夜遊び①
三日という時間は、まるで瞬きする間に過ぎ去ったように感じられた。
約束の日の夜、時計の針が23時半を指す頃、僕は自室で息を潜めていた。階下からは、週末の夜を楽しむ両親の陽気な話し声が微かに聞こえてくる。今日は「疲れたから早く寝る」と宣言しておいたので、彼らが僕の部屋まで様子を見に来ることはないだろう。音を立てないよう慎重に窓の鍵を開ける。
窓枠に手をかけた瞬間、ひやりとした夜気が頬を撫でた。それは前回感じたものとは少し異なり、冷たさの中にも微かな湿り気と、様々なものが混じり合った夜の匂いを含んでいた。肺を満たすその空気に、僕は自分が再び夜の世界へと帰ってきたことを実感する。
吸血鬼となって得た最も顕著な特徴の一つが、この驚異的な夜目だった。以前なら闇に沈んで何も見えなかったはずの景色が、今はまるで真昼のように、いや、それ以上に鮮明に細部まで見渡せる。月明かりだけでも普通に読書ができるほどだ。
だから、最初の夜に見た風景とは、まるで印象が違って見えた。どこまでも広がる夜のパノラマ。しかし、そのクリアすぎる視界の中に映るのは、風に揺れる街路樹の葉以外、ほとんど動くもののない静寂の世界。民家から漏れ聞こえる生活音や、意識しなければ捉えられないほど希薄な人の気配も、前回よりもさらに遅い時間のせいか、ほとんど感じられない。まるで、世界に僕一人だけが取り残されたような錯覚すら覚えた。
わざと少し遠回りしながら、逸る心を抑えてゆっくりと歩を進めた。ほんの十分ほどの道のりだが、その一歩一歩が、これから始まるであろう未知の体験への序章のように感じられた。約束の時間ちょうどに、あの路地裏にたどり着く。
ほどなくして、闇の中からふわりとバニラが姿を現した。前回と同じ、月光を吸い込むような黒衣。その歩みは猫のようにしなやかで、音もなく僕の前に立つ。ほんの少しだけ、約束の時間より遅れて。
「あら、ケイト。早いのねぇ。感心感心。じゃあ、早速行きましょうか」
その声は、夜の静寂に溶け込むように優しく、しかし有無を言わせぬ響きを持っていた。
「こんばんは、バニラ。…どこへ行くんですか?」
「ふふ、ちょっとしたお友達のお店よ。きっと気に入るわ」
彼女は悪戯っぽく微笑むと、僕に背を向けて歩き出した。
しばらく無言で彼女の後をついていくと、やがて見覚えのある場所にたどり着いた。いつも僕が登校中に横目で見ている、狭い路地のちょうど中間あたりにぽつんと設置された、古びた自動販売機だ。一体誰がこんな場所で飲み物を買うのだろうと、常々疑問に思っていた自販機。
バニラは慣れた様子でその自販機の前に立つと、おもむろに自販機の右端にそっと手をかけた。そして、まるで隠し扉でも開けるかのように、ゆっくりと、しかし確かな力でそれを手前に引いたのだ。ゴトン、という低い音と共に、自販機が重々しく内側へと開き、その奥に薄暗い下り階段が現れた。中は、仄かな明かりが灯る部屋になっていた。
細長い間取りの、隠れ家のような空間。階段を数段下りると、そこはバーになっていた。入ってすぐの踊り場のようなスペースには、アンティーク調の四人掛けのテーブル席が一つだけ置かれている。さらに奥へ進むと、磨き上げられた一枚板のカウンター席が七席分、店の奥へとまっすぐに連なっていた。客が座る席の後ろは、人一人がようやく通れる程度のスペースしかなく、壁までの距離が近いため、誰かとすれ違うのは難しそうだ。壁には年代物の洋酒のボトルがセンス良く並べられ、天井からはいくつかの傘の大きなランプが吊り下げられ、店内を暖かく、じんわりとした明るさで照らしている。静かに流れるブルージーなジャズの音色は、時の流れを緩やかに感じさせ、この空間だけがまるで外の世界とは切り離された、特別な場所であるかのように思えた。カウンターの中には、四十代半ばに見える、短く刈り揃えた髪に丸眼鏡をかけた男性が、黒いシャツの上に少し灰色がかった黒色のベストをきっちりと着こなし、穏やかな表情でこちらを見つめていた。
「おー、バニラちゃん。いらっしゃい。今夜は早いお着きで」
男性が、親しみを込めた落ち着いた声でバニラに話しかける。
「こんばんは、マスター。ちょっと紹介するわねぇ。この子が、先日お話しした、私の新しい『子』よ」
バニラは僕の背中を軽く押し、カウンターの方へ行くよう促した。
「は、初めまして。この度、バニラの眷属になりました、田無敬人です」
緊張で声が上擦らないように、精一杯の落ち着きを装って頭を下げる。
「はじめまして、田無敬人君。私がここのバー『ノクターン』で店長をやっております、竹本と申します。以後お見知りおきを。しかし、一昨日バニラちゃんから『面白い眷属を作ったのよ』なんて連絡を受けた時は、本当にびっくりしましたよ。長年彼女を見てきましたが、眷属を作るなんて、それこそ数百年ぶりじゃないかな?」
竹本は興味深そうにこちらを観察しながら言葉をつづける。
それで敬人君、君が人間をやめ、吸血鬼の道を選んだその理由…聞かせてもらえるだろうか?」
ゆっくりと、穏やかに語りかける竹本さんからは、バニラとはまた違う種類の、包容力とでもいうべき不思議な余裕が感じられた。
「ん…っと、なんでかって言われると、正直、ほとんど流れで、としか言いようがないんですけど……でも、一番の直接的な原因は、多分、楽しそうだったから、だと思います。今、この街にも侵略しつつあるっていう魔法使いたちと戦えるかもしれないって考えたら、なんだか、昔読んだおとぎ話の世界が現実になって、目の前に降ってきたみたいな……そんな感じで、ワクワクしたんです」
僕のこの突拍子もない言葉が、彼にどう伝わっただろうか。緊張が悟られないように、できるだけハキハキと話したつもりだが。
「ほう、楽しそう、ときたか。それはまた、随分と将来有望な逸材だねぇ」竹本さんは面白そうに目を細めた。「ああ、そうだ、忘れてた。どうぞ、お好きな席へ。飲み物は何にしましょうか」
カウンターの一番奥の席を勧められ、奥に僕、その手前にバニラが並んで腰を下ろした。ふかふかとした革張りのスツールは、座り心地がとても良かった。
「私はいつもの、ブラッディメアリーをちょうだい。それと、この子はまだ本物の血を飲んだことがないから、とりあえず普通の、美味しいトマトジュースでも注いであげてくれるかしら」
バニラが慣れた口調で注文する。
「かしこまりました」
竹本さんは静かに頷くと、背面にずらりと並んだ棚から、手際よく数種類のボトルを取り出し、カウンターの上に順番に並べていく。その流れるような所作は、長年の経験に裏打ちされたものであろう。
「血、ですか……。あの、僕も、普通の人を噛めば、血を吸うことができるんでしょうか?」
目の前で繰り広げられるカクテル作りの妙技に見惚れながらも、僕は気になっていたことをバニラに尋ねた。
「ええ、もちろんよぉ。人間の首筋の、柔らかいところに牙を立ててね。血管の場所を探すのに、最初はちょっとしたコツがいるかもしれないけど。一度うまく牙を突き刺せたら、あとはストローでジュースを吸うみたいに、ちうちうと簡単に吸えるわよ。美味しい人間の血は、極上の蜜の味よ。……それに、血を吸わなきゃ、私たち吸血鬼は死んじゃうしねぇ。だから、後でちゃんと練習しましょうねぇ、ケイト」
「えっ、死んじゃうんですか!? 血って、僕らにとっては普通の食事です、みたいな、そういうことなんですか?」
「うーん、ちょっと違うかしら。私たち吸血鬼にとっての血っていうのはねぇ、そうね……例えば、ドラゴンクエストでいうところの『マジックポイント』みたいなもの、と考えれば分かりやすいかしら。私たちは、こうして夜目が利いたり、霧になって姿をくらましたり、忠実な使い魔を呼び出したり、あるいは、こんな風に武器を無から作り出したりもできるわけじゃない? その全ての行動の『動力源』になるのが、人間様の尊い血液っていうわけ。だから、定期的に血を飲まないと、私たち吸血鬼の便利な特殊機能が、だんだんと使えなくなっちゃうのよぉ。そして最後には……ね」
バニラはそこで言葉を切り、意味ありげに僕に微笑みかけた。
「え、ちょ、ちょっと待ってください! 僕も、霧になったり、使い魔を出したり、武器を作ったりできるんですか!?」
「もちろんよぉ。吸血鬼の伝説って、世界中に色々な説が伝わっているけども、大抵のことは、私たちなら実際に再現できるわぁ」ケラケラと楽しそうに笑いながら、「中には、かなり無理やりな解釈で再現してるものもあるけどね」とバニラは付け加えた。
「そしてね、ケイト。今、君にちょっと疑問に思ってほしいのは、夜目が利いたり、身体能力が格段に上がったりするっていうのも、当然、吸血鬼の力があってこそ、っていうことなのよねぇ。例えば、君のお腹の筋肉が、ほんの三日前とは比べ物にならないくらい、こんなに見事に割れて立派になっているのも……ね?」
そう言うと、バニラは悪戯っぽく僕のシャツの裾をぺろりと捲り上げ、僕の腹筋を衆目に晒した。
「なっ、何するんですか、バニラ!」
僕は顔を真っ赤にして慌ててシャツを元に戻したが、バニラは僕の狼狽ぶりをからからと笑っている。隣の竹本さんも、穏やかに微笑んでいた。
「て、ていうか! 目がよく見えるようになったり、体が強くなったりするのも、当然のことながら、吸血鬼の力によるものだったんですね……。でも、僕は眷属になってから、まだ一度も誰かの血を吸っていませんよ?」
「そんなの、答えは決まってるじゃない。君がまだ人間だった頃の、君自身の血を、今まさに少しずつ吸って、力に変えているのよ」
「あ……なるほど。僕の中に元々あった血が、まだ残っていて、それが今の僕を動かしている、と」
「そういうこと。まぁ、いつまでもそんな自前の備蓄で全てを賄えるわけもないしねぇ。これから先、どうやって効率よく『新鮮なMP』を調達していくか、その方法を自分自身で考えなさいな。手当たり次第に色んな人間を襲って回るのも一つの手だけど、私のおすすめは、何人か『タンク』として、いつでも好きな時に吸える人間を確保しておくことかしらね」
「タンク……いつでも吸える人、ですか……。ちょっと、あんまり具体的なやり方の想像がつかないんですけど」
「ふふ。大丈夫よ。最初は、この私が手取り足取り、ちゃーんと面倒を見てあげるから。その上で、自分なりに色々と工夫して考えてみてちょうだいねぇ」
バニラは僕の頭を優しく撫でた。その仕草は母親のようでもあり、飼い猫を可愛がる主人のようでもあった。
その時、僕とバニラの目の前に、竹本さんが白いコースターをそっと置いた。どうやら飲み物ができたようだ。
「はい、バニラちゃんにはいつものブラッディメアリーです。そして、田無くんには特製のトマトジュースをどうぞ」
目の前に差し出されたトマトジュースは、よく冷えたタンブラーグラスに注がれており、グラスの縁には細かな塩が美しくスノースタイルで縁取られていた。見た目にも涼やかで、とても美味しそうだ。
「ありがとうございます。いただきます」
一口飲むと、その濃厚な味わいと爽やかな酸味に驚いた。ほんのりと檸檬の香りもする。これは、ただのトマトジュースではない。
「うまっ! 竹本さん、これ、めちゃくちゃ美味しいですね! バニラが頼んだブラッディメアリーっていうのも、お酒なんですか? 見た目は僕のとほとんど同じですけど」
隣のバニラは、自分のグラスに注がれた深紅の液体を、うっとりとした表情で見つめ、ゆっくりとそれに口をつけている。
「これはね、ケイト。トマトジュースに、ウォッカっていう無色透明の強いお酒が入っているのよ。ウォッカ単体では、正直そんなに美味しいものでもないんだけどね、不思議とこのトマトの酸味と甘みとはよく合うの。ふふ……でもね、それだけじゃないのよ。このお店で出されるカクテルにはね、マスターが特別に、私たち吸血鬼のために『あるもの』をブレンドしてくれるのさぁ。それも、お客一人一人の好みに合わせて、ね」
「え……あるものって……まさか」
「ふふ、ご名答。そして、ご安心なさいな。君のその美味しいトマトジュースには、まだ何も入れていないわよ」
「そ、そうなんだ……。じゃあ、バニラのそのカクテルには、どんな『血』が入っているんですか?」
恐る恐る尋ねると、バニラは恍惚とした表情でグラスを傾けながら答えた。
「んー。今夜の私のカクテルに入っているのはね、つい昨日、熱を出して寝込んでいた、七歳の男の子の血よ。ほんの少し弱っていて、それでいて生命力に溢れている……あの、すぅっと体に染み渡っていくような、清涼感のある優しい味わいが、たまらなく心地良いのよねぇ」
「あー……へ、へぇ……」
僕は、言葉では言い表せない複雑な感情と共に、乾いた返事をすることしかできなかった。少し、引いた。
「それにしても、バニラちゃん。吸血鬼の特性とか、詳しいことを何一つ教えずに誘ったっていうのに、この田無敬人君、よくぞまあ、無事に眷属になれたものだねぇ」
竹本さんが、カウンターを磨きながら感心したように言った。
「ふふふ、この子ねぇ、私が初めて会った時、あのアイソンって魔法使いに捕まって宙吊りにされてたんだけどね。その時も、私がアイソンと派手にやり合ってるのを見ている時も、見た目は相当ビビってるように見えたんだけど、その実、ずーっと、心の奥底では笑ってたのよねぇ」
「え? 僕が……笑ってた? 普通に、ものすごく怖がってたと思うんですけど……」
僕が反論すると、バニラは楽しそうに僕の顔を覗き込んだ。
「多分ねぇ、ケイト。君は、君自身の存在っていうものを、自分の中の優先順位の中で、かなり下に置いているタイプだと思うんだよね。なんていうか、一種の破滅願望があるっていうか……あるいは、リスクとリターンの計算が、根本的におかしいっていうか」
「そ、そんなことは……」ない、と即座に否定しようとしたが、言葉が続かなかった。確かに、思い返してみれば、そうかもしれない。そもそも、僕が初めて夜の街に繰り出したのだって、今となってはその理由すら思い出せないほど、どうでもいい些細な不満がきっかけだったはずだ。そして、人間であることを捨てて吸血鬼になるという、常識的に考えればありえない選択にも、僕はほとんど抵抗を感じなかった。むしろ、どこかでそれを望んでさえいたような気がする。
「だからさぁ、この子なら、もしかしたら吸血鬼の素質があるかもしれないなーって思ったし、実際になってくれたら、色々と楽しそうだなぁって、そう思ったわけよぉ」
バニラは、まるで面白いおもちゃを見つけた子供のように、無邪気に笑った。
「いやはや、そりゃまた、バニラちゃんも敬人君も、二人ともなんともおおざっぱというか、豪快というか……」
竹本さんは、呆れたように、それでいてどこか楽しそうに肩をすくめた。
それからしばらく、僕たちは他愛もない会話でひとしきり盛り上がり、やがて僕のトマトジュースも、バニラのブラッディメアリーも、グラスの底が見え始めた頃、バニラはふと真顔になると、こう言った。
「じゃあ、そろそろ……今日のメインイベントに移りましょうか」
バニラは僕の後ろをすり抜けるように立ち上がると、店の突き当りにある、重厚な木製の扉にゆっくりと手をかける。「マスター、奥の部屋、ちょっと使わせてもらうわね」「ああ、うん。二人とも、ほどほどに頑張んなね」と、竹本さんも慣れた様子で応える。
バニラが扉を開くと、その先には薄暗いコンクリート製の階段が、地下へと続いているのが見えた。
「おいで、ケイト。楽しい時間の始まりよ」
バニラに促されるまま、僕はゴクリと唾を飲み込み、彼女の後に続いてその冷たい階段を降りていく。階段を下りるにつれて、鼻腔をくすぐる、鉄錆のような、それでいてどこか甘ったるい、すえたような奇妙な匂いが強くなっていくのを感じた。
降りた先は、コンクリート打ちっぱなしの、だだっ広い空間だった。車が二台ほどは余裕で入りそうなそのスペースの、ちょうど真ん中に、古びた木製の椅子が一つだけぽつんと置かれている。そして、その椅子には――一人の人間が、まるで拷問でも受けるかのように、太いロープで何重にも固く固定されていた。
黒いレザーパンツに、これまた黒い、臍が大胆に露出したタンクトップ。そして、その顔には、耳まで大きく裂けた爬虫類の口元から、トカゲのような長く赤い舌がだらしなくはみ出ているという、極めて悪趣味なデザインのマスクを装着した……女だった。ぐったりと首を垂れ、眠っているのか、あるいは意識を失っているのか、身じろぎ一つしない。
僕は、目の前の光景が信じられず、震える声でバニラに尋ねた。
「え……バニラ、これ……この人って……もしかして、魔法使い……?」
バニラは、満面の笑みを浮かべ、まるでクイズ番組の司会者のように、楽しげに両手を広げて答えた。
「ふふふ……ピンポーン! 大正解よぉ、ケイト! さすがは私の眷属ねぇ」