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吸血姫①

「あなたも、魔力の気配がまるでありませんねぇ」


ヤクザ風の魔法使い――アイソンと名乗ることになる男は、先ほどまでの僕に対するねっとりとした口調とは打って変わり、どこか純粋な好奇心と微かな興奮を滲ませた声で呟いた。その大きな体躯に似合わず、まるで珍しい蝶でも見つけた少年のように、ゆっくりとした、しかしどこか弾むような足取りで、黒衣の女へと歩み寄る。




対する女は、その男の接近にも全く動じる様子を見せない。むしろ、その妖艶な雰囲気を一層深めるかのように、うっすらと蠱惑的な微笑みを浮かべた。すらりとした指先で、懐から取り出した黒檀のキセルに慣れた手つきで葉を詰め、どこからともなく取り出した燐寸で火を灯す。ふわりと紫煙が立ちのぼり、夜の冷気と混じり合って彼女の周囲を漂った。


「マリョク…ねぇ。一体何のことかしら? もしかして坊や、手品でも見せてくれるのかい? 例えば、シルクハットから鳩を出すとか?」


その声は、熟成された葡萄酒のように芳醇で、聞く者の心を蕩かすような響きを持っていた。




アイソンは、彼女の挑発的な言葉にも気を悪くした風はなく、むしろ楽しんでいるかのようにマスクの下で喉を鳴らした。


「ええ、手品とは少し違いますが、魔法使いですから、それなりの芸当はお見せできますよ」


「ふぅん? 例えば、この寂しい路地裏に、綺麗な花でも咲かせてくれるのかしら? それなら少しは退屈しのぎになるのだけれど」


彼女はキセルの雁首を指で弄びながら、挑戦的な視線をアイソンに送る。紫煙の向こうで、その美しい瞳が妖しくきらめいた。




「あいにくと、花を咲かせるようなロマンチックな魔法は得意ではありませんでね。ですが……こういうことなら、お手の物です」


アイソンがそう言った瞬間、彼がスッと前に差し出した腕から、常人には見えない何かが放たれた。それはまるで、蜘蛛が獲物を絡め取るために放つ、粘着質で強靭な糸のようだった。




女は、わずかに眉をひそめた。


「ん……? なにかしら、これ。急に腕が動かないじゃない。まるで、地面とか壁にがんじがらめに縛り付けられているみたいだねぇ」


彼女は自身の両腕を交互に動かそうとするが、まるで透明な万力で固定されたかのように、ぴくりとも動かない。しかし、その表情には焦りの色一つ浮かんでいない。むしろ、この不可解な状況すらも楽しんでいるかのように、ゆっくりと、そして落ち着き払った声で続ける。


「これじゃあ、せっかく美味しく吸っていたタバコも、灰を落とすことすらできないわ。困ったものねぇ」


その口調はあくまでも平然としており、僕だけがこの異常事態に心臓をバクバクさせている。




アイソンは、彼女のその余裕綽々な態度に、わずかに面白くなさそうな気配を漂わせた。


「ご不便をおかけしますね。ですが、ご安心を。これからあなた方お二人を、我々魔法使いの世界にご招待するつもりです。そちらの世界では、タバコなどもはや時代遅れの嗜好品。ろくに吸うこともできなくなるでしょうから、この機会に禁煙されてはいかがですかな?」


その言葉には、有無を言わせぬ圧力が込められていた。




「それは……ちょっと無理な相談だねぇ」


女は、さほど残念がるでもなく、あっさりとそう言い放った。そして、その視線が不意に、網に吊るされたままの僕に向けられる。まるで、路傍の石ころでも見るような無関心さの中に、ほんの少しだけ好奇の色が混じっているように見えた。


「あなた『方』、と言ったわね。そこの宙吊りにされている見慣れない装飾品の少年。君は一体何者なんだい? 見る限り、この坊やに捕まってしまった哀れな一般人、といったところかしら?」




突然話を振られ、僕は網の中で身じろぎした。心臓が跳ね上がり、声が上手く出ない。この女も魔法使いなのか? それとも、全く別の何か?


「は、はいっ! い、一里塚高校二年の、た、田無たなし 敬人けいとです! あの、夜中にちょっと散歩してたら、この人に捕まりまして……その、これからどこかへ連れ去られる、直前です!」


二人のどこか芝居がかったような、それでいて妙に丁寧な言葉遣いに引きずられ、僕の口からも自然と畏まった言葉が出てしまう。情けないことに、声はまだ震えていた。




「ふぅん、タナシ ケイト君ねぇ。なるほど、状況は理解したわ」


女は意味ありげに頷き、再びキセルに口をつけた。だが、腕が動かせないため、吸うことはできない。その様子を、アイソンは冷めた目で見つめている。




数秒の沈黙が、重く路地裏にのしかかる。先にそれを破ったのは、やはりアイソンだった。


「もう、よろしいでしょうか? お話の途中でしたら申し訳ありませんが、あまり時間をかけるわけにもいきませんので。では、お二人とも、ご一緒に『お連れ』しますね」


その声には、先ほどまでの愉悦の色は消え、明確な苛立ちと、有無を言わせぬ強制力が含まれていた。


「――《糸纏》(マイ・トイ)」


アイソンが低くそう唱えると、彼の両腕に、周囲の闇から吸い寄せられるように無数の極細の糸が瞬く間に巻き付き始めた。それはまるで、彼の腕を新たな装甲で覆い隠すかのようだった。




「おおー、始まったわねぇ」


キセルを口にしたままの女は、その光景をまるで特等席でショーでも見ているかのように楽しげに呟いた。そして、なぜかゆっくりと、どこかぎこちない、まるで操り人形のような動きで、こちらに一歩、また一歩と近づいてくる。その表情は相変わらず不敵な笑みを浮かべていたが、その動きの不自然さが僕には気になった。アイソンの魔法が、彼女の動きを少しずつ制限し始めているのだろうか。




「余談なんだけどさぁ」


そんな緊迫した状況であるにも関わらず、彼女は突然、場違いな話題を切り出した。


「君たち二人にお聞きしたいのだけど。例えば、目の前にとびきり美味しいご馳走が出されたとするじゃない? そういう時って、ゆっくりと時間をかけて味わいながら食べる派? それとも、我慢できずにがつがつと一気に食べ終わっちゃう方かしら?」




「は……?」


アイソンが呆気にとられたような声を漏らすが、それは僕も全く同じ心境だった。今、まさに命のやり取りが始まろうとしているこの瀬戸際で、一体何を言い出すんだこの女は。頭がおかしいのか? それとも、何か狙いがあるのか?




しかし、女は僕たちの困惑など気にも留めず、楽しそうに話を続ける。


「いやね、私なんかは、美味しい食事をいただく時とか、心を揺さぶるような素晴らしい芸術に触れた時とか、あるいは、こうして面白いことが目の前で起きている時なんかは、それをできるだけ長く、深く体験したいと思うタチなのよ。例えば、食事なら、その料理に合う最高のワインを選んで、香りを楽しみ、舌の上で転がし、一口一口をじっくりと堪能しながら、ゆっくりと時間をかけて食べる。素晴らしい本や映画に出会った時なんかもそうね。一度見ただけじゃなくて、何度も何度も読み返したり、見返したりして、その度に新しい発見があったり、違う角度から感動を味わったりするのが好きなのさ」




「一体、何の話を……っ!」


アイソンが業を煮やしたように遮ろうとするが、女はそれを許さない。


「だからね、坊やに大人しく誘われるまま、よくわからない『魔法使いの世界』とやらに連れて行かれて、そこで何が起こるか分からないまま遊ばれるのと……ここでちょっと抵抗してみて、坊やともう少し『遊んで』みるのと、どっちがより長く、より深く楽しめるかなって、今、考えていたところなのよ」


彼女の言葉は、どこまでもマイペースで、挑発的だった。


「それに、この街の荒れ果てた様子と、あんたのその自信満々な口ぶりから察するに、魔法使いってのは、あんた一人ってわけでもないんでしょう? もし仮に、魔法の世界とやらに本当に行きたくなったら、その時はまた別の魔法使いを捕まえればいいだけだものねぇ」


まるで新しいおもちゃを見つけた子供が、それを壊してしまう寸前まで徹底的に遊び尽くそうとするかのように。無邪気で、残酷な笑顔を浮かべながら、彼女はさらに一歩、アイソンとの距離を詰める。その瞳の奥には、狂気と愉悦が渦巻いていた。




その瞬間、アイソンの纏う空気が変わった。それまでのわずかながらも保たれていた冷静さが消え失せ、剥き出しの怒りと殺意が路地裏の空気を震わせる。


「……下手に出ていれば、どこまでも調子に乗りおって。いい加減、おとなしくしろよ、女狐が」


地を這うような低い声が響いた次の瞬間、甲高い金属音と、何かが硬い地面に落ちる音がした。


彼女の細い腕から、愛用していたキセルが滑り落ちていた。いや、正確には――キセルを握っていた彼女の手首ごと、地面に転がっていた。


「おれは、魔法使いを統べる組織『フィクサーズ』に所属している、アイソンという者だ。見ての通り、糸を専門に扱う魔法使いでね。今のは、不可視の魔法の糸で、あんたの手首を綺麗に切断させてもらった。巻き付けて、締め上げて……プツン、とな。めちゃくちゃ痛いだろうが、安心するといい。傷口は既に、これまた魔法の糸で瞬時に縫合しておいたから、出血多量で死ぬ心配はない」


アイソンは冷酷に言い放つ。確かに、女の切断された腕の断面からは、一滴の血も流れていない。代わりに、そこにはまるで医療用の縫合糸のように、極細の黒い糸がびっしりと傷口を覆っているのが見えた。対照的に、地面に落ちた手首からは、まだ温かいであろう鮮血がじわじわと流れ出し、キセルを赤黒く染めている。その光景は、あまりにもグロテスクで、僕の胃を締め付けた。




「余計な口を利かずに、さっさとこっちに来い。次にくだらないことを喋ってみろ。その減らず口を、二度とタバコを吸えないように、そして二度と物を言えぬように、きつくきつく縫い付けてやるからな」


アイソンの声には、もはや一切の遊びも、余裕もなかった。

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