敬人vsアーロ②
魔法。それは、魔法使いと呼ばれる者たちが使う奇跡の力。魔法は一人につき一つの系統のみが、術者の物心つく頃に自然と発現すると言われている。魔法を使うには相応の魔力が必要であり、その規模や効果によって消費量も大きく変動する。また、使い手自身の系統の「解釈」次第では、既存の枠にとらわれない新たな魔法を生み出すことすら可能だという。
「もう大体手は尽きたよね。今までの練習で僕が見た君の技ってそのくらいだったし。」
宙に浮いたまま、血の推進力で器用に体勢を制御しながら、敬人が静かに、そして冷ややかに告げた。
敬人は吸血鬼の能力の一つとして、他者の夢への介入と操作を既に体得していた。それは、気絶してしまい練習相手として機能しなくなったアーロを、それでもなお効率的な「練習台」として活用するために、彼が独自に編み出した手法だった。
敬人がこの夢の操作を覚えるのに、そう多くの時間は必要としなかった。
始まりは、バニラに初めて出会ったあの夜。敬人には、彼女の家を訪れてから翌朝自室のベッドで目覚めるまでの記憶が、綺麗に抜け落ちていた。吸血鬼となった今、その特性や伝え聞く能力と照らし合わせ、敬人はこの記憶の不存在を「バニラによって夢を操られ、無意識のまま帰宅したからではないか」と、ある種の確信めいた推測を立てていたのだ。
『あ、そうだ。私のことはバニラでいいわよ。親に「さん」なんてつけるものじゃないものねぇ。』
バニラに血を吸われ、薄れゆく意識の中で告げられた言葉。その時の自分は、確かに「わかりました」と答えたはずだ。
夢への介入の発動条件は、対象が眠りに入る直前に話しかけ、明確な返答を得ること。
敬人はこの条件を突き止めると、アーロが戦闘で消耗し、息も絶え絶えになると、半ば無理やり彼女に言葉を交わさせ返答を引き出した。そしてアーロの夢に入り込んでは、自身に対する強烈な敵対意識を植え付けた。その結果、アーロはたとえ意識を失ってなお、夢に操られる形で敬人に襲いかかり続けるという、まさに彼にとって都合の良い練習台と化していた。
「アーロさん、君は記憶がないのかもしれないけど、この数日間、僕は君を操って僕と戦ってもらってたんだ。」
地面に膝をつき、荒い息を繰り返すアーロに、敬人が淡々と言葉を続ける。
「操って…?何を言ってるんだ、お前は…」
アーロは混乱した表情で敬人を見上げる。
「君の意識を絶つ技も、実は何度か貰っちゃってさ、どうやって攻略しようか見つけるのに結構苦労したんだよね。」
抑揚の少ない、どこか他人事のような声調で敬人は続ける。
「僕が使い魔とか出しながら戦ってたこと、知らないでしょ、君。」
敬人の下半身は、先程の戦闘でアーロによって斬り抜きで再生素材ごと奪われ、膝から先がないままだ。そしてアーロ自身は、いまだ敬人からの直接的な有効打をただの一発も受けてはいない。しかしいくら斬っても、どんな手を使っても即座に復活し、あまつさえ自分の技を全て見透かされているという現実に、アーロの戦意は尽きようとしていた。
「このまま戦えば、君を倒せると思うんだ。たださ、さっきバニラが君の体を治したよね。僕、まだあれのやり方、よくわからないんだよね。」
「なにを…言っている…」アーロの声が掠れる。
敬人は少し申し訳なさそうな、困ったような表情を浮かべて言った。
「だから、今から君をちょっと壊してさ、それを治す練習に使おうと思うんだ。」
「は…? やだよ…。やめてくれよ…!」
これから自分の身に何が起きるのかを想像し、アーロは恐怖に顔を引きつらせ、狼狽した様子で首を振った。
「安心してよ。外傷を治すだけなら、夢の中にずっといてもらえば痛みとかはないと思うんだよね。寝て起きてみれば、綺麗な体で何事もなかったかのように元通り、っていう感じでさ。」
アーロはその言葉に、一瞬だけ安堵の表情を浮かべた。しかし、続く敬人の言葉に、その表情は絶望へと一変する。
「でも僕、今から魔法使いを倒そうと思ってるんだ。というわけでさ、いくつか君たち魔法使いについて質問があるから、それにちゃんと答えてくれたら、すぐにでも寝させてあげようかなって。拷問っていうとちょっと僕も引いちゃうんだけど、まあ、ついでだし教えてほしいなって。」
自分がこれから何をされるのか。その想像が現実味を帯び、アーロは膝から崩れ落ちた。震える瞳で上目遣いに敬人を見ると、その表情は言葉とは裏腹に、新しいおもちゃを見つけた少年のような、無邪気で、それでいて少し高揚した雰囲気すら漂わせていた。
「まずは…そうだな、切り傷から行こうか」
敬人はこともなげにそう言うと、自身の血から作り出した短いナイフを構えた。
地下の惨状を見下ろす観覧席で、竹本がバニラにしか聞こえないくらいの小声で話しかける。
「…めちゃくちゃ言うね、彼」
「そうねぇ。まだまだ吸血鬼の力をつけてくれるみたいで、わたしも嬉しいよ。」
バニラはうっとりと目を細め、手にしたグラスを傾ける。
「いや、嬉しがっちゃうのか…。拷問はいやだとか本人は言うけど、やってる内容は普通に拷問じゃないか? しかも躊躇なくできちゃうのは、ちょっと怖いんだけど」
竹本は若干引き気味だ。
「怖いなんて言わないでよぉ。いい子なんだよ、ケイトは。今だって、私に褒められるために、一生懸命覚えた技を見せてくれて、新しいのも覚えようとしてるんだから。いいこ、いいこだねぇ」
「褒められるため…?」
「そうだよぉ。わたしが『吸血鬼の力にもっと慣れて』って言ったから、今日までアーロちゃん相手に頑張ったんだし、『魔法使いを倒そう』って言ったから、こうして情報を聞こうとしてるんだよ、ケイトは」
バニラはいかにも満足げに、そして少し得意げに話す。
「にしても、勢いがすごいというか…。あそこまでとことんやる子だとは、私も最初おもわなかったなぁ」
「ふふふ……でしょう? わからなかったでしょうねぇ。でも私は、ケイトがそういう、純粋で、どこまでも真っ直ぐな子だと思ったから、私の『子』に選んだんだぁ。」
バニラのグラスが空になり、竹本がおかわりを作るために静かに席を立ち、階段を上がっていく。空のグラスだけが残されたテーブルに肘をつき、バニラは今まさに「練習」に励んでいる敬人の姿を、愛情深げに、そして期待に満ちた瞳で見つめていた。
まだ夜は、始まったばかりだ。
他人を治す方法は、結局のところ自分を治すことの応用技術のようなものだった。傷を負った箇所を一度「煙」という不定形な状態に還元し、それをかき集めて元の通りに再構築する。敬人自身の体で何度も繰り返したそのプロセスを、そっくりそのまま他人の体で行う。対象の肉体の構造を正確にイメージし、自分の血を触媒として慎重に組み上げていく感覚は、自分自身を治すよりもむしろ手応えがあり、ある意味では楽なものだった。どんな種類の怪我でも対応できるようにならなければ。敬人の探求心は尽きない。
切り傷の治療中、アーロは必死に耐えていた。敬人が血で作ったナイフで、腕を、足を、腹を、何度も何度も切り裂かれては、その都度もどかしいほどゆっくりと治されていく。その苦痛の繰り返し。それをマスターした敬人に、次の練習台として右手首をあっさりと切り落とされた時も、涙は止めどなく溢れ、声にならない悲鳴は漏れ出たが、それでもアーロは必死に耐え抜いた。切り傷の治療の延長線上に、四肢の切断があることくらいは、彼女自身も予測できていた範囲のことではあったからだ。
アーロの所属する「フィクサーズ」は、30人程度を抱える魔法使いの世界では中規模の、いわば裏社会の組織である。中でも、表の世界である人間の世界に干渉できる任務に就けるのは、アーロを含めてわずか3人のみ。そのエリートメンバーに抜擢されるため、彼女は日頃から厳しい訓練を積んできた。拷問に対する耐性訓練も、その一環としてある程度は受けていた。それ故に、四肢の欠損という、通常ならば最大級の苦痛を伴うはずの拷問さえも、彼女はかろうじて乗り切ることができたのだ。
「よし、切断系の傷の治療の特訓はこんなものかな。次は打撲とか、骨折系の練習だね。」
切り傷と切断の治療をマスターしたらしい敬人は、一息つくと、休む間もなく次の「練習」を開始しようとする。
それを聞いたアーロの口から、か細く、絶望に染まった声が漏れた。
「次…?」
耐えきれたと思った苦痛が、まだ続くという事実。その一言が、かろうじて繋ぎとめていたアーロの精神の糸を、容赦なく断ち切った。ぽっきりと、何かが折れる音が彼女の中で響いたかのようだった。
まだまだ終わりそうもないこの拷問。そして、通常の拷問とは異なり、傷つけられては治され、決して死ぬことも意識を失うことも許されず、延々と苦痛が続いていくこの状況は、肉体が受け止められるダメージの許容量など全く関係なく、ただ敬人の意思ひとつによって永遠に続くかのように思えた。
忍耐のダムは決壊した。
「すまない……っ! すべて話す…! 話すから、もう…夢の中に、お願いだから、夢の中に逃げさせてくれっ!」
アーロはもはや、ただ泣きじゃくりながら、床に額をこすりつけて懇願することしかできなかった。