「地蔵長屋」第二章
江戸の町、深川木場の通りを挟んだところに地蔵長屋があった。春浅き日の早朝、長屋の門口に鎮座している地蔵前に赤子が置かれていた。か細い声で泣いている赤子を最初に見つけたのは、岩助の女房お花だった。お花は赤子を抱き上げ大声を出すと、何事かと各裏店から女房達が顔を出した。
「お花さん、こんなに朝早くから何事かい」
最初に聞いてきたのは、佐吉の女房タキだった。この店子の女房達を束ねているのはお花だ。お花が一人一人の困りごとを聞く情け深い心根と行動力を持ち合わせているので、長屋の者達も一目置いている。
「お地蔵さんの前に赤子が置かれていたんだよ。誰か気付いた者はいるかい」
末次の女房お浜も利市の女房おまきも首を振った。
「昨夜、亭主が飲んで遅く帰ったけど、お地蔵さんに挨拶したときは、なんも変わりなかったとさ」
そう言ったのは、彦治の女房おつるだった。お花はすぐに岩助を呼んだ。
「おまえさん、仕事に行く前にちょいと自身番に寄って、権太親分に赤子のかどわかしがなかったか聞いておくれでないかい」
岩助は赤子をチラッと見て言った。
「この赤子は、かどわかしじゃねえな。かどわかしってえのは、金子をため込んでいる大店の子供を狙うもんだ、こんなボロボロの着物を着てるということは捨て子だな」
「どっちでもいいんだよ。このままじゃ埒が明かないじゃないか。ともかく聞いとくれ」
お花は亭主を追い立てるように言った。他の亭主達にも睨みをきかすように言った。
「どこかで赤子の噂を聞いたら、いの一番に知らせておくれよ」
それぞれの亭主が仕事に出掛けると、お花は女房達を集めて井戸端会議を始めた。
「まずは坊にお乳を飲ませなくては。だれか貰い乳頼める人を知らないかね」
そういえばって言い出したのは常松の女房お鈴だ。
「ほら、この先の裏店のおかみさんが先ごろ赤子を産んだって聞いたよ」
「そりゃ良かったよ。早速坊を連れて乳を飲ませてくれるように頼んでおくれ。その間に、坊の着物や襁褓の用意をしよう」
お花の采配で女房達が動き出した。そんな中、慌てて駆け付けて来たのは、大家の大三郎太だった。自身番に居る時、岩助が飛び込んで来たという。
「赤子が捨てられていたのは本当かい」
「今朝方、お地蔵さんの前に置かれていたんだよ。まったくなんという親だ、子捨てなんて。家の人は、かどわかしじゃないと言ったよ。確かに、あのボロボロの着物じゃねぇ。大家さん、もし親が分からなかったら家で貰ってもいいのかねぇ。捨てたとなりゃ、はい私が親ですなんて届け出ないだろうし」
お花は、すっかりその気になっていた。お花には一人息子がいるが、今は呉服問屋へ奉公に上がっている。その寂しさも相まって赤子への思いがあるのかもしれない。
「まあ待て。今、権太親分が八丁堀の方に届けているだろうから。犬猫じぁあるまいし簡単に貰うなんて言いなさんな」
しかし、なかなか親が見つからない。三日、四日と日が経ち、お花はいよいよ人別の届けを考え始めた頃、奉行所の役人が来てあっという間に赤子を連れて行った。しかも、地蔵長屋の者達には何の説明もなされなかった。大三郎太さえも知らされていない。
「まったく何なんだ。これだからお上なんか信用できるもんじゃないよ」
お花は大三郎太相手に憤懣やるかたなしで悪態を付いた。
「私に言われても」
大三郎太は小声でぶつぶつ言いながら、お地蔵さんの前に座り、そっと手を合わせた。お地蔵さんは、いつものように柔和な顔を見せた。
地蔵長屋に置かれていた赤子が、後の甲斐国舞鶴城城主、徳川綱豊であることは誰も知る由がない。