1 初めての恋人、婚約者との対面
私は、のんびりと新聞を広げて珈琲を飲む、ウェルズリー公爵子息の向かいの席に座った。
「お待たせいたしました。遅れてごめんなさい」
「いいえ、お気になさらず。オレリア嬢は、今日も一段と美しいですね」
彼は開いていた新聞を丁寧に畳み、私を見てにっこり笑う。
喫茶店の日に当たるテラス席を予約し、その予約した本人……つまり私は一時間も遅刻してきたというのに、その声には嫌味ったらしさの欠片も感じない。
──正直、やりにくい。
怒鳴ってくれれば理解のない男だと父に言いつけることくらいはできるかもしれないのに、男はそつなく「日が当たる席ですが、大丈夫ですか?」と遅れてきたこちらの心配までしてくる。
いつになったら痺れを切らして帰るのか、予約した時間からこの時間まで向かいの店から見張っていたのに、忙しいはずのこの男は全く帰る気配がなかった。
怒って帰ってくれればそこでまた堪え性のない男だと言えたかもしれないのに、結局こうして仕方なく私が登場する羽目になっている。
──私の親友の恋人の癖に、よく私に求婚なんかする気になったものだわ。
「ええ、問題ありません。むしろリナート様は、多少日に焼けたほうが良いのでありませんか?」
ギロリ、と睨みつけてみるけれども、やはり男はどこ吹く風。
「そうかもしれませんね。ご配慮いただき、ありがとうございます。それより、喉が渇いていませんか?レモネードを注文いたしますか?」
「ええ」
男は店員にレモネードをふたつ注文し、仮面を張り付けたような微笑みを浮かべて、私に向き直った。
「……なぜ私に求婚なさったのか、伺ってもよろしいでしょうか?」
私は怒鳴りたくなる気持ちを懸命に堪えて、単刀直入に尋ねた。
我が国では、今の国王陛下のお陰で、貴族の結婚もようやく恋愛結婚というものが認められるような時代に突入していた。
貴族と平民の結婚も、まだ多少の障害はあるものの、昔に比べれば随分と増えたものだ。
平民であっても努力と実力があればそれなりの地位に就けるようになったことが、それを後押ししているのだろう。
貴族が愛妾を囲う時代は終わりを迎え、愛する人と共に人生を歩むことのできる、素晴らしい時代の到来である。
そして、絵に描いたような政略結婚の両親の下に生まれた私は、絶対に、絶対に恋愛結婚をするのだと公言して憚らなかった。
そんな私は現在進行形で恋をしている。
相手は第八騎士団の副団長である、マクシムだ。
平民であるが、騎士団に入団して実力を認められ、今は副団長にまで昇りつめた実力主義者である。
日に焼けた肌と、健康的な逞しい身体、そして何より誰に対しても明るく物怖じしない、溌剌とした性格。
単細胞だと多少悪く言われることもあるけれど、私はその素直で自分に嘘をつかないお人柄が大好きだ。
9カ月ほど前の生誕祭というお祭りで困っていた私を助けてくれた人であり、私の周りにはいないタイプの彼を知って、気になって、好きになるまで、たいした時間はかからなかった。
この9カ月で頑張ってお近づきになって、つい先日、私から好きだとお伝えして、マクシムからも「じゃあ俺と付き合う?」とお返事をいただいたばかりだった。
なのに。
なのに、だ。
そんな幸せ絶頂の私を不幸のどん底に落としたのが、目の前の男、リナートだ。
ウェルズリー公爵子息であるリナートは、官僚の仕事についているらしい。
興味がないからよくは知らないが、あまり人を褒めないタイプの私の父が「これ以上はない良縁」と言っていたから、きっと仕事は出来る人なのだろう。
リナートの返事を聞く前にお店の店員がやってきて、私たちの前にレモネードを置いた。
この店は摘みたて葡萄のジュースで有名だが、私の一押しはこのレモネードだ。
この店で一度レモネードを飲んでからはほかの飲み物を注文したことがないほどに好きで、目の前に置かれたレモネードに口をつければ、爽やかな酸味と一握りの甘味が口いっぱいに広がり鼻から抜けた。
「私がオレリア嬢をお慕いしているからですよ」
レモネードのお陰で気分を良くした私に男はのうのうとそう発言し、私を呆れさせる。
この男は、バカなのだろうか?
私が、この男と私の親友であるキャロットが恋仲であることを知らないとでも思っているのだろうか?
それとも、私がキャロットと親友であることを知らないのだろうか?
男爵令嬢だったキャロットは、昔から身体が弱く、療養するしかなかった私の、数少ない友人の一人である。
私の感性とは真逆の感性を持った女性で、結婚するなら金持ちだと言い、成人すると同時に五十代の平民の金持ちのところへ後妻として嫁いでいった。
夫婦二人とも奔放な性格で、その金持ちと結婚する際には、好きな男と好きなだけ遊んでもいいが、旦那様のほうの女遊びにも口を挟まないという条件で結婚したらしいのだ。
私の理解を超えるが、そうらしいのだ。
それからキャロットは、既婚者ながらも何人かの男性と楽しく遊んで、しょっちゅう社交界で陰口という噂話をされていた。
その中で最近、ここ3カ月くらい前から噂になっていたのが、目の前の男、リナートだ。
噂話に疎い私の耳にもその話が入ってきてからすぐ、街中で二人が堂々と肩を並べてデートをしているところを私自身が三回も見ているのだから、それは真実だろう。
親しいとはいえ、プライベートなことをキャロット本人に尋ねたことは一度もない。
しかし、なぜかリナートの私への求婚を親が快諾してしまったあとに「お前の婚約が決まった」と当事者であるはずの私が事後報告で聞いたとあれば、話は別だ。
「あなたが好きなのは私ではなく、ほかの女性ですよね?」
いくらキャロットとは結婚出来ないからといって、そんな嘘の言葉でほかの女と結婚するなんて、私の感性から言わせていただけば、言語道断である。
私が恋愛結婚をしたいと公言しているにも関わらず、親から攻める手段も卑怯と言える。
しかし、私がキャロットとのことを知っていると仄めかしても、リナートは引き下がらずに言い訳をしようとした。
「まさか。私は……」
イライラした。
困ったような顔で平気で嘘をつく目の前の男にも、時代は変わったというのに、平民だからといってマクシムだけはやめなさいと言い、勝手に私の婚約を取り付けた時代遅れの両親にも。
私の恋路を邪魔する、全てに。
「――私があなたを愛することはありません」
八つ当たりだとわかっているが、こみ上げてくる怒りを抑えきれずに、目の前の男へピシャリと言い放つ。
彼の好みがキャロットであるなら、彼女と真逆の私を、彼も愛することはないだろう。
それでも、目の前の男は怒らなかった。
私の言葉を聞いて、じっと真顔で何かを考えたあと、リナートはこう提案した。
「……では百日、私にいただけませんか?」
「え?」
「百日後もオレリア嬢の気持ちが変わらずあの男に向いているなら、私はあなたを諦めます。しかし、そのときにあなたの心が彼から離れていたなら、私と婚約をして頂けないでしょうか?」
「……わかりました」
マクシムへの気持ちがたったの百日で冷めることなどないだろうと思いながら、私は頷く。
マクシムは私のヒーローそのものだった。
「ただし、この百日の間だけ、条件があります」
「……何でしょうか? 彼と会うな、ということですか?」
「いいえ。今まで通り、彼と会っていただいて構いません。ただし、純潔は守って下さい」
ストレートに言われ、私は顔が真っ赤になったことを自覚しつつ、頷いた。
「それと、私とも会って下さい」
「……はい、わかりました」
私はもう一度、頷いた。
会うくらいなら、構わない。
リナートは忙しい人だから、会うと言ってもたかが知れているだろう。
「ありがとうございます。百日の間、あなたと会えることを楽しみにしています」
リナートはそう言って、テーブルに置いた私の手を恭しく持ち上げると、キスを落とした。