魔法使い①
漆黒の闇が支配する深夜、街灯の光も届かない路地裏で、僕はそれと遭遇した。
「おや? 君は……野良の人間、ですか?」
ねっとりとした、それでいてどこか愉悦を隠せない声だった。見上げると、ゆうに2メートルはあろうかという長身の男が、僕を見下ろしていた。きっちりと撫でつけられたオールバックの髪、体に張り付くような黒いスーツに、派手な柄のネクタイは、まるで昭和の映画に出てくるヤクザのようだ。だが、何よりも異様なのは、その口元を覆うマスクだった。にたりと歪む大きな歯と、やけに分厚い唇が描かれたそれは、見る者に言いようのない不快感を与える。
間違いない。こいつは――魔法使いだ。
背筋を冷たい汗が伝う。脳が警鐘を乱打する。本当にいたんだ。都市伝説ではなかった。逃げろ。どこへ? どうやって? 全力で走るべきか? いや、下手に動けば刺激するかもしれない。こういう時、目を逸らさない方がいいと、誰かが言っていたような気がする。だが、そんな迷信がこの異形の存在に通じるだろうか。わからない、わからない、わからない!思考が空転し、体が鉛のように重くなる。
「ええ、そうですよねえ。誰の魔力も、その匂いすらついていない。これはこれは……素晴らしい拾い物をしました」
男はマスクの下で笑みを深めたかのように、肩を小さく揺らした。その目が、品定めをするかのように僕の全身を舐め回す。
「誰の唾もついていないということは……私が、この人を『いただいて』も、何の問題もないということですよね?」
ゆっくりと、しかし確実な足取りで男が近づいてくる。一歩、また一歩と縮まる距離に、僕の心臓は破裂しそうなほど激しく脈打った。踵を返し、全速力で逃げようとした。だが、もう遅かった。まるで透明な壁に阻まれたかのように、体が動かない。いや、意思とは裏腹に、足が地面に縫い付けられたように一歩も前に進めないのだ。ああ、どうしてこんな時間に外へ出てしまったのだろう。後悔が津波のように押し寄せるが、今はただ無力感に苛まれるだけだった。
この世界に初めて「魔法使い」という存在が認知されたのは、今から四年前のある春の日の夜だった。
当時、僕は高校生で、提出期限の迫った課題にも手を付けず、ぼんやりとテレビを眺めていた。突然、画面が切り替わり、けたたましい警報音と共に「ニュース速報」のテロップが躍った。そして、日本中が、いや世界中が震撼した「例の事件」が一斉に報道され始めたのだ。
「速報です!ただいま、大阪・道頓堀に、正体不明の三人組が出現。現在、大規模な破壊活動を行っている模様です!」
アナウンサーの切羽詰まった声。画面には、阿鼻叫喚の地獄絵図が映し出されていた。道頓堀のシンボルであるグリコの看板が炎に包まれ、戎橋は見るも無残にねじ曲がり、道頓堀川の水面は不気味な氷に閉ざされていた。そして、その中心で暴れ回る三人の男たち。彼らは奇怪なマスクで顔を隠し、手から炎を放ち、地面を凍らせ、天からは雷を呼び寄せ、まるで悪夢の具現者のように街を蹂躙していた。
「魔法使い、だって……?」
あまりにも現実離れした光景と、テロップに踊る「魔法使い襲来」という言葉のミスマッチに、僕は乾いた笑いを漏らしたことを覚えている。凍りつく道頓堀川も、燃え盛るグリコサインも、切断面から火花を散らす電柱も、パニックに陥り逃げ惑う人々の群れも、そしてそれら全てを引き起こしている三人の魔法使いも、まるで出来の悪いCG映画のワンシーンかのように見えた。
しかし、そんな非現実感はすぐに打ち砕かれた。スピーカーから響く、生々しい子供の泣き叫ぶ声。老若男女が入り混じる、命乞いの絶叫の輪唱。瓦礫に挟まれ、助けを求めながら黒焦げになっていく人々の姿。そういった残酷な情報が、嫌というほど僕の鼓膜と網膜に現実を叩きつけた。これはゲームでも映画でもない、紛れもない現実なのだと。この放送を見ていた誰もが、同じように戦慄し、絶望感を共有したことだろう。
やがて、三人の魔法使いのうちの一人が、まるでテレビカメラの存在に気づいていたかのように、不気味なマスク越しにレンズを睨みつけ、こう言い放った。
「これで終わりではない。また近いうちに来る。その時は……よろしく頼むよ」
その言葉を最後に、三人は背後に現れた揺らめく黒い球体――まるで空間に空いた穴のようなもの――に吸い込まれるようにして姿を消した。
事件の後、三人の魔法使いは、それぞれのマスクの特徴からこう名付けられた。
ヌタウナギの口のように、縦二列にびっしりと牙が生えたマスクの「牙の魔法使い」。
その名の通り、顔に口が縦に二つ並んだ異様なマスクの「二口の魔法使い」。
そして、左右の目の位置から血の涙を流すように見える紋様が施されたマスクの「血涙の魔法使い」。
大阪での魔法使い襲来事件は、死者五千人以上、そして二千人もの行方不明者を出すという未曾有の大惨事となった。いや、正確に言えば、行方は知れている。目撃者の証言によれば、三人の魔法使いは抵抗する術を持たない人々を捕らえ、あの黒い穴へと次々と放り込んでいたというのだ。行方不明とされている人々は、今もまだ、魔法使いたちによってどこかへ連れ去られたままなのだ。何のために? どこへ? それを知る者はいない。
あれから四年。
魔法使いたちは、予告通り、その後も散発的に世界のどこかに出現し、気まぐれに人を殺し、そして連れ去っていく。まるでそれが彼らの権利であるかのように。
しかし、意外なことに、僕らの日常生活には、それほど大きな変化はなかった。ただ一つ、夜八時以降の外出が全面的に禁止されたことを除いては。
魔法使いたちは夜間にしかその能力を十全に発揮できないらしい。そして、もう一つ奇妙なことに、彼らは人の住居の敷居をまたぐことができない、という特性があることも判明した。理由は不明だが、家の中にいれば、少なくとも魔法使いと遭遇する危険性はない。だから、僕らは夜、外に出歩くことができなくなった。いや、そういう風に、社会全体が諦めてしまったのだ。皆、自分の身の安全が第一だから。
だから、今こうして魔法使いに捕まっている人間は、みんな揃いも揃って救いようのないバカだ。そう、四年前の僕がテレビの前で嘲笑したように、今の僕は、まさにそのバカの筆頭というわけだ。
今日という一日は、朝から最悪だった。予習を怠っていた科目に限って授業中に当てられ、クラスメイトの未来さんに彼氏ができたという衝撃の事実を知らされ、昼に立ち寄ったコンビニではお釣りを10円少なく渡され、おまけに下校時には昇降口に置いていたはずの置き傘が無くなっていた。小さな不運の積み重ねが、僕の心をささくれ立たせるには十分だった。
だから、半ば自暴自棄になって、夜の街へ繰り出すことを決断した。
いや、本当はそういったネガティブな理由をこじつけて、以前から心のどこかで密かに抱いていた好奇心を満たそうとしただけなのかもしれない。禁じられた夜の世界への、抗いがたい魅力。
深夜一時。母親が寝静まったのを確認し、先週なけなしの小遣いで買ったばかりのスニーカーに足を通す。音を立てないよう慎重に窓を開け、身を滑らせるようにして家の外へ出た。ひんやりとした夜気が肌を撫でる。学校帰りに友達と騒いだ公園も、今は静寂に包まれ、まるで別の場所のようだ。日中はあれほど賑わっていた駅も、人の気配が一切せず、まるで世界の終末に取り残されたような錯覚に陥る。それでも、家々から微かに漂う生活の残滓のような温かい人の気配が、ここがまだ現実の世界であることを教えてくれた。全てが新鮮で、スリリングだった。
「何もしていないのに、こんなに楽しいなんてな」
外に出てから四十分ほどが経過した頃だろうか。最初のうちは張り詰めていた緊張も適度に解け、僕は調子に乗ってスキップを踏みながら人気のない商店街を歩いていた。その矢先だった。出会ってしまったのだ。魔法使い「たち」に。
「たち」と言ったが、正確には、最初に僕の前に現れた魔法使いは一人だけだった。今この場にいるのは、僕と、あのヤクザ風の魔法使いの二人きりだ。ではなぜ「たち」と言ったのか。それは、僕がこの絶望的な状況からみじめにも逃げようと足掻いている、まさにその時、もう一人、新たな魔法使いが現れたからだ。
「やっ……ばいな、これ」
ようやく絞り出した声は、情けないほど震えていた。恐怖で麻痺していた思考が、生存本能によって無理やり再起動される。逃げなければ。
反射的に背後の闇へと振り向き、走り出そうとした瞬間、顔面に強烈な衝撃が走った。
「ぐっ……!」
そこに壁などなかったはずだ。しかし、僕の勢いよく踏み出した足は、見えない何かに阻まれてぴたりと止まってしまった。
おでこ、あご、胸、腹、そして腰のあたり。それぞれの箇所に、細く、それでいて強靭な何かが食い込んでいる感触があった。まるで、道幅いっぱいに、目に見えない極細のピアノ線でも張り巡らされているかのようだ。さらに前へ進もうと力を込めると、それは僅かにたわむものの、すぐに弾力のある抵抗力で押し返してくる。
しかし、奇妙なことに、腰から下にはその感触が一切ない。ということは、もしかしたら、この糸のようなものはある程度の高さまでしか張られていないのかもしれない。ならば、腹這いになって進めば、この拘束を突破できるのではないか?
その考えが頭に浮かんだ時には、僕の体は既に実行に移していた。地面に手をつき、膝を折り、屈辱感などかなぐり捨てて、みっともなく這いつくばって進もうとした。
背後で、男の魔法使いの、くつくつと喉を鳴らすような笑い声が聞こえた気がした。それは嘲笑であり、同時に、獲物の無駄な足掻きを愉しむかのような、残酷な響きを帯びていた。
だが、僕のわずかな希望は、さらに巧妙な罠によって打ち砕かれる。
糸状の障害物をようやく腹這いでくぐり抜けたと思った瞬間、今度は顔と肩に、何かが絡みつく感触があった。網だ。細かく、それでいて頑丈な繊維で編まれたそれは、僕が気づいた時には既に全身をすっぽりと覆っていた。
次の瞬間、僕の体はふわりと宙に浮いた。まるで、狩人が仕掛けた罠にかかった哀れな獣のように、僕は網の中で無様に吊り上げられていたのだ。もがけばもがくほど、網は体に食い込み、手足は虚しく空を切るばかり。自分の無力さを、これほどまでに痛感させられたことはなかった。
網の中で身動き一つ取れず、ただぶら下がっているだけの状態。なすすべもない。抵抗する気力すら湧いてこない。僕は、諦めにも似た感情と共に、乾いた笑いを浮かべることしかできなかった。ああ、やはりバカだったのだ、僕は。
魔法使いの男は、ゆっくりとした足取りで僕の真下までやってくると、吊り下げられた僕を見上げ、まるで貴重な美術品でも鑑定するかのように言った。
「おやおや、派手に動かれましたね。ですが、ご安心を。この網は特製でして、そう簡単には破れませんよ。……それで、お怪我はありませんか? どこか痛むところは?」
その声音は、先ほどまでのねっとりとした響きとは少し異なり、どこか事務的で、それでいて獲物をいたわるような奇妙な優しさを含んでいた。だが、それが余計に僕を不気味な気分にさせた。
言葉が出ないまま、僕は力なく首を横に振った。幸い、打撲や切り傷のようなものはなさそうだ。ただ、全身を締め付ける網の感触と、宙吊りにされている屈辱感が、僕の心をじわじわと蝕んでいく。
「それはようございました。貴重な『素材』ですからね、傷一つない方が望ましい。では、そろそろ……『お持ち帰り』するとしましょうか」
男はそう言うと、スーツの内ポケットに手を入れた。いよいよ終わりか、と僕が観念しかけた、その時だった。
凛とした、それでいてどこか妖艶な、それでいてどこか気だるそうな、しかし、その奥には確固たる自信と一種の高潔ささえ感じさせる、澄んだ女の声が、夜の静寂を切り裂いて響いた。
「――わるいんだけどさぁ、ちょっと待ってくれない?」
網の中で必死に首を巡らせ、声のした方へ目をやると、そこには一人の女が立っていた。
月明かりに照らし出されたその姿は、息をのむほどに美しく、そして異様だった。
年齢は二十代後半くらいだろうか。首元でぱっつんと切り揃えられ、うなじにかけてふわりと広がる髪は、月光を反射して白金色に輝いている。服装は、全身を黒で統一していた。胸元から足首までをタイトに包むオールインワンのパンツスーツは、左足の太ももの外側と、右足の膝のあたりに、大胆なカッティングで大きな穴が開けられている。さらにその上から、シルクのような光沢を放つ薄手のコート風の羽織りものを、前を開けたままラフに羽織っていた。その立ち姿からは、有無を言わせぬ威厳と、近寄りがたいほどのオーラが放たれている。
ヤクザ風の男は、ポケットに突っ込んでいた手を止め、ゆっくりと女の方へ顔を向けた。そのマスクの下の表情は窺い知れないが、声のトーンは、先ほど僕に向けられたものとは明らかに異なり、どこか嬉々としているように聞こえた。
「これはこれは……。あなたも、魔力の気配がまるでありませんねぇ。今夜は、実に興味深い夜になりそうだ」