最終日
[キミといつも通りに過ごしたい]
あのとても奇妙な契約の期間最終日。
俺が待ちに待った日はあっさりと始まった。
俺はいつも通りの朝を過ごした。本当にいつも通り、何も変わらない。
今日でこの奇妙な日が終わり、日常が帰ってくる。
朝早く起こされて、美味しそうな匂いを漂わせるリビングで一緒にご飯を食べる。
そしてくだらない話を聞いて、くだらない事に付き合わされる。
そんなただ何も変わらない日。
だが俺とハンナは明日で、一緒にいる事はなくなる。だが、ハンナは全然動揺していないようだった。なんなら少し俺の方が動揺していたかもしれない。
俺は少しだけ寂しかった。本当に少しだけ。
気に入っている紅茶をハンナが買ってきたティーカップに注ぎ、ソファーに深く腰をかけた。
ズズッと紅茶を口に入れて、喉に流す。熱いが鼻いっぱいに広がる風味がとても美味しい。
適当な本を手に取り、パラリと本を捲った。
そんな時だった、ハンナが倒れたのは。本当に何も変わらない日の事。
本当に何も変わらない声で、アイツが掃除をしようかなー、と言った数秒後、鈍い音がした。
床と何かがぶつかる音。それは聞くに耐えない音だった。
驚いて本から離した目の先には倒れたハンナが居る。全てがスローモーションに見える事なんてあるんだと思った。
倒れたハンナが目の前にいる、俺は脳の処理が追いつかなかった。
手から滑り落ちたティーカップから紅茶が飛び出し、床に飛び散ったカップの破片。本がバサリと床に落ちる。本のページが紅茶を飲んで、どんどんとしたれていく。
静寂になった部屋に、ガシャンッと音が響いた。
ずっと止まっていたと思っていた心臓が、鼓動を打つのが良くわかる。顔に冷や汗がつたる。俺は口の水分を持っていかれ、さっきまでの紅茶は無くなり喉までカラカラになっている。すっかりと冷えた枯れた喉は、声を出そうにも薄い声しか出なかった。
そしてやっと出た言葉は、
「何をやっている?」
と言うなんとも冷たい言葉だった。自分でも笑えるほどの引き攣っていて、震えている声。
俺は信じられなかった。いつも通りの笑顔で“平気だよ〜”笑って欲しかった。
だが期待とは裏葉にハンナは動かない。
前の俺なら喜んでいただろう。たが今はコイツに情が湧いている。見て見無ふりなんてできる程俺は、冷酷な人間ではない。
ジワジワと近づいて、固唾を飲み込み、喉を鳴らしてハンナの顔を覗く。
最初にあった時、俺の肌を青白いと揶揄っていたが、それは今ではこっちの台詞となるほどに白に肌によく映える紫。
目の下にはクマが広がっており、ずいぶんの間寝れていないだろう。
震える手で、前髪をすくって額に触れる。俺の平均体温は随分と低いが、それを上回るほど額は冷たかった。その時、ハンナの弱々しい声がした。
「……? ローガン」
「嗚呼、そうだ。意識に問題はなさそうだな。いきなり倒れたが平気か? 今日は休んだ方が……」
「大丈夫だよ!」
何かに恐るかのような瞳と笑顔。いつものキラキラとした瞳からは考えられないほど狼狽えている瞳。そしてなにかと葛藤しているかのような声。
俺は柄にもなく動揺した。
「だが、」
「いいよ!本当に……いつも通りに過ごしたいんだ」
「…………わかった、だが約束してくれ」
俺は反論ができなかった。あのハンナの必死な表情に、うわずった声に、親を亡くした子のような態度に、俺は何も言えなかった。
だが俺はハンナの肩に手を置いてた。優しく、痛くないように細心の注意を払う。
「何を?」
どこか冷めているハンナの声。淡々としていて、初めてあった時のような大人びた口調。
その声に俺は少し戸惑った。だが気づけば唇は動き、声を出していた。
「笑顔でいてくれ。最後なのだから」
「…………」
俺はなんとも言えない情けない声を出した。
俺の目に映るのは、深い焦茶の木目だけ。その返事の間がやたらと心臓を煩くさせた。
「フフッ、約束しするよ」
と言いながら、俺の手を解いていた。いつもの口調に戻ったのが嬉しくて顔を上げる。目の前にあるハンナの服はくシャリとシワがついていた。いつの間にか俺は強く掴んでしまっていたのだろう。
「感謝する」
そういうと、ハンナは驚くほど笑顔になった。
「よしっ、掃除しようかな。なぜか紅茶が溢れて、コップは割れてるしね」
「ッ、すまん」
「いいよ、別に」
「そうか」
「ローガンも一緒にやる?」
「暇だからな」
「ありがと〜、てかあの本雑巾みたいに絞れそうだね、ヒタヒタだ」
いつも通りの笑顔で笑ったハンナ。だがどこかぎこちない。
だが俺はそれが嫌だった。俺はハンナに心の底から笑って欲しかったのだ。こんな笑顔ではなく……。だが、自分で言い出したから辞めてくれなんて言えなかった。
それに俺は不審に思っていた。アイツは体調が悪いのだろうか? というか体調が悪くても勇者は勇者をするのだろうか?
さっき前髪を上げた時、肌が死人のような、氷のように冷たかった。
ならば……、いや俺は今何を考えた? 本当に、俺は本格的に頭が狂い始めたらしい。
「ローガン!」
いつのまに着替えのだろうか?
初日のように可愛らしいエプロンをつけて、杖を一生懸命振っているハンナが話しかけてきた。俺は、少し気分が上がった。いつも通りのハンナだと。
だが、やはりその服を成人済み(多分)の男が着るのはキツい気がする。
「なんだ?」
「ここさ、私の魔法じゃ落とせないだけどキミの魔法だったらおとせる?」
「試してみよう」
俺は思った。俺は丸く甘くなったな、と。
前ならこんなに人と話さなかった。
前ならこんなに人に優しくなかった。アイツが来てから全てが狂った。俺は心の底で思った。
「落ちたぞ!」
「おぉ、すごいね。ローガン」
「ハハッだろう!」
「やっぱり子供っぽいよね」
「馬鹿にしているのか?」
「いいや」
ハンナは悲しそうに、でも嬉しそうに笑った。
俺も釣られて笑いそうになった。だが俺は上がりそうになった口角をグッと押し込んだ。
ー
「おいしいかい?」
「まあまあだな」
「フフッそっかぁー」
この会話も何回しただろう?
ハンナはオレを見ながら微笑した。俺はそんなハンナをお構いなしに、飯を口に運ぶ。
俺はこの飯が食えるのは、今日で最後かと考えながらあったかい飯を口いっぱいに頬張った。
「ねェ、やっぱりさ私がいなくなったらキミはこの家具を捨てるかい?」
「どうだろうな」
「フフッそうか。だが私は捨てると思うよ、だけどこの大きなツリーは残しといてね。」
「ハッそうか」
「うん」
「お前には、未来が見えているのか?」
「…いいや。私の勝手な予想だよ」
「そうか」
口の中でコロリと転がしたプチトマトを一気に潰した。くちゃりと嫌な食感がある。少し酸っぱいでも甘い液体が喉を伝った。
「最後に聞きたいことがあったんだ」
「なんだ?」
「キミにとって一番怖い事は何?」
「“不名誉”だな」
「ヘェ」
「望んでいない事を噂されることほど、気持ち悪い事はない」
「そうなんだ」
「嗚呼」
「お前は?」
「えっ、私?」
まさか聞かれるとは思っていたかった、という文字が顔に書かれるほどハンナは驚いた表情をした。
「俺だけ教えるのは、不公平だろう?」
「確かにね」
「そうだなぁ」
ハンナは腕を組み、左の方に瞳を向けた。
「うーん、一人かなぁ」
「寂しがり屋だな」
「そうかもねェ」
「でも私らしくていいでしょ?」
「嗚呼、そうだな」
俺のその時の声はどんな声だったのだろうか? 俺は覚えていない。その時の“嗚呼”は口からかってに溢れた言葉だったから。
俺は相槌を打つ時、何も考えずに打てるようになったのだ。
温かい飯に共に喋ってくれる人。
カラフルな家具。
飾られている癖の強い柄のトランプ。
書庫から持ち出された本。
海で撮った写真。
そしてキラキラと光るクリスマスツリー。
この家に増えた物だ。俺の生活を完璧に狂わせてきた物だ。
俺は周りを見回した。
一ヶ月前の俺が聞いたら信じないだろう。だが俺は今完璧に、この生活も悪くないと思ってしまっている。
相槌を打つ癖も、スプーンを二人分用意する癖も、ソファの右側に座る癖も……治るのだろうか? 俺が一人になった後、しっかりと元の生活に戻れるだろうか? 俺は珍しく自信をなくした。
『これで最後。』
俺の中で、こんな言葉が何度も何度も、繰り返された。まるで嫌がるように。まるで何かの呪いのように、ガンガンと脳に響く。
その時俺は、苦虫を噛み潰したような顔をしていただろう。
「ねェ、美味しい?」
「まあまあだな。」