6「あなたを愛することはない」と百日前に言った「私」の顛末
「――は? オレリア、今なんて言った?」
「別れましょうと、申し上げました」
「いやいや、俺たち楽しく付き合ってたよな」
「楽しく……」
確かに、楽しかった。
私はマクシムが好きだったから、彼が私に全ての支払いを押し付けていたとしても、仲間の店から法外な金額を請求されたとしても、ほかの女性と目の前でイチャイチャされたとしても、何かおかしいと感じながらも、ただ彼の隣にいられることが嬉しく、楽しい気持ちに縋っていた。
「俺は別れないからな。もしかして、やっぱり貴族がいいと思ったのか? あのリナートとかいう奴のせいか?」
「彼は関係ありません」
確かに、私を楽しませようとしてくれるリナートのお陰で、自分が楽しむためのデートしかしないマクシムに違和感を覚えることはできた。
しかし、リナートのせいでマクシムと別れるのかと言われれば、それは違う。
恋心という目隠しを取って改めてマクシムを見たとき、別れるべきだと結論づけただけだ。
「ほかの男に求婚されたからって、この俺を振ってあっさり乗り換えるなんて、この前まで俺にベタ惚れだった癖にあり得ねぇだろ!」
貴族も使う喫茶店のテラス席で、マクシムはその逞しい大きな拳でドン!とテーブルを叩いた。
初めてそんな行為をされて、私の肩はびくん、と跳ね上がる。
「そういやお前、俺と寝ようとしなかったのも――」
「お話中のところ、失礼いたします。第八騎士団のマクシム副団長でしょうか?」
憤怒の形相を浮かべるマクシムに、騎士団のマントを羽織った人が三人、近付いた。
「なんだよ、お前。俺は今日、非番なんだよ」
「団長がお呼びです」
「ああ?明日聞きゃいいだろ」
「すみません、言葉が足りませんでした。本日は緊急の団長会議がございまして、十人の団長がマクシム副団長をお待ちしております」
「……もしかして、昇格の話か何かか?」
マクシムは「話はまた今度な」と私に言い捨て、その人たちと去っていった。
その日、マクシムは重要な規約違反を犯したとして騎士団を退団させられた。
さらに数日後、それ以外のいくつかの詐欺や暴行、違法賭博などの犯罪容疑で逮捕された。
そんな記事を書かれた新聞を父から渡された私は、急な展開についていくことが出来ずに、ただ呆けた。
「……だから言っただろう? もう彼と付き合うのは、やめなさい」
父はまだ私が彼に想いを寄せていると思ったらしく、辛そうな表情でそう私に言った。
そうか、私は確かに政略結婚をした両親の間に生まれたけれども、愛されてはいたのだ。
父が最近毎日身に着けているカフスボタンを見ながら、じんわりと胸が温かくなる。
万が一、妄信的に彼を好きだった頃であれば、私は何かの間違いだと、逆に新聞すら信じなかったかもしれない。
このタイミングで良かったと、私は父に微笑んで言った。
「ありがとうございます、お父様。私はマクシム様と別れる予定だったので、そこまでショックを受けておりませんから、ご心配なさらないで下さい」
私の言葉に父は一度目を丸くしたあと、わかりやすく笑顔になる。
「そうだったのか! それは最近聞いた話の中で、一番の朗報だ!」
「ご心配をおかけしてすみませんでした。今度こそ、もっと良い人を自分の目で見つけます」
「オレリア、リナート卿との婚約はどうする気だ!」
私は父ににっこりと笑っただけで、なんの返事もしなかった。
***
私が次にリナートに会えたのは、マクシムと一緒に回る予定だった生誕祭の日だった。
リナートと約束した、百日目でもある。
考えてみれば、忙しいと聞いていたリナートと、あんなに何回も会えるほうがおかしかったのだ。
今までは、リナートが私と会うために努力してくれたから、会えていたのだ。
私はこの日のために購入した生誕祭用の服に着替え、リナートとの待ち合わせ場所に向かった。
約束の時間よりも十五分は早く到着したはずなのに、リナートは既に着席していて、私に気づくと手を挙げ、そして私のためにイスを引いてくれる。
そういえば、マクシムはいつも私との待ち合わせ時間に遅刻しかしてこなかったな、と思い出す。
急なキャンセルが入ったときもあり、その度に仕事が忙しくてといつも言っていたが、実際のところはどうだったのだろうか。
リナートとの予定が、彼の仕事の都合で急に駄目になったときもあったが、この人はお詫びの手紙と花束を従者に持たせ、その次に会ったときは必ず私の好きな店のパイを持参してくれていた。
色々気付いてしまうと、自分の見る目がないという事実を突きつけられて辛いものがあるが、結婚する前で良かったと、改めて思う。
「お久しぶりです、リナート様」
「ええ、本当に。お会いしたかったです、オレリア嬢。……その、元気にしていらっしゃいまいしたか?」
「お陰様で。キャロットにたくさん慰めて貰いました」
私はふふ、と笑って報告する。
マクシムが逮捕されることになった書類を纏めたのは、リナートが手配した調査部隊の活躍によるものだったらしい。
「少しでも心の傷が癒えているなら良かったです。今日は楽しみましょう」
「はい」
私の前に、頼んでいないレモネードが運ばれてくる。
この店はキャロットと私のいきつけで、私がレモネードしか飲まない話をリナートにしたらしい。
人の好みを熟知しておいてデートに誘うなんて、些かズルい気もするが、悪い気はしなかった。
私は居住まいを正して、改めてリナートに声を掛ける。
彼とキャロットが恋人同士だと思い込んで、折角の告白に「私があなたを愛することはない」などと答えてしまったのだ。
「リナート様。まずは私、リナート様に謝らないといけないことがございます」
「何をですか?」
私が謝罪を切り出すと、リナートは本当にわからないというような声で、私に尋ねた。
「その……、求婚について私から伺ったとき、私はあなたに酷いことを申し上げました」
「ああ、もしかして、私があなたを愛することはありませんと私におっしゃったことでしょうか?」
「はい」
「謝罪をするということは、その言葉を撤回していただけるということですか?」
じっとリナートに見つめられ、私は視線を泳がせた。
私は心のどこかで、心を謝罪をすれば、リナートならば許してくれると勝手に思っていたのではないか。
まさか、撤回するのかと聞かれるとは。
もしここで撤回すると言えば、それは逆を返せば、あなたを愛するかもしれないと言うも同然だ。
そしてリナートは、それを私に言わせたいのだ。
「……はい」
躊躇したのは一瞬で、私は自分の心に素直になって、頷いた。
「私が間違っていました」
リナートは無表情で頷く。
「その言葉が聞けたので、十分です。それに、オレリア嬢の気持ちもわかります。今、私が誰かほかの女に言い寄られたとしたら、私は同じ言葉を使うでしょう」
目を細めてこちらを見るリナートの視線をまっすぐに受け止められず、私は赤くなって俯いた。
リナートがほかの誰かとデートしているところを想像して、胸の奥がモヤモヤとした。
自分勝手で、浅ましい。
百日前まではほかの男性が好きだったのに、今は目の前の男性が気になっているなんて、自分の心は人を好きになりやすく、また移ろいやすいのだろうかと心配になる。
二人で喉を潤したあと、露店がたくさん並んで賑やかな街の散策に向かった。
一年前にマクシムに恋をしたのが、ずっと遠いことのように思えた。
「失礼」
ぐっと肩を引かれ、私の真横を馬車が通る。
背中越しに触れたリナートの身体は、ずっと書類とにらめっこするような職種についているにもかかわらず、とても硬い筋肉に覆われているように感じて驚いた。
キャロットに好みの男性を尋ねられたとき、マクシムを思い出しながら答えていたから、「笑顔が素敵」だの「筋肉質な人」だの「強い人」だの答えていた記憶があるが、もしかしてリナートも鍛えたのだろうか、と思って口を開いたときだった。
「おい、あんた!! オレリアって言ったっけ?」
急に名前を呼ばれ、何事かと私はそちらを振り向いく。
「あなた方は……マクシム様の、お知り合いの方々ですね」
そこには、以前一度食事をしたことのある、マクシムのお友達が三、四人、腕を組んでこちらを睨んでいた。
こうして改めて見ると、皆屈強そうで、柄が悪そうだ。
「お前だろ。マクシムのことを、上にチクった奴は」
「仮にも恋人だったのに、恥ずかしくないのか」
「おい、にーちゃん、ちょっとこの女置いてどっかに行っててくんない?直ぐにすむからさ」
リナートにそう言って、彼らは私の腕を引っ張った。
このままだと、リナートを巻き込んでしまう。そう思った私はこの場を離れようとしたのだが、もう片方の腕をリナートに引っ張られて、引き止められてしまう。
「リナート様、私は大丈夫ですから……」
「今すぐ彼女の腕を離せ。そうでなければ、その腕を斬る」
「はあ? なんだ、痛い目を見ないとわからないかー、そうか、そうか……」
やっちまえ、とその人たちがリナートに一斉に襲い掛かり、そして制圧されたのは一瞬のことだった。
リナートの足元にはマクシムの友人たちが転がり、私は驚きのあまり腰を抜かしてしまう。
「リ、リナート様、お怪我はございませんか……?」
「ええ、全く問題ありません。それと、あなたを怖がらせてしまって申し訳ありません。警ら隊を呼んだので、この場から離れましょうか」
その場にはリナートの護衛らしき人たちが残り、私はリナートに軽々と抱えあげられて、その場をあとにした。
「……リナート様って、実は鍛えていらっしゃるのですか?」
「ははは、一応公爵家の跡取りですから。小さな頃から護身用に剣は習っているので、騎士団の団長くらいなら引き分けられますよ」
「そ、そうでしたか……」
マクシムの筋肉は、誰が見ても鍛えていることがわかるような、人に見せるための筋肉だったが、リナートのように、細く見えるのに実は鍛えている男性もいるのだと、初めて知った。
見た目で判断したことに恥ずかしくなった私は、赤くなった顔を両手で押さえる。
「もしかして、私に惚れてくださいましたか?」
にやっと笑うリナートは、以前のニコニコとした仮面を着けているときより、ずっと素敵で輝いて見えてしまう。
マクシムに助けられたとき、彼が輝いて見えた。
だからこれも、助けられたときに感じる、一種の錯覚かもしれない。
「ま、まだわかりません」
私がかろうじてそう答えると、リナートは今度は耐えられないとでもいうように、声を出して笑った。
***
「オレリア嬢は、お酒が飲めませんでしたよね? 何を飲みますか?」
「で、ではココアを」
「いいですね。私も同じものにします」
「いえ、リナート様は好きなものを頼んでください」
「はは、私はただ、オレリア嬢と同じものを飲みたいだけです」
生誕祭で打ちあがる花火を、私たちはココアを飲みながら貴賓席からゆったりと眺めた。
ロマンチックな光景に、以前はこんなムード満点な中でファーストキスをしたい、と思っていたことを思い出す。
「オレリア嬢、私との百日のお約束を、覚えていらっしゃいますか?」
リナートに問われ、私は頷いた。
「勿論です」
「では、私と婚約をして頂けますか?」
私は少し悩んで答える。
「……こんな私で、本当にいいのですか?」
「そんなオレリア嬢が、いいのです」
リナートは真剣な表情で頷いた。
しかし、思い込みで彼を傷つけた私に、彼から好かれるような魅力があるとは思えない。
返事をすることができない私に、リナートは教えてくれた。
「実は、私も恋愛結婚派なのです」
「え?」
「オレリア嬢の初恋は実りませんでしたが、今ここでオレリア嬢が頷いて下さるなら、一人の男の初恋は成就するってことです」
「え? そ、そうなのですか?」
リナートは無表情でこくりと頷く。
なんとなくその様子に、昔王城で出会った一人の少年の面影が重なった。
貴族の子供たちの交流会で、もっと愛想をよくしろと親から言われ、ニコニコと笑っていた少年。
でもその目も声も全然笑っていなくて、気になった私は「笑わないでいいから、楽しいこと探そう」と一緒に虫を捕りに行ったり、馬を見に行ったり、図書室に籠ったり、色々構ったのだった。
少年は私に一度も笑うことはなかったけれども、声色で彼の好きなことと嫌いなことがわかったから、それを当てるのが楽しくて、そして驚く少年が面白くて、一日一緒に遊んだ。
彼の代わりに私がたくさん笑って、私たちはその場で別れたのだ。
そうか。あのときからずっと、彼は私を見ていてくれたのか。
私は泣きそうになりながら、「これからよろしくお願いいたします」と頭を下げる。
下げた頭を戻すと、リナートは安堵したような、とても幸せそうな笑みを浮かべていた。
「……私、できることなら百日前に戻って、あなたに酷いことを言った自分の口を塞いでしまいたいわ」
私は両手で顔を覆って、リナートに零す。
リナートはそっと私の手をどけると、頬に触れて自分のほうへ向かせた。
ドン、と花火が鳴って、私たちの顔を色鮮やかに染める。
互いに絡み合う視線を恥ずかしいと思う一方で、なぜかリナートから目を離すことが出来ない。
「では、私があなたの代わりに今、その口を塞いでも構いませんか?」
私は返事の代わりに、そっと睫毛を下ろしたのだった。
いつもブクマ、ご評価、大変励みになっております。
また、誤字脱字も助かっております。
数ある作品の中から発掘&お読み頂き、ありがとうございました。