9.怪人、その変わってしまった歴史
ほぼ満席に近いラーメン店内。
二人掛けテーブルで差し向かいに腰を下ろし、濃厚な味わいの豚骨ラーメンをすすっていた泰時は、そこそこ満足してきたところで、目の前の美少女の面にちらりと視線を流した。
彼の真正面では瑠菜が長い髪をポニーテールに纏めて、黙々と箸先を動かしている。結構な勢いで食べているところを見ると、彼女も空腹だったか、或いは単にラーメンが好きなのか。
しかし本来であれば、今頃彼女はあの暴漢共に襲われて純潔を失い、しばらくの間は精神的なショックで登校拒否に陥る筈だった。
その小さな歴史を泰時は、自らの手で変えてしまった。
だが問題は、そこではない。
先程泰時が妨害を仕掛けた三人のチャラ男共の中に、ひとりだけ見覚えのある顔があったのだ。
(間違い無い……あいつ、サウンドハンマーだ)
猟道衆の幹部のひとりにして、音波攻撃能力を駆使する猟鎧兵だ。その正体は泰時から見て二歳年上の無職、関川晃司という男である。
瑠菜の過去について余り詳しく調べた訳ではなかったが、晃司は今の段階から相当なワルで通していたことは知っている。
その晃司に強姦されたことが、後に瑠菜を特装戦志団のひとりに仕立て上げたといって良い。
実際彼女は、高校一年生の時の経験が猟道衆との激闘に大きく関係しているという意味のことを、どこかで語っていたとされていた。
(そういうことだったんだ……)
瑠菜に精神的な打撃を加えた男が、後に猟道衆の幹部となった。だから瑠菜は、その怒りを更に増幅させて猟道衆撃破に一役買ったという訳だろう。
だが、今回の人生では違う。
泰時が瑠菜を晃司の魔の手から救った。このままいけば、瑠菜はもしかすると特装戦志団に参入しないままの人生を送るかも知れない。
そうなってくれれば、それはそれで有り難い。
可能であれば、泰時も瑠菜とは戦いたくなかった。
(僕はやっぱり東崎さんのことが……)
それ以上は、思考が先に進まない。自分なんかが、決して抱いてはならない感情だ。
瑠菜は陽の当たる世界の住人、そして泰時は日陰者だ。そんなふたりが、釣り合う筈がない。
とはいえ、やるべきことは、やっておかなければならない――晃司への処置だ。あの男が居る限り、瑠菜の今後に何らかの翳を落としかねない気がしてならなかった。
「ね……叶邑くん、どしたの? 気分でも悪い?」
不意に瑠菜が、心配そうな面持ちで覗き込んできた。泰時の箸の動きが止まっていたことに、気を遣ってくれたのだろうか。
泰時は何でもないと慌ててかぶりを振った。
すると瑠菜は一瞬だけ安堵の表情を浮かべ、次いで再び怪訝な色をその美貌に張り付けた。
「あのね……それで、さっきのことなんだけど……」
僅かに奥歯を噛み締めた泰時。
あの三人の暴漢から瑠菜を救った時のことは、いずれ必ず問われるだろうと思っていた。それがいよいよ、今になって迫ってきたという訳だろう。
瑠菜は箸を置いて、背筋を伸ばして姿勢を正した。
「さっきは本当に、ありがとう……でも、やっぱり気になっちゃうんだ……叶邑くんは一体、どうやってわたしのことを助けてくれたの? 正直いってわたし、助けて貰った時の記憶が全然無いんだ……」
ここは勝負所だ。
下手な答えはきっと彼女も納得してくれないだろう。しかしだからといって、時間を止める能力については絶対に口外できない。
そこで泰時は、先程から考えていた弁明で押し通すことにした。
「実は、僕、ちょっと特殊な、催眠術を……使うことが、出来るんです」
「え……催眠術?」
一瞬目を丸くした瑠菜。
泰時は尤もらしい口ぶりで、そうなんですと小さく頷き返した。
「ほんの、何秒間か、相手の記憶を、飛ばすことが、出来るっていうか……やっつけるって程じゃ、ないんですけど……」
だからあの時も、件の暴漢三人の意識を少しの間だけ飛ばし、その隙に瑠菜をあの現場から引きずり出したと説明してみせた。
瑠菜もまた泰時の催眠術の影響下にあったから、救出されて大通りに出るまでの記憶が無いのはその所為だと語ってみせた。
これに対し瑠菜は、成程と頷き返した。
実際、彼女はこうして無事に済んでいる。その事実が大きな説得力を持たせているのかも知れない。
「そうだったんだ……でも、凄いね、叶邑くん……そんなこと、出来ちゃうんだ」
感心した様子で何度も頷く瑠菜。
泰時は、周囲を混乱させることになるから、このことは黙っておいて欲しいと小声で頼み込んだ。
瑠菜は勿論だと笑顔を返してくる。彼女は絶対に秘密を貫くから安心して欲しいと朗らかに笑った。
「でも、そう考えたら叶邑くんって、本当に人格者だよね。そんな凄いことが出来るんだったら、女子にちょっとぐらいえっちなことしても、バレないんじゃない?」
泰時は危うく、飲みかけたスープを噴き出すところだった。
突然何をいい出すのかと驚いたが、瑠菜は艶然と微笑むばかりでそれ以上は何もいわない。
からかっているのだろうか。
「後が、怖いから……そんなこと、出来ません……」
「あはっ……御免ね。冗談だから、今のは気にしないで」
苦笑しながら自身の頭を拳骨で軽く叩いた瑠菜。
そんな仕草ですら可愛らしいと思えてしまうのだから、泰時にとって今の彼女は、相当に眩しく思えてしまう存在なのだろう。
そしてこの後、泰時は瑠菜と駅前で別れた。
彼にはまだ、やるべきことが残っている。
(サウンドハンマー……彼の現在の動向を、探っておかないと)
本来ならば将来、同じ猟道衆の幹部として味方になる筈の男だが、どうにもそんな風に迎え入れる気分にはなれない。
既に歴史は変わり始めている。
或いは、晃司とは敵対することになるかも知れない。
そんなことを思いながら、泰時は再び商店街の路地裏へと足を踏み入れていった。