!」と声を上げて二人を取り囲む。


「おーさま、はっぱ何にすんの?」


「しきものにすんの?」


「なんで二〇本なの?」


 問いかける子供たちに、イスナは「紙を作る」と告げた。


「紙ってなんで?」


「紙なんて、腹膨れねーじゃん!」


「いつか、分かる。飯はその日の糧になる、知識は明日の糧になる」


「おーさまの話って、難しくてわかんねーよな」


「なー、なんで二〇なんだよぉ!」


 子供たちはわあわあと話しながら蒲の生えているドブ川へと向かって歩いていく。

 まるでサメとハチが引率の先生のようだった。


「なー、ねっこは残すんだよな!」


「トーゼンだろ、イスナが言ってたじゃんかよぉ!」


 蒲の群生地へ到着した子供たちは、宝探しでもするようにソーセージのような蒲を見つけてはガラス片でその茎の根元の方を切る。

 最初に根ごと持って帰った時に、イスナから「次は根を残してこい、根を残せば次が生える」と言われたからだ。それは、未来を刈り取らない知恵だった。


「俺、五本とった!」


「俺は二本!」


「ヤマ、取るのおせー」


「うるさい! 今日はガラス、持ってくるの忘れたんだよなぁ」


 子供たちがワイワイと喋りながら集めた蒲を持ち上げる。算数のできない彼らは、しかし五までの数は数えられる。

 イスナの言っていた、五を四回で二〇だという言葉を覚えていたサメが、彼らの集めてきた蒲を数える。


「五を四回で二〇だって、イスナが言ってたろ」


 ハチの言葉に、サメが「分かってるよ!」と顰め面を作る。そして、二人顔を顔を向き合わせて笑う二人の目には、ほんの少しだけ理解の光が宿っていた。


「いいぞ! 二〇丁度だ!」


 子供たちの歓声は、イスナがいる遠く離れたビルには届かない。

 それでも、イスナの言葉は彼らの中に残り続けていた。

 彼らは、誰に褒められたわけでもないのに、自分が少しだけ誇らしかった。


 生活区域からドブ川までは八〇〇メートルほど離れている。そこから、蒲を抱えた少年たちが歩き戻ってくるのが、イスナに小さく見える。

 段ボールに座り、シャチと軽く言葉を交わしているイスナの姿が見えたハチやサメが「イスナー!」と呼び、手を振る。

 彼らへ視線だけを向けたイスナと、彼らへ手を振るシャチ。

 王としての威厳を崩さないイスナと、ただの兄貴分のように手を振っているシャチ。

 その対照は、子供たちにとってどちらも安心を与えるものだった。


「イスナ、取ってきたぜ!」


 サメがイスナへと渡した蒲に、イスナは頷き、皮膚が切れるほどに鋭く細いその葉を剥がし始める。


「それ、剥がしたらいいのか? 俺もやる!」


「俺も!」


 戻ってきて水を飲んでいた子供が自分も自分もと手を伸ばし、蒲の葉を剥がしていく。葉の繊維が、子供たちの手にざらりと残る。繊維状の棘が指に残って、チクチクした。それでも、子供たちは笑って剥ぎ続けた。

 剥がれた葉は、新聞紙の上へと置かれていく。過去にも残されていた葉は、敷物や窓に貼られてカーテン替わりになっていた。

 指先は赤く染まって痛んだが、その痛みすら遊びの一部のように笑い声へ混ざっていった。

 剥がされた葉は、誰も読めない文字が印刷された古新聞の上に積まれていく。

 新聞の文字は、彼らにとってはただの模様でしかなかったが、その上に新しい未来が積み重なっていくようだった。


「ねえ、イスナ。これなんにすんの?」


「ばーか、紙にするってイスナが言ってたの、聞いてなかったのかよ」


 子供たちがそれぞれに軽口を叩きながら葉を分離させていく。


「今回は茎も使うから、ちゃんと残しとけよ」


「はあい」


「兄ちゃんも手伝えよ!」


 イスナの言葉に応えるハチと、文句を言うサメに子供たちから笑い声が漏れる。

 穂の少し下で切り取った茎を、バキッと音を立てて割き、湿った繊維が手に絡みつくまま捩り合わせて一本の太い紐状に変化させていく。


「イスナ、なにしてんの? 紙作るんじゃねーの?」


「こうすると、籠やロープができる。乾燥させれば縄にもなるし、薪にだってなる。泥と合わせれば壁や屋根にする建材にだってなる」


 イスナの言葉に、少年たちは「へー」だとか「すごいんだな」だとか、そういった言葉を重ねる。

 ふと、イスナが「タラヨウとアケビの葉を取ってきてくれ。確か、東のほうにあったはずだ」と言う。


 茎を捩じるイスナの指先から、水気を帯びた繊維がじわりとはみ出す。

「縄? 引っ張りっこできんのか!」と目を輝かせる子、「薪? そんなのがほんとに燃えるのかよ」と首を傾げる子、「アケビとかタラヨウってなんだよ、何に使うんだ?」と大きな目をキラキラとさせて問う子もいる。

 笑い声の中で、イスナだけが確かに未来を形にしようとしていた。


 イスナが、靴底で砂をざらりと均すと、乾いた土がわずかに白く光った。

 その上に指先を走らせ、丸みを帯びた葉と、細長い葉脈を描く。「絵描いてんのか?」と笑う声、「アケビ? 食えるやつ?」と身を乗り出す声。

 子供たちのざわめきに囲まれながら、イスナの土と植物の汁に汚れた指先だけが確かに未来を形にしていた。


「いいから取ってこい」


 イスナの命令に「はーい!」「分かった!」ときゃらきゃら笑う声が響き、走っていく。

 その間も、イスナは茎をよりあわせて縄の形にしていく。それを見よう見まねで真似をする子供たちがいる。

 遊びという形で、学びを得ている子供たちが、そこには確かにいたのだ。

 よりあわせた茎を、細く裂いた葉でしっかりと固定し、籠の形を作り上げていく。ぎゅ、ぎゅっと湿った繊維が擦れ合う音が鳴り、葉の汁でイスナの指先も、子供たちの指先もぬめった。

 最後の葉を巻き終えると、細長い少し不格好な籠が静かに形を成した。

 その初めての籠が完成する頃には、子供たちが持って戻った二〇本の茎も無くなっていた。


「すげー! 入れ物になった!」


「次はもっと大きいのを作ろうぜ!」


「イスナってなんでも知ってるんだな」


「イスナ、この入れ物、なんに使うんだ?」


 少年たちが覗き込むその籠を、イスナは軽く目を眇めて見つめる。


「それは、これから先お前らが蒲やタラヨウの葉を取りに行く時に使うもんだ」


「俺らが使うのか?」


「やったー!」


「まだ使えねぇよ、しっかり乾燥させてからだ」


 イスナはその籠を持ち上げて立ち上がり一度ビルの中へと戻る。自身の部屋の窓際に干すのだろう。

 籠からは、まだ青臭い汁の匂いが漂っていた。

 イスナが干すために逆さまにして置いたその網目からは外の光が籠を透かして、まだ生きているように見えた。


 イスナが籠へ背を向けて階段を一歩一歩降りていく。

 蒲の茎はビルの補強に使えた。葉は紙になり、暮らしの多くを賄えるようになる。けれど、このスラムで生き抜くには、それだけでは到底足りなかった。必要なものはまだ数え切れないほど存在した。


「イスナー!」


 タラヨウの葉とアケビの葉を取りに行っていた子供たちが遠くから手を振るのが見える。

 イスナは残っていた他の子供たちへ告げる。


「西方に細い竹の群生地があっただろ、そこから竹を一〇本取ってこい」


「竹なんてどーすんだよ、あれ食えねーよ」


「イスナにはなんか考えてることがあるんだろ! 行こーぜ!」


 それぞれが言葉を重ねてイスナの命令のままに動き始める。

 それはまるで、泥の水面に次々と輪が広がるようだった。イスナの言葉を中心に、子供たちの動きが広がっていく。

 イスナの言葉で、子供たちが知識を得ていくのだ。


 子供たちが騒ぎながら走っていく。その足はどれも裸足で土と汚泥に汚れている。

 靴が無ければ、いずれ破傷風で子供たちだけでなく大人も死んでいくだろうことは想像に難くなかった。

 その足は未来へ走っていく。しかし同じ足で、いつか土に倒れ込む日が来ることも知れていた。


「イスナ! はっぱ、取ってきた!」


「俺も! 俺のほうがたくさん取ってきたんだぜ!」


「ああ、葉は重ならないようにその新聞の上に並べて広げろ」


 子供たちが報告をする様子に、イスナは頷き、何が書いてあるのかも分からない、まるで記号ばかりが並んでいるかのような新聞紙の上へと重ならないように葉を広げていく。

 ぱり、と水気を帯びた葉が新聞に触れる音がして、まだ青い匂いがその場に広がった。


「イスナー!」


 細い若竹を抱えて手を振る少年に、イスナはただ視線を向けるだけだったが、代わりにサメが大きく手を振り返す。

 その仕草に、子供たちは王の視線と家臣の手とを同じように嬉しがるのだった。

 彼らが持ち帰った、竹は根元のほうで切られており、彼らがガラス片を使ったらしいことは明白だった。


「これだけあれば十分だな」


 イスナは呟き、その竹をナイフで八等分にする。鉛筆ほどの長さになったそれを、イスナは丁寧に削っていく。

 竹の繊維がぱきりと割れる音に、子供たちは一瞬だけ口を閉ざした。削られた先端が細く尖ると、それはまるで未来を描くための筆のようだった。


「俺もやる!」


「俺も俺も! 俺のほうが、絶対上手いぜ!」


 楽しげに笑いながら彼らもイスナが等分した竹を取り、片側だけを削っていく。まるで、ペンを作るように。


 イスナはその竹で作られたペンで、新聞紙の上に並べられた、一葉のタラヨウの葉に線を引く。

 すぐに線は黒く変わり、葉の上に消えない印が刻まれた。

 子供たちは息を呑んだ。音のない時間がほんの一拍、世界に訪れる。

 次の瞬間、堰を切ったように叫んだ。


「はっぱに、文字書けんの?」


「俺も! 俺もやりたい!」


 少年たちの声に、イスナが静かに言葉を落とす。


「これから、この葉をノートにしてお前らには文字と数字を学んでもらう」


「なんでだよ、別にそんなの知らなくてもいままで問題無かっただろ」


 そうだそうだと重なる声に、イスナは言う。


「籠を編むのは楽しかったか?」


「楽しかった!!」


「蒲の穂で濾過装置を作って、綺麗な水を飲んだのはどうだ?」


「最高だった!」


 それに、イスナは少年たちを睥睨する。

 シャチはこういう時のイスナが、少しだけ怖かった。自分よりもずっと小さな身長なのに、ずっと大きく見えるのだ。

 その目に射抜かれると、声を上げた子供たちですら言葉を飲み込んだ。


「食事は、今日の糧になる。だが、知識は明日の糧になる」


 その言葉は、子供たちにとってすぐには理解できない。けれど彼らの胸の奥には、じわりと火が灯るように残ったのだ。

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