7.怪人、その劣等感
泰時が図書委員の仕事を終えて教室に戻ると、ほとんど誰も残っていなかった。
が、ひとりだけ例外が居た。
瑠菜が、泰時の隣の自席で帰り支度を整えた状態で、スマートフォンを弄っていたのである。その彼女が、教室に帰り着いた泰時の姿を認めると、手を止めてにっこりと微笑んできた。
(……?)
彼女のこの反応が、泰時にはよく分からなかった。
今まで女子からこの様な笑顔を向けられたことなどほとんど記憶に無い為、瑠菜が何を思ってその美貌に煌びやかな笑みを湛えているのか、全く理解不能だった。
しかし、いつまでも出入り口で固まっている訳にもいかない。
泰時は気を取り直して自席へと辿り着き、帰り支度を始めた。
そうして通学鞄を担いで席を立とうとしたところで、いきなり瑠菜も同じ様に立ち上がった。その瞳には何故か妙な期待の念が込められている様に思えた。
その瑠菜が、何かをいわんとしている。或いは、泰時からの言葉を待っている様にも見える。
ここは先に声をかけた方が良さそうな気がした為、泰時は素っ気無い風を装いながら面を向けた。
「えっと……どなたか、待って、いらっしゃるんですか?」
「うん、待ってたよ」
答えると同時に、瑠菜はずいっと上体を押し付ける様な格好で迫ってきた。女子、それも瑠菜の様なとびきりの美女にここまで接近されるという経験が無かった泰時は、思わず身を引いてしまった。
「一緒に帰ろ?」
その瞬間、泰時は左右に視線を走らせた。
他に誰か居るのかと思ったのだ。
ところが瑠菜は、少しばかり不機嫌そうに唇を尖らせた。ころころとよく表情が変わる女性だ。
教室に他のクラスメイトが居る時は余り感情を表に出さない様に見えていたのだが、今は随分と様子が違う様に思える。
「んもぉ……叶邑くんに、いってるの!」
「え……僕に?」
正直、信じられなかった。
瑠菜ぐらいの美人ともなれば、他に一緒に帰りたい友人は大勢居る筈だ。それが何故、自分なんかをわざわざ待っていたのか。
帰り道に、何か用事でもあるのだろうか。
「えぇっと……他の、お友達の、皆さんは、良いんですか?」
「いーのいーの! わたしは、叶邑くんと一緒に帰りたいんだから」
泰時は尚もぐいぐい迫って来る瑠菜に、完全に圧倒されていた。
これが普通の男子なら、きっと涙を流して大喜びしていたことだろう。泰時の如き陰キャなぼっちならば、尚更だ。
しかし泰時の場合、絶対的に許容出来ない問題がひとつ、横たわっていた。
彼女は10年後には、互いに命を奪い合う敵となるのだ。それなのにどうして、仲良く一緒に帰ることなど出来るだろうか。
(いや、そんな、無理だってば……)
ところがどういう訳か、泰時の心は、目は、意識は、どうにも目の前の美少女から離れられない。
将来の宿敵である筈なのに、この純真無垢な笑顔を拒絶することが出来ないのである。
(あぁ、そうか……そうなんだ……)
ここで漸く泰時は、何となく理解し始めてきた。
秋真高校に入学して瑠菜と同じクラスになって以降、彼は自分でも気づかぬうちに、何かと瑠菜の姿を目線で追い続けていた。
彼女の美しさと明るさが、どうしても泰時の意識を引いてしまったのである。
自分は恐らく、我知らずの内に彼女に対して憧れを抱いていたのだろう。陰キャ故に、決して口にすることが出来なかった好意を寄せていたに違いない。
だがあの夜――ヒストリーハッカーの記憶と能力を未来から受け継いだ時、泰時は決して彼女に近づいてはならぬと己にいい聞かせた。
まだ瑠菜への想いに気付いていない段階で、自らの心に蓋をしたのである。
そのことを今になって、漸く理解した。
(でも、だからって、今更どうなるんだよ……)
折角こうして、瑠菜の方から歩み寄ってくれているというのに、何故それを素直に受け入れることが出来ないのか。
そんなにも、10年後の運命が恐ろしいのか。
(いや、違うんだ、そうじゃない)
彼女が将来強敵となって立ちはだかるから、距離を取りたいのか。
否、そうではない。それはただのいい訳に過ぎない。
泰時が、瑠菜の笑顔を真正面から見ることが出来ないのは、自分自身の中に長年くすぶっていた劣等感の所為だ。
華やかな空気感の中で生きている彼女らと、陰キャでぼっちで根暗な自分とでは明らかに世界が違い過ぎるからだ。それ故、瑠菜からの一緒に帰ろうという申し入れに、素直に頷き返すことが出来ないのだ。
ヒストリーハッカーから如何に強大で圧倒的な力を受け継いだとしても、このマイナス思考だけはどうにもならなかった。
(イケメンや陽キャと呼ばれる連中が、時間操作や圧倒的な知識を披露したとしたら……きっと彼女は凄いと褒めちぎって、素直に受け入れるんだろうな……)
だが自分の場合はどうだろう。
きっと瑠菜は気持ち悪いなどといい放って嫌悪感を示し、場合によっては敵意を剥き出しにしてくるのではないだろうか。
いや、絶対にそうだ。
自分の様な日陰の存在は、彼女の太陽の様に明るい美貌の傍らには居てはいけないのだ。
そのことを理解した瞬間、泰時は面を背けて低い声音を搾り出した。
「御免なさい……申し訳、ないんですけど……僕は、東崎さんと、一緒に居て、良い奴じゃ、ないんで」
そこまでいい切って、泰時は一気に教室を飛び出した。
「あ……待って、叶邑くん!」
瑠菜の声が追いかけてきたが、泰時は廊下の角を曲がったところで時間を止めた。
兎に角、少しでも瑠菜から距離を取ろうと思った。