2.怪人、逃げたい気分
翌朝、泰時は死にそうな顔で自身が通う私立秋真高等学校の一年A組へと向かった。
今、彼の肉体には猟鎧兵ヒストリーハッカーの能力が具わっており、更にその頭脳には今後10年間に起こるであろう様々な出来事の詳細な記憶と、マサチューセッツ工科大学を首席で卒業出来る程の超高度な知能が詰まっている。
普通であれば、もうこれだけで人生ウハウハな気分になれそうなものだが、生憎彼は陰キャでぼっちで、加えて軽いコミュ障だ。
そんな考えは露とも浮かばなかった。
陽キャなパリピ思考なら、
「ラッキー! 俺の人生これからバラ色だー!」
と大いに浮かれることも出来るのだろうが、目立ちたくない且つ静かに人生を送りたい派の泰時としては、もう心臓バクバクで何もかもが怖くて仕方が無かった。
(何だよコレ……何の罰ゲームなんだよ……)
長めの黒髪と野暮ったい黒縁眼鏡のお陰で、周囲には余りひとが寄ってこない。
教室でもほとんどいつもひとりで過ごしており、時折ちょっと仲が良い程度の同じ陰キャ勢が、何かの用事で声をかけてくる程度だ。
基本的には人畜無害で、下手に陽キャ連中と関わらなければ平穏無事な高校生活を送ることが出来る筈であった。
が、泰時はこれから三日後に生じるであろう事件について知っている。
それが、彼を悲惨ないじめ地獄へと叩き落とす切っ掛けになることも、重々承知していた。
(あ、来た……あのひとが、僕の人生を大きく狂わせるひとだ……)
教室の教壇側扉を抜けて、幾つかの人影が入室してきた。
彼ら彼女らは華やかな雰囲気と明るい声音に包まれており、どう見ても泰時とは別世界の住民であることが伺える。
その中心に居るのが、校内でも屈指の美少女として人気の高い同級生、東崎瑠菜だった。
容姿端麗な上に学力でも学年トップ3に入る才女だ。
しかも運動神経も抜群ときたものだから、男女関わりなく、多くの生徒達から羨望の眼差しと称賛の声を浴び続ける完璧超人である。
だが泰時にとって何より厄介なのか、実は彼女が10年後、ヒストリーハッカーを斃すことになる特装戦志団の一員であり、紅一点の桃刃戦姫であるということだった。
(あのひとが10年後に、僕を殺すことになるんだよな……)
いわば泰時にとっては人生の天敵であり、宿敵でもある。
勿論今の段階では瑠菜本人にはその様な意識は欠片も無いのであろうが、これから起こる未来について知っている泰時からすれば、絶対に関わってはならない相手という認識だった。
この瑠菜が、泰時への壮絶ないじめを誘発する原因となった人物なのである。
ヒストリーハッカーの記憶によれば今から三日後、泰時は図書委員の仕事で荷物を抱えて廊下を歩いていた際に、足を滑らせて転倒した。
その際、たまたま後ろを歩いていた瑠菜を巻き込んでしまい、あろうことか、彼女の胸を鷲掴みにしてしまったのである。
この光景を、多くの生徒達が目撃した。
校内でも屈指の人気者である瑠菜の柔らかで豊満な胸を、陰キャなぼっち野郎が畏れ多くも触ってしまったということで、同級生から徹底的に叩かれることになった。
元々が根暗で陰気な性格と外観だったから、陽キャ連中にしてみれば鬱憤晴らしの良いオモチャが出来たということで、更に拍車が掛かったのだろう。
その地獄が都合三年間も続いた為、泰時は己の人生に絶望し、世の中を呪う様になった。
そしてその結果、猟道衆へと走り、時間を操る猟鎧兵ヒストリーハッカーへと変貌を遂げた。
だが今はまだ、その人生の転換期の直前である。即ち、三日後の事件さえ上手く躱せば、今後の泰時の高校生活に於いて変わらぬ平和が維持出来るかも知れない。
(何とか……何とか上手く、切り抜けるんだ。その為なら僕は、10年後の未来から託された力を使うことだって躊躇わないぞ……)
兎に角、瑠菜と関わるな――その一念で、泰時はこの日をひたすら静かに過ごし続けた。
ところが六時限目のロングホームルームで思わぬ事態が生じた。
以前から予告されていた通り、席替えが実施されたのだが、この時の新たな席位置決定方法が、完全なくじ引きだったのである。
その結果、恐るべき現実を目の当たりにすることになった。
「えっと……宜しくね、叶邑くん……」
「あ、はぁ……その、宜しく、お願い、します……」
最悪だった。
まさかの瑠菜と隣同士、であった。
泰時は窓際最後尾の席で、瑠菜席がその右隣に配置されたのである。
あれ程に、絶対に彼女とは関わらない様にしようと決意したその矢先に、これである。早くも人生詰んだ様な絶望感が胸中に湧き起こってきた。
「叶邑くん、大丈夫? 何だか、顔色悪そうだけど……」
「あ、いえ、だ、大丈夫、です」
本気で心配そうに覗き込んでくる瑠菜に、泰時は引きつった愛想笑いを返した。
今から10年後に、彼女は自分を殺しに来るのだ。そんな瑠菜が、まさか心配してくれようとは、ちょっと想像出来なかった。
(流石に、いえないよな……あと10年もしたら、貴方が僕を殺しにくるので、めっちゃビビってるんです、なんて……)
普通に眺めている分には瑠菜は本当に美しくて清楚で、それでいて誰とも分け隔てなく気軽に言葉を交わす明るい女性だから、本来ならば彼女の隣の席になれたことで喜ぶべきなのだろう。
しかし泰時は到底、そんな気分にはなれなかった。
周りからは羨望と嫉妬の視線が突き刺さって来る。そんなに替わって欲しければ幾らでも替わってやりたいところだったが、担任教師は公平を期す為とかどうとかいって、余程の理由が無い限りは勝手な席位置交換は許してくれなかった。
だから泰時としては、瑠菜の隣席でいることに耐えなければならない。
(あー、もー……誰か助けて……)
尚も不思議そうな面持ちで覗き込んでくる瑠菜から顔を背けて、泰時は窓の外を眺めた。
もう本気で泣きそうだった。