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スラムに王は生まれる  作者: 田中
第一章
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第一〇話 正義の礎

 イスナと御口の邂逅から、既に二ヶ月が経過していた。

 交番の外には選挙用のポスター掲示板が置かれており、十年前から顔ぶれが変わらない面々の笑顔や無表情なのに口角だけ引き上げられている笑顔が飾られている。季節ごとに貼り替えられても笑顔の配置は同じだった。

 彼らは胸の前で拳を作り、まるで何かと戦っているようだとも御口は思う。


 白い書類が、御口の机の上に積み重なる。赤い判子で『禁』と押されている、無味乾燥な白い紙。

 そこには『立ち入り許可申請書』と書かれており、御口の上流階級らしい綺麗な字で『皇都画一地区貧民窟立ち入り許可を願います』と記載されている。


 その申請書には許可を願う理由や必要と思われる理由まで細かに記載がされているものの、書類処理担当者である山口の判子が押されたそれには、『格別に足る理由無し』『治安維持に支障無し』と書かれ、禁の判子が押されるのみだった。赤い禁の印が御口の眼前で、その赤がじわじわと紙を食い破るように広がっていく。それは御口の胸の奥までも食い破っていくように見えた。


 書類は積まれても積まれても、パズルゲームのように減ることはない。

 書類処理担当者である山口は、この返答を淡々と繰り返しているのだろう。

 昨日も。

 今日も。

 明日も。


 御口は山口へ直談判に行けるほどの地位でも無く、彼は頭を抱えて自身の灰色の机に両肘を突くしか無かった。握ったペンが、小さくきしむ。その音すら、彼の怒りを嘲笑うように小さかった。

 その冷たい金属でできた机は、まるで制度そのもののように、彼から体温を奪っていった。

 灰色の机の上に、赤い『禁』の判子だけが、異様に鮮やかに並んでいた。


「現場を、知らないくせに……!」


 声にならない呻きが喉で裂け、血のような熱を伴ってようやく言葉になる。それが、御口の薄い唇からようやく吐き出されるのだ。

 しかし、その声は灰色の机と赤い禁印の前では、ただの空気の揺れに過ぎなかった。

 そんな言葉を上層部に聞かれれば、吹けば飛ぶ程度の地位でしかない御口はすぐに処罰されるだろう。


「御口、もう出勤していたのか」


 御口の上司である狭山巡査部長が自転車から降りて交番へと入り、裏のロッカールームで制服である深い青色の半田帽子を被り、彼の書類が溜まった机へと近付く。

 官僚の制服をまとった途端、狭山は“優しい人間”から“制度に従事する人間”へと変わる。帽子を被った狭山の瞳は硝子玉のように冷え切り、街を監視する制度の目になっていた。

 地域の子供に笑いかける柔らかさは、一片たりとも残っていない。

 青い布地は皮膚に食い込み、血の色すら制度の青に染めてしまうようだった。


 狭山はまだ若く、三〇代半ばほどだろう。柔和な目元と、やや厚い下唇が特徴的で、額の真ん中には大きなホクロがあった。

 地域の子供たちからは「大仏警官」と呼ばれているのだ。


「お前、またスラムの立ち入り許可を提出してたのか、あそこには入るなと言っただろう」


「おはようございます、狭山部長」


 狭山は大仏のような笑顔で、まるで天気の話でもするかのように告げるのだ。

 自身の上司である狭山からの言葉に、御口は立ち上がって帽子を脱いで敬礼で応える。形式だけの敬礼が、机の上の『禁』の印と同じくらい空虚に見えた。

 それに、狭山は「いらないよ」と言うように軽く手を振ることで応えた。


「またスラムか?  お前も物好きだな。そんな紙ばっか積んでも給料は上がらんぞ」


 軽口と共に軽い笑い声を落として狭山は言う。


「ですが、狭山部長! あのスラムは危険です、だからこそ俺たちのような法の行使者が必要なんじゃないですか」


 狭山は、御口を高く評価していた。時には危険とも思えるほどの、彼の強い正義感すらをも。


「なら、御口。そんなに心配なら教えてくれるか? スラムでの発砲件数は? 死亡率は分かるか?」


 狭山からの言葉に、御口の握った拳が体の隣で震え、喉が渇き声が出ず、ただ口を噤むことしかできなかった。

 貧民窟に住むような人間が拳銃を手に入れることなどできはせず、死亡率など解明されていないことなど、御口よりも長く警察官としてこの交番に務めている狭山は分かりきっているだろうに、数字を求めるのだ。


「発砲件数も死亡率も分からないのに“危険”か? お前の心配は統計に残らないだろ、いまはそんなことより、パトロールの準備の方が大事なんじゃないか」


 あまりにも最もな狭山の言葉に、御口は唇を噛む。

 何をするにも書類が必要で、何をするにも理由が求められ、何をするにも数字を問われる。

 御口は制度と正義を信じていた。正義を信じるほど、制度に縛られる。

 だからこそ、それらに従うのだ。


 午前九時。

 外からは選挙カーの声が聞こえてくる。

 机の上に積まれた赤い『禁』の印が、窓の外から響く選挙カーの声と同じくらい鮮烈に見えた。


『山城、山城一二三です! どうぞ、清き一票を山城へ!』


 山城のポスターには、『三星党』『画一地区に素晴らしい未来を!』と空虚な言葉が並べられている。


『わたくし、山城一二三が当選しましたあかつきには、貧民窟の縮小をお約束します!』


 そのやけに明るく健康的な声は、御口の耳にもガンガンと脳を揺さぶるほどに聞こえてくる。

 顔と声の良い山城は、主婦や大学生から圧倒的な支持を得ており、彼の当選は確実だろうとまで言われている。


 山城の言った“縮小”という言葉ばかりが御口の脳内を何度もリフレインし、朝に返却された申請書に押された『禁』の印と重なる。

 縮小の二文字が、御口の視界の隅に赤く染みついて離れない。


『わたくし、山城一二三が当選しましたら、皆さんの恐怖の根源であります、貧民窟の縮小をお約束致します!』


 御口が何度踏み込もうとしても、立ち入り許可申請を提出しても許可を得ることのできなかったそこを、山城のスピーカー越しのノイズ混じりの声は、ただの地図の余白に描かれた汚点のように口にするのだ。

 ガガッとノイズの混じるスピーカーの声。その下で、御口の心臓だけがやけに鮮やかに打っていた。


 御口にとって、スラムとは破壊するべきものであり、撤廃するべきものでもある。

 しかし、それは“誰かの手によって”ではなく、“正義の名のもと”に、御口がするべきものであるのだ。

 縮小。その二文字は、御口にとって屈辱そのものだった。自分以外の誰かが、正義を口にすることへの胃の底から酸が込み上げるような悔しさ。


『投票は、三星党の山城一二三へ、お願いします!』


 目を閉じても、整った目鼻立ちに太い眉、薄い唇をした山城の姿が浮かぶ。

 選挙カーが動いているのか、徐々に山城の声が遠くなっていく。

 御口と山城は同じ“正義”を語る声なのに、山城には拍手が与えられ、自分には『禁』の判子しか返ってこない。それが、何よりも悔しいのだ。


『坂本靖子、坂本靖子へ清き一票をお願いします!』


 山城の選挙カーが通り過ぎたかと思うと、低い女性の声が雑音と共に響く。

 きっと、誰が当選したとしてもスラムは変わらないのだろうと御口は思う。何故なら、彼らは最初から“記録”の欄に存在しない。数字にならない存在は、制度にとって人間ではない。

 彼らは、存在しないことにされている存在であり、人権すら持たない者なのだ。彼らは存在しない。ならば守るべき権利など最初から無い。

 だからこそ、スラムに与えられるのは救済ではなく、縮小こそが正義なのだ。


『経団党へ一票を、よろしくお願いします!』


 パトロールへ行くために交番の外へ出た御口の目に、選挙ポスター掲示板が映る。

 坂本靖子の選挙ポスターには、白に近いピンク色のスーツを着用し、左頬だけが不器用に上がった笑顔が写っていた。細い目に、丸く大きな銀色の眼鏡が不格好にも見える。

 その左側へ『住むなら、画一地区』と書かれており、右側には『安心、充実、楽しい子育て』『老人みんなニコニコ元気』と記載されている。


──安心、充実、楽しい子育て


 その言葉が、御口の脳裏では『縮小こそ正義』と同じ音色で響いていた。

 しかし、そんな御口とは違い、坂本の掲げる『安心、充実、楽しい子育て』の文字列に、スーパー帰りの主婦が足を止め、朝の散歩のためにベビーカーを押す若い母親が小さく頷いた。その安っぽい言葉が、彼女たちには確かな救いに聞こえているようだった。

 ベビーカーにぶら下がったコンビニの袋から、半額シールの貼られたパンが覗いている。


『わたくし、坂本靖子が当選いたしましたら、子育て世代への支援金を惜しみません! 現在の財源の見直しをし、子育て世代へ給付金を!』


 坂本の雑音混じりのスピーチに、子育て世代なのだろう、主婦らしき女性が手を振っているのが見える。


『ご声援、ありがとうございます! 暖かいご声援、ありがとうございます!』


 その声を背中に、御口は交番専用の自転車へと跨り油を挿していないためにギコギコと音の鳴るペダルを踏む。


「あ! イルカ兄ちゃん!」


 遅い時間に登校をする少年たちが御口の姿を見て手を振る。


「よう! 気を付けろよー!」


「はーい! 兄ちゃんも気を付けろよ!」


 御口にとって、彼ら子供は守るべきものだった。スラムが近くにあるこの場所で、市民である子供の笑い声は大切なものだった。

 御口にとって、スラムとは肉食獣の棲み家である。


 人間をとって食う獣を処理するためには申請が必要で、御口はただ、その処理申請書を出しているに過ぎないのだ。

 狼や熊が人を喰らえば処理をするのに山へ入る申請がいる。

 そのような獣を駆除するには猟銃を持つ申請がいる。


 御口にとってスラムとは、治安を食い荒らす獣でしかないのだ。そこに踏み入って正義を行使するには、申請が必要で、立ち入り許可を貰うしかない。

 だからこそ御口は、自分の正義を貫くことと、制度に従うこととを同じものだと信じて、何度も何度も同じ申請書に判を押すのだ。


「イルカのにーちゃん! 学校まで乗せてってよ!」


「よう、加藤の坊主。ちゃんと歩いて行けよー!」


 御口へ声をかける中学生の少年に、御口は口を開けて笑い、返事を返す。

 まるで動物の鳴き声のように音を鳴らす自転車で、御口は画一地区を回る。それには当然スラムの入口前も通る。


 キィコキィコと音を鳴らすペダルを踏む。そのスラム前には、誰もいなかった。

 二ヶ月前にスラムの前を通った時にはイスナが死にかけた李というエスニック食材店の店員を捨てていたが、それも無い。

 御口にはそれが、数字には現れない不具合が、いまにも露呈するかのように思えた。

 統計も書類も沈黙しているのに、胸の奥で警鐘だけが鳴っている──そんな感覚だった。


『坂本靖子に、清き一票をよろしくお願いします!』


 エスニック食材店の近くには、日本に帰化した外国人も多々住んでいる。その人たちへ向けての演説だろう。


『坂本靖子が当選しましたあかつきには、安心、充実、楽しい子育てをお約束します!』


 大きな声がスラムの入口までも響いている。それはスラムの中まで届いているだろうほどの演説だった。


『画一地区に住んで良かった! そう思われるような政治を致します!』


『山城一二三に、清き一票をお願いします!』


 坂本の声がまだ空気に残っている。その尾を引く残響は、途切れる間もなく新しい声に上書きされる。まるで古い録音テープに新しい音を無造作に重ねるように。


『わたくし、山城一二三が当選しましたら、貧民窟の縮小をお約束致します! いまは洗濯物を干すことも、買い物へ出る時にも不安でしょうが、わたくしが当選しましたら、そのような不安も無くなることをお約束します!』


 残る女の声と新しい男の声が一瞬だけ混ざり合い、まるで機械仕掛けの合唱のようにスラムへと響き渡った。そこには調和はあっても、意味はなかった。

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