夜遊び②
「え……バニラ、これ……この人って……もしかして、魔法使い……?」
「ふふ。せいかぁ~い。びっくりしたでしょ。捕まえといたんだぁ私が昨日の夜。すっごい逃げようとするし、大変だったんだよぉ連れてくるの」バニラは楽しそうに語る。
「そりゃあ逃げるでしょう。捕まえられそうになったら。魔法使いって言っても見た感じ僕ら人間と同じように見えますね。すごい幸せそうな顔して寝てる。」
眠っている魔法使いの顔は、マスクの異様さとは裏腹に、どこか幼く、安らかですらあった。
「そういう夢見せてるからね。心の準備はいい?起こすよ。」
「え?」
バニラがパチン、と指を鳴らす。その瞬間、魔法使いの女がびくんと体を震わせ、ゆっくりと目を開けた。そして、バニラを見るや否や、金切り声を上げた。
「ひぃいぃぃいいい。化け物!!ばけものーーーー!」
その絶叫は、空間の壁に反響し、僕の鼓膜を震わせた。いったいどんな連れてきかたをしたんだ、と内心でバニラの無茶苦茶ぶりに呆れる。
「こんばんは魔女さん。ちょっと落ち着いてねぇ。」
バニラが優しく声をかける。魔法使いは、なおも何か叫ぼうとしたが、バニラの有無を言わせぬ気配に圧され、声が喉につかえた。涙は止めどなく溢れ頬を伝うが、必死に唇を噛みしめ、嗚咽を押し殺そうと全身をこわばらせているのが見て取れた。
(すごいな、泣きながら無理やり口ふさいで黙ってるよ)
「偉いねぇ」バニラが魔法使いの頭を撫でる。しかし、彼女は恐怖に強張ったまま、小さく震えるばかりだ。バニラは楽しげに微笑み、僕の方へ向き直った。
「実は折り入って魔女さんにお願いがあってねぇ、そこにいる男の子、ケイトっていうんだけど、彼と戦ってほしいんだよね。」
「え」僕が? 思わず声が出た。
「殺す気でねぇ。やってもらって、ある程度協力してくれたらおうちに返してあげるよぉ。」
殺す気で? バニラの言葉が脳内で反響する。
「あんしんしてねぇ、いうとおりにすれば五体満足で帰れるからさぁ」
バニラの言葉に、魔法使いがわずかに反応を示した。どうにか涙をこらえながら、震える声で口を開く。
「恩情は…ありがとうございます…。しかし、ある程度、では困る。どこまでやれば…解放してもらえるのだ?」家に帰すという言葉を聞いて、少し冷静さを取り戻したようだ。その瞳には、絶望の中にもわずかな希望の光が宿っているように見えた。
「ケイトが満足したら返してあげるよ。期間はちょっとわからないかなぁ」
「「満足?」」
僕と魔法使いの声が、奇しくもハモってしまった。
「うんそうだよ。ケイト、君は今からこの魔法使いに勝つために頑張るんだよ。いろいろ試してみて、吸血鬼の力になれようねぇ。」
なるほど、吸血鬼の練習、ということか。目の前の魔法使いは明らかに手強そうだし、今の僕が勝てる想像はつかない。けれど、これは必要なことなのだろう。それに、心のどこかで、この状況に奇妙な高揚感を覚えている自分もいた。
「わかりました、やりましょう。」
返事に力が入りすぎたのか、バニラが少し驚いた顔で僕を見た。しかしすぐに、いつもの優しい笑みを浮かべて告げる。
「いい子だね、頑張りなよぉ。」
「はい!」
「じゃあ魔法使いちゃん、今から君を縛ってるベルトを消すから、それを開始の合図として使うわね。」
「いいだろう」
さっきまで泣き叫んでいたとは思えないほど、魔法使いの顔つきが精悍なものに変わる。その鋭い眼光に射抜かれ、僕も自然と背筋が伸び、緊張が高まる。
「じゃあスタート~~ぉ」
バニラの間の抜けたような声と共に、魔法使いを縛っていたベルトが音もなく消え去った。
刹那。
「――輪切り」
魔法使いの静かな声が響いたと思った瞬間、僕の視界が鮮血で真っ赤に染まった。何が起こったのか理解する間もない。ぐらり、と体が傾ぎ、自分の体が地面に崩れ落ちるのを、どこか他人事のように感じていた。どちゃっ、という鈍い音が響く。ああ、これは僕の体だったものか。
薄れゆく意識の中で、少し呆れたようなバニラの声が聞こえた気がした。
「こんなんでいいのか?」
魔法使い――アーロと名乗る彼女への、僕の記念すべき第一回目の敗北だった。
どれほどの時間が経ったのか。ふと意識が浮上すると、バニラが僕の頭部のパーツを拾い上げ、何かを囁いているのが分かった。
「負けちゃったねぇ。」
首から上だけのはずなのに、その声は不思議とうっすらと聞こえる。身体の感覚はまるでない。
「じゃあ治ろうか。この程度のけがならもともとの君の血で余裕だよ。吸血鬼の傷の治りは復活の仕方をイメージすればするほど早くなるからね。最初はゆっくりでいいから頑張って治してみよう。」
バニラの言葉を頼りに、僕は必死に「治る」ことをイメージした。バラバラになった肉体が再び一つに繋ぎ合わさり、元の形を取り戻す様を。それはまるで、難解なパズルを組むような、途方もない作業に感じられた。
しばらくして、僕の肉体は再生し、なんとか元の恰好まで戻ることができた。手足が動き、視界が安定する。自分が生きている(?)という実感。
周囲を見渡すと、魔法使いは再び椅子に固定されていた。そしてバニラは、いつの間にか用意された小さなカウンターテーブルで優雅にキセルを燻らせ、お酒らしきグラスを片手にこちらを満足そうに眺めていた。
「27分42秒だねぇ。これを縮める練習をしながらどうにかしてアーロちゃんを倒そうねぇ」
「アーロちゃん?」
「あの子の名前だって。さっき教えてくれたんだ。」
「そうですか」
思った以上に何もできなかった。おそらく、ベルトが消えてから一歩も動いてすらいないだろう。こんな状態で、本当に勝てるのだろうか。一瞬、心が折れそうになる。
「準備ができたら好きな時に声をかけてねぇベルトを外すから。」
気づけば、バーのマスターである竹本さんも、いつの間にか地下に下りてきており、バニラと同じテーブルに座って僕らを静かに眺めていた。どうやらバニラにおかわりの飲み物を作って運んできたらしい。その表情は穏やかだが、どこか僕の出方を窺っているようにも見える。
「再生のコツとかって何かないんですか?」何かとっかかりが欲しい。このままでは埒が明かない。
「イメージだよ。吸血鬼がこうやって復活したらかっこいいなって。いいかい?人間だった時の癖とかは私たちにとっては邪魔でしかないからねぇ。」
人間だった時の癖…。確かに、バニラは戦いの最中、どれだけ体を切り刻まれようとも、怯むことなく相手に向かっていき、血で作った武器を状況に応じて自在に変化させていた。その動きは、まさに人間離れしていた。
「ほら、さっきばらばらに切られてたけど、痛みとかもう感じないでしょう」
バニラに言われて、僕は自分の身体の状態を改めて確認する。
「確かに…」
あの壮絶な斬撃を受けたはずなのに、今はもう痛み一つ感じない。ただ、バラバラになった時の不快な感覚と、再生時の途方もない疲労感だけが残っている。
イメージか…。そういえば、バニラは敵に切り刻まれた時、飛び散った血を集めて血だまりを作り、そこからまるで何事もなかったかのように、金の斧銀の斧の泉の神様みたいに頭からすっくと再生していた。
(ただ僕、あれ見てゾンビみたいだなって思っちゃったんだよなぁ…)
もっと別の、僕自身の「かっこいい」と思える復活のイメージを持つべきだろう。切られても、一瞬で、スタイリッシュに再生するイメージを。
「吸血鬼…か。」
ふとバニラに目をやる。月光を吸い込んだような黒衣に、血のように赤い唇。優雅にキセルを燻らせるその姿は、退廃的でありながらも圧倒的な美しさと自信に満ち溢れている。完璧に計算された所作、余裕綽々の微笑み。大人の世界のことはよくわからないが、彼女の一挙手一投足が、まるで一枚の絵画のように完成されている。
この人を楽しませるために、もっと頑張りたい。改めて、そう思った。
「バニラ」僕は意を決して口を開いた。「僕があいつを倒すまで、まだかなりかかると思うんだけど、付き合ってくれるか?」
その言葉が発せられた瞬間、椅子に縛られている魔法使い――アーロの顔が、見るからにこわばった。
バニラはキセルから細く紫煙を吐き出し、やさしく笑って言う。
「もちろんよぉ」
アーロが絞り出すような声を上げる。その声には、怒りよりも純粋な恐怖が滲んでいた。
「お前…私に勝てるつもりでいるのか? 手も足も出てなかっただろう!」
「うん。多分僕はこの後何回も瞬殺されると思う。復活のコツをつかんで、さらに君に勝つまではかなり時間がかかると思う。アーロさん、悪いんだけど、付き合ってくれるとありがたい。」
僕は本当に本心から、ありのままの気持ちをアーロに告げた。
バニラは僕の言葉を聞いて、くすくすと無邪気に笑っている。しかし、アーロはそんな僕の発言に、理解できないものを見るような、底知れない恐怖を覚えたようだった。
「気持ち悪いよお前! 恐れる心とか…少しはもてよ!」
アーロの震える声が、静かな地下室に響く。僕は、本当に本心から、ありのままの気持ちをアーロに告げた。
「怖いよ、魔法使いと戦うのは。でもさ、僕は結構楽しいんだ、今。」
「お前……異常だよ。」
アーロの声は、もはや囁きに近かった。その瞳には、僕に対する明確な「拒絶」と「戦慄」の色が浮かんでいた。
そこからさらに三度、僕はアーロに挑み、そして瞬殺された。再生時間は少しずつ縮まってきたものの、アーロの動きには全くついていけない。
太陽の光が恋しくなってきた頃、バニラがぽん、と手を叩いた。
「もうそろそろ朝になるわねぇ。今日は終わりにしましょうか。」
「はい。なんの進歩もなくすいません。」
消耗しきってはいたが、不思議と心は折れていなかった。むしろ、どうすれば勝てるのか、次は何を試そうかと、思考はクリアだった。
「ふふ…明日からも頑張ろうね」
バニラはそう言って、優しく僕の頭をなでる。その温かい感触に、少しだけ安堵感を覚えた。
「ケイト、帰る前にこれをあげるわぁ」
バニラが僕の右手の甲に、そっと唇を寄せた。柔らかな感触の後、そこには小さな黒い蝙蝠の印が浮かび上がっていた。
「これね、私の使い魔なの。呼べば出てくるし、頼めば魔法使いちゃんの拘束も外してもらえるからね。」
「ありがとうございます。あの、竹本さん、今日学校の帰りにも練習をしたいんですが、ここ使わせてもらってもいいですか?」
この感覚を忘れないうちに、もっと試したいことがある。
僕の言葉に、アーロが信じられないという表情で目を見開いた。弱々しく、途切れ途切れに声が漏れる。
「お前…あれだけ今日負けといて、もう…午後には来るのか…?」
アーロの絶望的な視線を受け止めつつ、竹本さんは穏やかに答える。
「うん。いつでも使っていいからね。」
「ありがとうございます。では今日はこれで失礼します。バニラ、次はいつ会える?」
「そうだねぇ、アーロちゃんに勝てるようになったらかなぁ。まあ私もたまにこの店には来るけどね。」
「そっか。わかった、ならなるべく早く倒せるようにするよ。」
僕はバニラと竹本さんに一礼し、隠れ家のバー「ノクターン」を後にした。
僕が階段を上がり、自販機の扉の向こうに消えると、竹本さんがふう、と息をつきながらバニラに話しかけた。
「すごいの連れてきたね。彼、ちょっと頭のねじ外れてない?」
「すごいでしょう、私の楽しいこと見つけるセンス。」バニラは得意げに胸を張る。
「いやーおみそれしました。」竹本さんは苦笑とも感嘆ともつかない表情で笑って言った。
「じゃー私も帰って寝るわ。血が足りなくなったらあげてね。お代は私が払うから。ケイトのことよろしくね。」
いかにも眠くなさそうなのに、バニラはわざとらしく大きなあくびをしながら階段へと向かう。
「バニラちゃんは見ないのか? ケイト君の練習」
竹本さんが不意に尋ねると、バニラはキセルを一息ふかし、ゆっくりと振り返った。その瞳には、いつもの悪戯っぽい光とは違う、どこか深い洞察の色が浮かんでいた。
「彼、私をまねようとしちゃってるからねぇ。いないほうがでそうじゃない? オリジナリティ。」
そう言い残し、バニラは猫のようにしなやかな足取りで、闇の中へと消えていった。