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吸血鬼

「だからね、ケイト。君がやるんだよぉ。頑張って、あの魔法使いたちを、一人残らず滅ぼしてごらんなさいな」

その言葉は、僕の心臓を直接鷲掴みにするような、強烈な衝撃となって突き刺さった。混乱する僕の思考を置き去りにするように、バニラはふわりと夜闇に溶けるような優雅さで歩みを止めると、僕のすぐ隣に立った。そして、細くしなやかな腕を僕の肩にそっと回し、冷たいほどに滑らかな指先で僕の頬をなぞる。その仕草とは裏腹に、彼女の瞳は底なしの深淵を湛えていた。


「私が直接手を下すと、相手が弱すぎるかもしれないっていう話は、さっきしたでしょう? それじゃあ、ちっとも面白くないじゃない。だからね、どうしようかなって、ずーっと考えていたのさ。さっきのアイソン君と、ちょっとしたお遊戯をしながらねぇ」

吐息がかかるほどの距離で囁かれる、甘く、蕩けるような声が心地よく鼓膜を震わせる。それは、抗いがたい魔力のようなものを秘めていた。

「で、思いついちゃったんだけど。強い魔法使いが現れるのを期待するよりも、いっそのこと、私の力が弱まれば、もっとスリリングな戦いが楽しめるんじゃないかなぁって。つまり、私自身が直接戦うのではなく、私の力を分け与えた誰かに代行させるの。そうすれば、力の差も少しは埋まるかもしれないし、何より、その子の成長を見守るっていう新しい楽しみも増えるじゃない?」


「それでも……それでも、僕が代わりになるなんて無理ですよ! 僕は、先ほどアイソンさんに対して何もできなかった。文字通り、身動き一つ、抵抗らしい抵抗すらできていませんでしたよ!」

思わず叫ぶ。夜の住宅街に、僕の情けない声が響く。


「うーん、現状の強さなんて、あんまり関係ないと思うけどなぁ。私くらいになるとね、持ってる物差しが違いすぎて、幼稚園児も力士も、その力の差なんて正確には比べられないのよ。どちらも小さすぎて、誤差みたいなものね。 私のスケールから見れば、今の君と、ほんの少し強くなった君の間に、大した違いはないの」

バニラはくすくすと喉を鳴らし、持っていたワインの瓶を傾けて最後の一滴を飲み干すと、それをこともなげに闇へと放った。瓶が地面に落ちて割れる音は、なぜか聞こえなかった。

「いいこと、ケイト? 今から君を、私の眷属にするわ。これは決定事項。君に拒否権はないの。選択肢は二つだけ。死ぬか、私の眷属として、あの忌々しい魔法使いたちと戦うか。さあ、どっちがいい?」

その声はどこまでも優しく、しかし有無を言わせぬ絶対的な響きを伴っていた。実質、それは選択肢とは呼べない、ただの宣告だった。


「ぼ、僕を……眷属に? それはつまり、あなたが直接戦わずに、眷属になった僕が、あなたと同じような吸血鬼の力を使って戦う…そういうことなんですか?」

「そうだよぉ。そういうこと。頑丈で美しい肉体と、驚異的な回復力、そしてほんのちょっぴり、他の人間にはない特殊な能力を授けてあげる。それを使って、あのふてぶてしい魔法使いたちに、思いっきり喧嘩を売ってきてもらうの。楽しそうでしょ?」

彼女は心の底から楽しそうに微笑む。その無邪気さが、逆に僕の背筋を凍らせた。


「……さっきの、眷属にならなければ死ぬっていうのは……もし僕がここから逃げようとしたら、殺す。そういう意味、なんですか?」

震える声で尋ねると、バニラは楽しそうに笑みを深めた。その赤い唇が、やけに蠱惑的に見える。

「あら、ケイトったら、まだ状況が理解できていないのかしら? 私が君をあの魔法使いの網から助け出した時点で、君に『逃げる』なんていう安易な選択肢はもう失われているのよ。死ぬか死なないかっていうのはね、これから行われる眷属化の儀式……その条件を、君が無事にクリアできるかどうかにかかっているの。ただそれだけのことよ」


(眷属になる条件……?)


「ふふ、誰でも彼でも、私の可愛い眷属になれるわけではないのさぁ。眷属になるにはね、まず親――今回の場合は、この私ね――に対して、自分の身も心も、魂の一欠片に至るまで、その全てを捧げられるという、曇りのない絶対的な覚悟を示す必要があるの。その揺るぎない覚悟を胸に抱きながら、私の牙によって血を吸われる。そうすることで初めて、親子の血の契約が結ばれ、晴れて私の眷属の一員になれるの。もし、その覚悟がほんの少しでも揺らいだり、疑念が混じったりしたら……残念だけど、君はただ血を吸われただけで、そのまま哀れな失血死を迎えることになるわ。そういうことぉ」

バニラは僕の顔を覗き込み、慈しむような、それでいて獲物を見定めるような目で、僕の瞳の奥をじっと見つめた。


「すべてを……捧げる、覚悟……」

その言葉の重みに、僕は息を呑む。それは、生半可な気持ちで口にできるものではない。


「特別に、三分間だけ、時間をあげるわ。その間に、自分の心とよーく相談して、覚悟を決めなさいね。ケイト」

彼女はそう言うと、僕から少し離れ、月明かりの下で優雅に腕を組んだ。まるで、舞台の幕が上がるのを待つ観客のように。


(覚悟、か……。決めなければ死ぬ、か。彼女の言う通り、あのヤクザ風の魔法使いに捕まった時点で、僕の命は一度尽きていたようなものだ。そう考えれば、この美しい吸血鬼に命を救われ、その彼女の暇つぶしの一環として、新たな生を与えられる……その対価として、僕のすべてを捧げるというのは、ある意味、とても自然な流れなのかもしれない。だけど、問題は、僕のこの「覚悟」が、果たして彼女の言う眷属化の条件を満たすほどのものなのかどうかだ。僕自身が「捧げます」と心で思ったところで、それが彼女に伝わるのだろうか? もう少し、確固たる、自信を持って「すべてを捧げられる」と言い切れるだけの理由が欲しい。僕が彼女の眷属になったら、一体どうなる? 彼女を、この退屈しきった吸血姫を、本当に楽しませることができるのだろうか? それに、僕自身にとっても何かメリットはあるのか? さっきの彼女のような、あの人間離れした能力が手に入るとしたら……それは、僕の今の退屈な日常を、何か少しは変えてくれるのだろうか? もし、吸血鬼として大成すれば……もしかしたら……)


考えがまとまらず、堂々巡りの思考に沈み込む僕の耳に、バニラのどこまでも甘美な声が届いた。

「まぁ、あまり難しく考え込まないでちょうだいな、ケイト君。答えは、もっとシンプルかもしれないわよ? 多分……きっとなった方が、ずーっと楽しいと思うわよぉ。吸血鬼って、ね?」


その瞬間、僕の中で、何かがカチリと音を立てて噛み合った。そうだ。思い返せば、今日、この異常な夜が始まってからずっと、僕は心のどこかで興奮していたじゃないか。夜の街への禁断の冒険。魔法使いとの絶望的な遭遇。そして、この吸血姫と魔法使いの、常識を超えた壮絶な戦い。そのどれもが、僕の平凡な日常では決して味わうことのできない、強烈な刺激に満ちていた。そして、その渦中にあって、僕は確かに、恐怖と同じくらい、あるいはそれ以上に、言いようのない高揚感を感じていた。ずっと、心の奥底で笑っていたんだ。もっと楽しいことが起こるのなら、この退屈な日常をぶち壊せるのなら、僕のすべてを、この美しくも危険な吸血鬼に捧げることくらい、安いものじゃないか。


「OKです、バニラさん。覚悟は、決まりました。僕を、あなたの眷属にしてください。僕のすべてを、あなたに捧げます」

顔を上げ、僕ははっきりとそう告げた。もう、迷いはなかった。


「い~ぃ笑顔ねぇ、ケイト。その瞳、気に入ったわ。ああ、本当に楽しみだわぁ」

バニラは心底嬉しそうに微笑むと、音もなく僕の目の前に移動し、その細い腕を再び僕の首筋に絡ませた。そして、ゆっくりと、しかし抗うことのできない力強さで僕の顔を引き寄せると、その赤い唇を僕の右の首筋に寄せた。ひんやりとした彼女の唇の感触と、吐息に含まれる甘い香りに、僕の意識がくらりと揺らぐ。次の瞬間、鋭い痛みが首筋を走り、直後に、まるで魂ごと吸い上げられるかのような、強烈な感覚が僕を襲った。

時間の流れが、まるで水飴のように緩やかに引き伸ばされていく。心臓の鼓動が、早鐘のように激しくなっているのは、もはや恐怖からではなく、未知なる存在へと変貌するが故の、純粋な興奮からなのだろう。自分の体から温かい血が流れ出し、吸い出されていく感覚は、不思議と不快ではなく、むしろどこか倒錯的な心地よささえ伴っていた。


血を吸われ、朦朧としていく視界の中で、バニラの囁くような声が、鼓膜の奥で微かに響いた。

「しばらくは、普通に生活しながら、その新しい体に慣れなさいねぇ、ケイト。そうさねぇ……三日後の午前零時、月が一番高く昇る頃に、またここへおいでなさい。それまでは、無闇に夜に出歩いちゃだめよぉ。まだ君は、生まれたての雛鳥みたいなものなんだから」

薄れゆく意識の中で、彼女が僕の体からゆっくりと離れ、闇の中へと溶けていくのが見えた。最後に、悪戯っぽい笑みと共に、こんな言葉が聞こえた気がする。

「あ、そうだ。私のことは、これからは『バニラ』でいいわよ。親に対して、いちいち『さん』なんて敬称をつけるものじゃないでしょうからねぇ」


次に気がつくと、僕は自室のベッドの上に横たわっていた。

カーテンの隙間から差し込む朝日が眩しい。いつもの天井、いつもの寝巻。そこには、昨日までの日常と何ら変わらない光景が広がっていた。

しかし、部屋の隅に無造作に脱ぎ捨てられた、泥と細かな傷がついた、購入時の紙袋に無造作に突っ込まれた、先週買ったばかりの新品のスニーカーが、昨夜の出来事が決して夢ではなかったことを、静かに物語っていた。


「吸血鬼……か……」

呟きながら、無意識に歯を舌でなぞってみる。すると、犬歯があったあたりに、以前はなかったはずの、小さく鋭いナイフの先端のような感触があった。慌てて洗面台の鏡で確認すると、そこには間違いなく、二対の尖った牙が、控えめながらも確かな存在感を主張して並んでいた。

それだけではない。いつもなら、寝起きは度の強いコンタクトレンズを入れなければ何も見えないほどの近眼なのに、今は部屋の隅に積まれた漫画の背表紙の小さな文字まで、くっきりと読むことができる。おまけに、心なしか体全体が羽のように軽く感じられた。


「とりあえず……学校、行くか」

寝癖を直し、制服に着替える。家を出る直前、朝食の準備をしていた母親に「あら、敬人? なんだか今日、少しがっしりしたんじゃない?」と不思議そうな顔で言われた。自分では気づかなかったが、身体的な変化は、もう始まっているのかもしれない。


いつも通り、遅刻瀬戸際の時間に教室のドアを滑り込む。教壇では担任の先生がホームルームの準備をしており、まだ自分の席につかず友人たちと談笑している生徒もちらほらといる。教室の日常風景だ。昨日までの僕なら、その光景に何の疑問も抱かなかっただろう。しかし、今の僕には、その全てがどこか色褪せて、現実感のないもののように見えた。昨夜、僕はあの禍々しい魔法使いと対峙し、その圧倒的な力の前に絶望し、そして、この世のものとは思えぬ美しい吸血鬼によって、辛うじて生き永らえたのだ。この教室の中にいる誰もが、決して経験したことのないであろう壮絶な体験を、この僕が、たった一晩のうちにしたという事実。それが、奇妙な優越感にも似た感情と、同時に、もう後戻りできない場所に来てしまったのだという確かな実感となって、僕の胸に湧き上がってくる。


退屈な授業。改めて真剣に聞いてみようとしても、その中身の薄っぺらさにすぐに飽きてしまう。休み時間の、級友たちとの他愛もない会話。それもまた、今の僕にはどうでもいいことのように思えた。そんなことよりも、僕の頭の中は、三日後に控えたバニラとの再会のことで、もういっぱいだった。

いつもとなんら変わらない一日。しかし、その一日を過ごす僕の心持ちは、昨日までとは全く違っていた。言葉にできない自信のようなものが、体の奥底から湧き上がってくるのを感じる。あと三日の間に、自分がどんな体になったのか、この新しい力をどこまで使いこなせるのか、試してみよう。そう思うと、自然と口元が緩んだ。

四時限目の体育、サッカーの授業では、軽く蹴ったつもりのボールが、自分でも驚くほどの豪速でゴールネットを揺らした。休み時間には、隣のクラスの女子生徒たちが遠くで囁き合っている会話の内容が、いつもよりはっきりと聞き取れた。昼休み、誰も見ていないことを確認して、カッターナイフで自分の指先にわざと小さな傷をつけてみた。血は滲んだが、次の瞬間にはもう傷口は綺麗に塞がっていた。どうやら、治癒力の実験も、わざわざ人気のない場所を探す必要はなさそうだ。やることがたくさんあるというのは、こんなにも楽しいことだったのか。


その日の帰り道、夕焼けに染まる道を一人で歩きながら、僕は誰に言うでもなく、小さく呟いた。

「僕は吸血鬼。――田無敬人だ」

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