吸血姫②
「私はバニラ。バニラ・トルヴァニア・ルゴシ。しがない吸血鬼さ」
月光を背に、彼女は悪戯っぽく片目をつむり、自信に満ちあふれた表情でそう言い切った。その声には、自分の言葉が持つであろう衝撃を微塵も意に介さない、絶対的な余裕が感じられた。
「きゅ、吸血鬼……? それって、昔から人間に伝わるあの伝承の……だったか? たしか、十字架とかニンニクが苦手で、太陽の光を浴びると灰になるとか、そういう……」
アイソンは、もはや息も絶え絶えといった様子だった。額には玉のような脂汗がびっしりと浮かび、その焦点も定かではないように見える。それでもなお、彼はまるで、最後の最後まで相手の手の内を読み切ろうとする老獪な勝負師のように、途切れ途切れの言葉でバニラに話しかける。その執念は、もはや痛々しいほどだった。
「そうそう、その通り。十字架は見てるだけで蕁麻疹が出るし、ニンニクなんて料理に入ってたら卒倒しちゃう。そして、人の生き血がだーい好きで、夜な夜な美しい乙女の寝込みを襲う、とってもこわぁいこわぁいお姉さんさ」
バニラは楽しそうにクスクスと笑いながら、ゆっくりとしゃがみ込み、血の海に沈むアイソンの顔を覗き込んだ。その距離は、もはや吐息がかかるほどに近い。
「でもね坊や、それは半分本当で半分は人間の願望が混じったお伽噺。伝説でも何でもないのよ。ただ、人より怪我の治りがほんの幾分か早くて、自分の血を使ってちょっとだけ色々なことができる……そういう、ちょっと特殊な存在ってだけ。ね?」
彼女の瞳が、闇の中で妖しく細められる。
「ちょっとばかし、というのは……あまりにも謙遜が過ぎますね。あなたは、まばたきする間に体が元通りになっていたように見えましたし……色々というと、あの禍々しい鋏と二振りの刀以外にも、まだ何か出せるということですか?」
アイソンは、もはや虫の息になりながらも、その視線は、バニラの言葉尻や表情の微細な変化から、何か一つでも多くの情報を引きずり出そうと鋭く注がれていた。
バニラは、そのアイソンのしぶとさに感心したのか、あるいは飽きたのか、ふっと表情を消すと静かに立ち上がり、今度は彼を冷ややかに見下ろしながら言った。
「……坊や、さっきは『殺す前に教えろ』なんて威勢のいいこと言ってたけど、その様子じゃ、全然死ぬ覚悟なんてできてないように見えるわねぇ。……ふふっ、何か、奥の手でもあるのかしら?」
彼女の唇に、再びあの全てを見透かすような笑みが浮かぶ。
「……お見通し、ですね」
アイソンは観念したように呟いた。
その瞬間、パキッ、と乾いた小さな音が響いた。何かが割れる音。それが彼のマスクの内側から聞こえたと思った刹那、マスクの顎と頬の隙間から、白緑色の煙がシューッという音と共に勢いよく漏れ出してきた。それはまるで、ドライアイスが水に触れたときのような、濃密で冷気を帯びた煙だった。
「今日はこれで、御暇させていただきます。フィクサーズのアイソン、この屈辱は決して忘れん。また次にお会いできた暁には……必ず貴様をぶっ殺す...よしなに」
白緑色の煙は瞬く間にアイソンの全身を覆い隠すように広がり、路地裏を満たした。それは刺激臭こそないものの、目に染みるような冷たさを含んでいた。僕が思わず目を閉じて再び開けた時には、煙は跡形もなく晴れており、そこにはもう誰の姿もなかった。
しかし、僕の体を宙吊りにしていた糸の網と、無残に潰れたおびただしい血痕にまみれたアイソンの足だけが、先ほどまでこの場所で繰り広げられていた死闘が、紛れもない現実だったことを雄弁に物語っていた。
さて、ひとまず直接的な脅威であった魔法使いが消え去ったことは良しとしても、今晩僕が無事に生きて家に帰れるという保証は、残念ながらまだどこにもない。自らを吸血鬼と名乗る、あの美しくも恐ろしい化け物女は、何事かを思案するように顎に手を当てて虚空を見つめているが、依然として僕のすぐそばに存在している。そして何より、僕はまだこの忌々しい網の中で身動きが取れないままなのだ。この絶望的な状況をどうにか切り抜けて初めて、今日のこのスリリングな夜間外出に胸を躍らせながら、温かい布団で眠りにつくことができるのだろう。最悪、このままでもいいから、僕のことなんて忘れてどこかへ行ってくれないだろうか……。
そんな僕の切実な願いが通じるはずもなく、彼女――バニラは不意に僕の方へ顔を向け、こう言った。
「ねえ、少年。今のこの状況、君は楽しめてるかい?」
月明かりの下、彼女の顔には何か悪戯っぽい企みを隠したような、妖艶な笑みが浮かんでいた。
楽しめているか、だって? あんな血みどろの、常識では考えられない戦いを間近で見せつけられて、挙句の果てには自分の生殺与奪の権利さえ、目の前のこの得体の知れない存在に握られているというのに、楽しいわけがあるか。一体何を言っているんだ、この吸血鬼は。
当然、僕は心の中で全力で否定しながら、こう答えるべきだった。だが。
「はい。とても」
……なぜ?
自分でも、なぜそんな言葉が口から滑り出たのか、全く理解できなかった。本心とはまるで正反対の、まるで何かに取り憑かれたかのような返答。しかし、バニラは僕のそんな内心の混乱など全てお見通しだと言わんばかりに、満足そうに頷いた。
「だよねぇ。やっぱり、退屈な日常より、こういう非日常の方が、生きているって実感が湧くもの。じゃあ、もう少しだけ、この素敵な夜を一緒に歩こうか。君には、聞きたいこともいくつかあるしね」
「は、はい。わかりました」
ああ、ここで「いえ、僕はもう家に帰ります」と、きっぱり断って一刻も早く逃げ出すべきだったのだろう。それが賢明な判断であり、生存確率を上げる唯一の方法だったのかもしれない。しかし、少なくともこの時の僕は、この自らを吸血鬼と名乗る不思議な魅力を持ったお姉さんに、まるで操られるように、あるいは自ら望むように、ついていくことに、心のどこかで奇妙な高揚感を覚えていたのだ。
パチン、とバニラが軽く指を鳴らすと、僕を吊り上げていた糸の網が、まるで生き物のようにするすると解け、僕は不意に重力に従って地面に落下した。幸い、受け身を取る間もなく尻餅をついただけで済んだが、突然の解放感に眩暈すら覚える。
やっと、自由になれた。去年、一人で田舎の祖父母の家に帰省する際に利用した深夜バス。狭い座席で一晩中身動きもできず、早朝に目的地に着いてバスを降りた時の、あの全身の細胞が歓喜するような解放感。実際に宙吊りにされていたのは、時間にすればせいぜい二十分か三十分程度だったのだろうが、その時と同じくらいの、強烈な自由と安堵感が僕の全身を包み込んだ。
「ちゃんと歩けるかい? それじゃあ、行こっか」
僕がまだ解放感の余韻に浸っているのもお構いなしに、バニラはひらりと身を翻し、静まり返った住宅街をこともなげに歩き出す。どこから取り出したのか、彼女の片手にはいつの間にか、年代物と思しきラベルの貼られたワインの瓶が握られており、時折優雅な仕草で瓶に直接口をつけては、こくりと喉を鳴らしている。その姿は、まるで夜の闇に溶け込むように自然で、それでいて圧倒的な存在感を放っていた。
僕は慌てて立ち上がり、まるで従者のように、彼女の体半分ほど後ろをついていく。
「さっきの、アイソンとかいう魔法使いさんさ……ええと、ごめん、君の名前は何て言ったかしら?」
バニラは、前を向いたまま、独り言のように尋ねた。
「田無 敬人です。あの、さっきのアイソンという人のことは、僕も今夜初めて会ったので、よくは知りません」
「そうかい、ケイト。実はね、私はここ五年くらい、人里離れた山の奥深くにある古いお城で、ちょっと長めのうたた寝をしていたのよ。で、ほんのさっき目が覚めて、久しぶりに下界に下りてきたところなんだけど……。なんだか、街にいる人の数が、昔に比べてずいぶんと少ないような気がするんだけど、気のせいかしら?」
ワインを一口含み、彼女は小首を傾げる。
「ご、五年も寝てたんですか……。あの、それは……多分、気のせいじゃないです。今から四年前、この国に初めて魔法使いが現れたんです。三人組で、大阪の街をめちゃくちゃにして、たくさんの人を殺したり、どこかへ連れ去ったりしました。それ以来、世界中で頻繁に魔法使いたちが出現するようになって……危険だから、今は夜八時以降の外出は原則禁止されているんです」
僕の説明を聞きながら、バニラは「へえ」「ふうん」と時折相槌を打つ。
「ふーん。ふふ、そうなんだ。まあ、よかったわ。てっきり何か恐ろしいパンデミックでも起こって、人間が絶滅の危機に瀕しているのかと心配しちゃった。それなら、まだマシな方ねぇ。……ねえケイト、ちょっと失礼なことを聞くけど、私、今、何歳くらいに見える?」
唐突な質問に、僕は言葉に詰まる。勘弁してくれよ。ただでさえ女性の年齢を尋ねるなんてデリカシーのない行為なのに、目の前にいるのは五年間うたた寝していて、自称「吸血鬼」というとんでもない存在なのだ。わかるわけがないだろう。
僕の困惑した表情を面白がるように、バニラはくすりと笑った。
「まあ、無理もないわね。正直なところ、私自身にも正確な数字なんてもうわからないのよ。確か……千の誕生日を祝ったあたりで、もう数えるのが面倒になってやめちゃったし。まあ、要するに、私が何を言いたいかっていうとねぇ……とにかく、暇で暇で仕方がないってことなのよ、ずーっとね」
彼女は、夜空に浮かぶ月を見上げながら、どこか遠い目をして続けた。
「寿命があるからこそ、人間は無駄な時間を過ごしている時に焦りを覚えるし、限りある生だからこそ、美味しいものを食べた時に『ああ、一生のうちにあと何回こんな素敵な瞬間を味わえるのだろうか』って心からの感動を覚えることができる。でもね、その上限がなくなってしまうと、そんじょそこらの出来事じゃ、心は少しも動かなくなってしまうのさ。よく言うでしょ? 宝くじは庶民に夢を買わせるものだって。でも、お金に全く困っていない人間からしてみれば、そこに夢なんて欠片も見いだせない。それと同じようなものよ」
「千年も……生きてると、そういう風に、なっちゃうんですか?」
僕には想像もつかない境地だった。
「そう。でね、そんな風にとてつもなく暇を持て余しているっていうのに、久しぶりに起きてみたら人間もすっかり減っちゃってて、これは本格的に退屈で死んでしまうんじゃないかって、ちょっと不安に思っていたわけ。それで、つらつらと誰か面白い人はいないかしらって捜し歩いていたら、見たこともない不思議な力を使う男と、それに捕まっていた君がいたわけじゃない? もうね、あの瞬間は、すっごい安心したのよぉ」
「はあ……安心、ですか。それは、どうも……?」
いまいちピンとこない僕の返事に、バニラは悪戯っぽく笑いかける。
「うん。だって、もうこの世界には、私を驚かせてくれるような新しい発見なんて、とっくに枯渇してしまったと思っていたからねぇ。でも、まさか魔法使いなんてものが現れるなんて! これでどれだけ退屈せずに済むかと思ったらさ……ねぇ、正直なところ、彼、アイソン君だっけ? すごい弱かったじゃない?」
弱かった? あれだけ激しい戦闘を繰り広げ、何度も体をバラバラにされた相手を指して「弱かった」と言い切るのは、果たして正しい評価なのだろうか?
「よ、弱かった……ですかね? 少なくとも僕は、あの人に本気で連れ去られる覚悟はしていましたけど……」
僕の反論に、バニラは少しつまらなそうな顔をする。
「それはあくまで、私にとっては、の話よ。あの魔法使いが、今こっちの世界にうろついている連中の中で、一体どのくらいの強さなのかは見当もつかないけど……もし、あれが平均的なレベルだとしたら、仮に私が本気を出して魔法使い全員を滅ぼそうとしても、きっと簡単すぎて、結局はまた退屈な作業になっちゃうんじゃないかなって、そう思ったのよねぇ」
彼女はため息交じりにそう言った。その言葉には、紛れもない真実の響きがあった。
「でも……もし本当に、バニラさんが魔法使いたちを全員倒したら、きっと世界中の人から感謝されて、ヒーローになれると思いますよ」
それは、僕の心からの言葉だった。魔法使いの脅威に怯える日々から解放されるなら、彼女が悪魔だろうと吸血鬼だろうと、人々は称賛するに違いない。
しかし、バニラは僕の言葉を鼻で笑うかのように、首を横に振った。
「言ったでしょう? 私はしがない吸血鬼だって。ヒーローなんて、私の柄じゃないのよ。それにね、ケイト。残念ながら、誰かのヒーローになるなんてこと、もうとっくの昔に飽きるほど経験しちゃってるのよねぇ」
彼女はふと足を止め、僕の方へと向き直る。その瞳の奥には、今まで見たこともないような、深く、そしてどこか歪んだ愉悦の色が浮かんでいた。
「いい? ケイト。私が言ったでしょう? 私にとって一番大事なのは、この果てしない退屈を、いかにして紛らわせるかってことなのよ」
彼女は、まるで甘い毒を囁くように、優しく、そして抗えない力強さで僕に告げる。今日見た中で一番楽しそうな、それでいて底知れない狂気を孕んだ笑顔で。
「だからね、ケイト。君がやるんだよぉ。頑張って、あの魔法使いたちを、一人残らず滅ぼしてごらんなさいな」
その言葉は、僕の心臓を直接鷲掴みにするような、強烈な衝撃となって突き刺さった。