慈悲①
すこし他の作品のように改行増やしてさっくりしてみました
敬人によるアーロへの「練習」が終わり、未だ深い眠りから覚めぬ彼女を待つ間、地下の薄暗がりの中、バニラがふと、傍らの敬人へ向けてポツリと呟いた。
「そろそろ、ケイトも自分で血を集めなきゃねぇ」
「血を? ですか」
「ええ。吸血鬼として必要なことも最低限できるようになったみたいだし、次は独り立ち、ってところかしら。今まで君が必要とする血は、私がマスターの特製ドリンクにこっそり混ぜてもらってたけど、いつまでもそういう訳にもいかないしねぇ」
「え…。ああ、そうだったんですか。だから僕は、あんなに色々なことが…」
「えぇ。まぁでも、新しい『ストック』を見つけるのは、今の君ならそんなに苦じゃないと思…ん?」
バニラの言葉が、不意に途切れた。
「う……ん……」
まるで長く楽しい夢からゆっくりと覚めるかのような、どこか名残惜しさを感じさせる甘い息を吐きながら、椅子に座ったままだったアーロがゆっくりと瞼を開いた。
無防備な寝姿から一転、覚醒したアーロは即座に周囲の状況を確かめるように両の眼を鋭く動かし、自らが置かれた状況を再認識しようとした。
しかし、やがて自分の今の立場を思い出したのか、諦めたように小さく息をつき、こぢんまりと元いた場所に座り直した。
「あ、起きた?」
敬人が、どこか気の抜けた、それでいて少し安堵したような声で話しかける。
しかし、アーロの警戒心は解けない。
「……わたしの体を使っての『練習』とやらは、もう済んだのか?」
その声には、諦観とわずかな棘が含まれていた。
「うん。バッチリだよ。アーロさん、本当にありがとう。おかげで色々できるようになった」
敬人が抱く感情は、もはやアーロに対する敵意ではなく、自らの過酷な練習台となってくれた相手への純粋な感謝でしかなかった。その表情は、悪意など微塵も感じさせない、屈託のないものだ。
「痛いとことかはない? 多分、治療の失敗はしてないと思うんだけど」
「……いや、ない。すこぶる元気だ」
アーロはぶっきらぼうに答えた。
実際には、右手の小指の関節あたりに、僅かな引きつるような違和感が残っていた。
しかし、それをこの少年に指摘しなかったのは、今の彼女が彼に対してできる、本当にささやかで、唯一の反抗であったのかもしれない。
「じゃあ、帰ろっか。あんまりここにずっと拘束しておくのも可哀想だしね」
敬人がこともなげに言うと、バニラが悪戯っぽく微笑んだ。
「あら、優しいのね。じゃあ、私も着いていこうかな。ケイトはこのまま帰るのかい?」
「うん。最近ちょっと夜更かししすぎたから、さすがに今日はちゃんと寝ようと思う。アーロさん、寝起きで悪いんだけど、立てるかい?」
「あ、ああ。問題ない」
アーロはゆっくりと立ち上がり、まだ少し覚束ない足取りで敬人に続く。
地下から一階のバーカウンターへ戻ると、敬人は竹本に向き直り、深々と頭を下げた。
「マスター、ここ一週間、練習のために場所を貸していただきまして、本当にありがとうございます。それに、僕の分の血も、ずっと融通していただいてたみたいで…。本当に、頭が上がりません」
今更こんなに形式ばった礼を言うのは、どこか気恥ずかしくもあったが、それでも一度きちんと礼儀を尽くし、義理を示すことには何かしらの意味があるはずだと、敬人は思ったのだ。
「どうしたの、急に。全然構わないよ」
竹本は小さく笑い、いつものように穏やかな表情で受け流した。
「さてと、じゃあ、おやすみなさい。」
敬人がアーロを伴い、バニラと共に店の出口へと向かう。
扉を開け、夜の闇に踏み出そうとしたその時、バニラが竹本に何かひそひそと囁いているのを、敬人は横目で見た。
話は少し変わるが、最近この街では夜間の外出禁止令が暗黙の了解として定められていた。
無論、それは魔法使いたちの活動が活発化しているからに他ならない。
そんな状況下で、深夜に外を出歩いている人間はごく限られている。
バニラのように、単独で魔法使いを撃退できるほどの圧倒的な力を持つ者。
あるいは、敬人のように、純粋な好奇心や目的意識に突き動かされ、危険を顧みない者。
そして、もう一種類。魔法使いに家族や恋人といった大事な人をさらわれ、深い悲しみと怒りを胸に、復讐を誓う者たちがいた。
敬人がアーロに完勝し、人の体を治す方法まで体得したその日は、奇しくも満月だった。
深夜になっても煌々と輝く満月は、街全体を薄暗く、しかしどこか幻想的に照らし出し、淡い銀色の光を地上に差し込んでいた。
こんな夜に、解放を約束した魔法使いを連れて歩いていた敬人と、魔法使いへの復讐心に燃える少女――矢嶋未来が出会うのは、もはや必然だったのかもしれない。
「田無くん…?」
矢嶋未来は、その日も魔法使いの情報を求めて、夜の街を駆けていた。
とはいえ、そうそう簡単に魔法使いなど見つかるはずもなく、普段の捜索活動は徒労に終わることが大半だ。
いつものように廃墟となった雑居ビルの屋上から双眼鏡で街を眺めていた彼女は、偶然にも、竹本の店「ノクターン」から出てきた敬人とバニラ、そしてその隣を歩く、明らかに異質な雰囲気を纏ったアーロの姿を捉えた。
久方ぶりに遭遇した魔法使い。しかも、それと共にいたのはクラスメイトの田無敬人。
その衝撃的な組み合わせは、彼女が常々心に刻んでいた「魔法使いとは多対一で戦うべし」という鉄則を、一瞬にして忘れさせるには十分すぎた。
「その人たちから離れなさい、魔法使いッ!」
ビルの側面を、まるで重力など存在しないかのように駆け下りた未来は、あっという間に三人の前に音もなく着地し、鋭い声で言い放った。
その手には、銀色に輝く短剣が握られている。
(やばいなぁ…。勢いで飛び出しちゃったけど、どうしよう。あの女魔法使いとの勝算はほとんど無いとしても、後ろの二人を連れて逃げるくらいはできるのかな。…いや、不意打ちで二人だけかっさらって逃げるべきだったかも)
内心で激しく後悔と状況分析を繰り返す未来だったが、表情には一切出さない。
「あれ、未来さん!? 何してるの、こんな時間にこんなとこで。てか、今どこから来たの?」
敬人が、明らかに高揚した、場違いなほど明るい声色で尋ねる。
「魔法使いを探してたら、あなたがいたから。助けに来たのよ、田無くん」
未来は毅然と答える。
「なるほど。でも大丈夫だよ、未来さん。アーロさんとはもう話がついてて、これから解放するつもりだからさ」
「解放…?」未来の眉がぴくりと動く。
「うん」
「なんで魔法使いを解放する必要があるのよ。そいつらは、人間をさらうのよ!」
未来の言葉には、抑えきれない怒りと苛立ちが確かに含まれていた。その瞳は、アーロを射殺さんばかりに睨みつけている。
「それはそうなんだけど…。でも、アーロさんにはちょっと恩もあるし、今日のところは、ちゃんと家に返したいんだ」
敬人は困ったように頭を掻く。
「こっちも、『まあいいわ』って言う訳にはいかないのよね。あなたがその魔法使いを解放した瞬間に、私も捕獲に移らせてもらうけど、それでもいいわよね」
未来は一歩も引かない構えだ。
「それならいいけど……どうやって?」
アーロとこの一週間、文字通り死闘を繰り広げてきたからこそ、敬人には分かる。
自分が彼女に勝てたのは、ひとえに吸血鬼の特異な能力を駆使し、安全な場所で何度も「死に覚え」ができたからだ。
目の前の、ごく普通に見えるクラスメイトの女の子が、いくら頑張ったところで、本気の魔法使いに太刀打ちできるとは到底思えなかった。
「――ダメだよぉ、ケイト」
敬人の考えがまとまるより前に、今まで後ろで煙管を燻らせ、面白そうに微笑みながら二人を見ていたバニラが、静かに、しかし有無を言わせぬ響きで口を開いた。
「敬人、約束は守らなきゃあねぇ」
「え? アーロさんを返すっていう約束のこと? でも、解放した後のことなら、別にいいんじゃないの?」
「それはね、ただの理屈だよ、ケイト。約束っていうのはね、ちゃんと最後まで果たさなきゃ意味がないの。あんたはこの小娘を『家に返す』って言ったんだから、彼女が家に無事帰れるように、最後までちゃんと面倒を見なくちゃならない。特に、私たちみたいな“高位の存在”が、蒙昧な人間共との些細な約束を違えるなんてさ……ダサいじゃない?」
バニラは、まるでそこに敬人と自分しかいないかのように、彼の反応をじっくりと見定めながら、ゆっくりと、しかしはっきりと語りかける。
その言葉は、敬人の胸に深く突き刺さった。
吸血鬼になったことの責任というものを、彼は改めて自覚させられた。
「未来さん、ごめん。僕、アーロさんをちゃんと家に返すっていう約束をしちゃったんだ。だから、ここで解放する訳にもいかなくなっちゃった」
敬人は、申し訳なさそうに未来に告げた。
「……なら、ごめんなさい。あなたごと拿捕するわ。あなたにも、聞きたいことがたくさんあるしね」
未来は神妙な面持ちになると、視線をアーロへと鋭く向ける。
「近く、私たちフィクサーズにちょっかいをかけているやつがいると聞いていたが…お前たちか」
今まで黙って状況を見守っていたアーロが、低い声で口を開いた。その瞳には、先程までの怯えとは違う、冷たい光が宿っている。
「一人じゃ弱いから、群れて人間を襲うんだってな。今日はお仲間はいないみたいだけど、大丈夫か?」
(うわ、バニラにビビらされる前は、こんなに強気な人だったのか、アーロさん…)
敬人が内心で驚いていると、未来さんの口元が、ほんのわずかに微笑んだように見えた。
刹那、未来の姿が敬人の視界から消失した。
次の瞬間、背後で低いうめき声と、肉が断たれる鈍い音が響く。
「――早いんだな、走るのが。だから、こうして刃を予め置いておくだけで、簡単に切れる。これは正当防衛だし、悪く思うなよ。そこの吸血鬼にでも治してもらいな」
アーロの冷徹な声が響く。
「え、ああ、僕か…」
名前を出されるまで、何が起きたのか全く把握できなかった。
いつの間にか自分の背後に回り込んでいたはずの未来さんが、右腕を押さえてうずくまっていることにも、今の一連の流れを理解できずにいる僕を、呆れたような、それでいてどこか楽しげな表情で見ているバニラのことも、名を呼ばれて我に返り、初めてそこで何が起きたのかを認識した。
未来さんの右腕は、肩の少し下から先が綺麗に失われていた。
敬人は慌てて駆け寄り、バニラに教わった治療法を施す。
幸い、失われた腕もすぐそばに転がっていたため、再生は比較的容易だった。
腕は元通りになったが、未来は出血と衝撃で意識を失っているのか、起き上がる気配はない。
(このままここに放置したら、今度こそ別の魔法使いに連れさらわれかねないし、どうにかしないとな…)
「……アーロさん、君が魔法使いの国に帰るには、どうしたらいいんだい?というか、いつもどうやって帰ってるの?」
敬人が尋ねると、アーロは夜闇の一点を指差しながら答えた。
「もう来た」
カチャリ、カチャリ、という軽い金属同士が触れ合うような音が、闇の向こうから徐々に近づいてくる。
やがて闇夜から姿を現したのは、黒い軍服をきっちりと着込んだ、全長30センチほどのブリキのおもちゃのような人影だった。
その顔には、大きな歯と太い唇で満面の笑顔を形作った、不気味なマスクが取り付けられている。
「えっ、おもちゃが動いてる!?」敬人が素っ頓狂な声を上げる。
「へぇ。おもしろいねぇ」バニラは興味深そうに目を細めた。
ブリキのおもちゃはアーロの足元まで来ると、ぴたりと動きを止め、次の瞬間、バゴンッという大きな音と共に、その上顎が頭の後ろにまで届くほど大きく口を開けた。
開かれた口の奥からは、白緑色の不気味な煙が濛々と立ち上り、あっという間にアーロの全身を包んでいく。
「次は…殺す」
煙の中から、アーロのかすれた声がそう聞こえたと思った時には、もう彼女の姿も、ブリキのおもちゃの姿も、そこにはなかった。
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同時刻、魔法使いの世界。
フィクサーズの拠点である薄暗い屋敷の一室で、アーロは深い安堵の息をついていた。
「アーロ、ご無事でしたか!」
部屋に入ってきた、アイソンと呼ばれる長身の男が、心底心配していたという表情で駆け寄る。
「アイソン…。すいません、ご迷惑をおかけしました。本当に、すいません…。」
アーロは深々と頭を下げた。
「手間なんてとんでもない。あなたが無事なら、それでいいんです。本当に、心配だったんですよ。」
「はい…。はい…。ありがとうございます…。」
アーロの目から、安堵と感謝の涙が溢れた。
「今夜は一晩ゆっくりおやすみなさい。詳しい報告は、明日になったら聞かせてもらいますから。」
アイソンは優しくアーロの肩を叩いた。