8話 一瞥
泣きじゃくるゴミの手は、皮が剥け、傷だらけだった。
ひび割れた爪の隙間には泥が詰まり、指の関節は腫れ、あちこちにひどく膿んだ痕が見える。
何色かも分からないほどに汚れたその手は、もはや人のものとは思えなかった。
それでも──
エルフ族の女王・エクリオンは、その手を決して離さなかった。
無言で、ただ静かに。
その掌を両手で包み込み、まるで凍てついた魂ごと抱きしめるように、彼の手を温め続けていた。
初めは、石のように冷たかった。
生命の気配など微塵も感じられなかったその手が、涙と嗚咽と共に、少しずつ温もりを取り戻していく。
まるで──絶望の底で止まっていた時が、ようやく動き始めたかのようだった。
普段なら賑やかで騒がしい通りが、今だけは異様な静けさに包まれていた。
誰もが息を呑み、目の前の光景に言葉を失っていた。
エクリオンの放つ気配は、もはや神威の域にあった。
その圧倒的な気迫に、誰ひとりとして動くことも声を発することもできず、
まるで時間が凍りついたかのように立ち尽くしていた。
だからこそ──
ゴミのしゃくり上げる泣き声が、やけに鮮明に響き渡った。
膝をついたエクリオンは、底辺の存在たる魔族の少年の手を取り、
その背をやさしく摩っていた。
その姿に、同じように虐げられてきた奴隷たちは、込み上げてくるものを抑えきれなかった。
一人、また一人と、堪えていた涙を頬に伝わせ、膝をついていく。
──過去の自分を、抱きしめてもらっているようだった。
魂の抜けたような表情をしていたクズですら、嗚咽を漏らし、顔を覆って泣き崩れていた。
クズの心の奥底に、ぽつんと残っていた何かが、エクリオンの姿に触れて溶け出していた。
醜く、汚れ切った自分たちに向けられた、あまりに眩しすぎる慈愛に、彼女は混乱しながらも、ただただ泣いていた。
奴隷たちは、祈るように女王を仰ぎ見た。
その姿は、もはや女王というより“神”であった。
やがて彼らは一人、また一人とひれ伏し、その神のごとき存在に感謝を捧げるように頭を垂れた。
ようやく我に返った町人たちも、女王の放つ光に打たれたように震え、そして恐る恐る膝をつき、静かにその場に伏していった。
彼女が発する気配は、敬意では言い足りない。
畏怖と、崇拝と、絶対への服従──
誰もが知った。
そこに立っているのは、たった一人で“世界を変えてしまう”ような存在だということを。
「さて──」
エクリオンは、ぐしぐしと涙を拭っていたゴミをそっと立たせ、静かに周囲を見渡した。
涙を流し続けたせいで目元は赤く腫れていたが、彼の表情には以前のような虚無はなかった。
頬はわずかに紅潮し、なぜか身体を硬直させている。
(な、なんだ・・・この感じ・・・
どうしてこんなに、胸が・・・苦しい・・・)
混乱しながらも、確かに何かが自分の中で変わってしまったことを、彼は感じていた。
「どう収拾をつけようか?」
エクリオンが、柔らかく、しかし空気を裂くような声で問いかけた。
・・・だが、誰一人として答えようとする者はいなかった。
神々しさすら纏うその声に、ただ息を呑み、沈黙があたりを支配する。
永遠にも思える静寂が、張り詰めた空気と共にそこにあった。
全員がひれ伏す中、微動だにしなかったのは、ガンサイとゴイルだった。
ゴイルは、ガンサイと女王の間で視線を泳がせていた。
その頬を大量の脂汗が流れ落ち、膝は震え、呼吸すら浅くなっている。
(・・・クソ・・・クソッ、どうすればいい!?)
彼の思考は焦りと恐怖に飲まれていた。
*
──子供の頃からそうだった。
背は小さく、腕っぷしもない。
だから、強い奴の影に隠れて、勝ち馬に乗ることで生き抜いてきた。
誰の陰にいれば安全か。
誰に逆らえば死ぬか。
それだけを嗅ぎ分ける嗅覚だけで、ここまで這い上がってきた。
そして今、その全てが意味をなさないほどの“格”が目の前にある──
*
(逃げ道が・・・ねぇ・・・!)
しかしゴイルは、絶望の中でも考え続けた。
どちらについても破滅は免れない。
だが──
(・・・一か八か、だ)
唇を噛み、彼は震える足を一歩前に踏み出す。
エクリオンの瞳が、静かに、だが確実にゴイルを捉えていた。
そのプレッシャーに足がすくみそうになるが、彼はなんとか声を絞り出した。
「は・・・ハッタリだ!」
ざわ・・・
民の間に波紋が走る。
「え・・・偽物、なのか?」
疑念の火種が、広がっていく。
「冷静に考えてみぃ!王都でもないこんな辺鄙な場所に、お供も連れず旅行ですかい?
・・・そんなはずがあるか!」
「確かに──」
「そういえば一人しかいない・・・ってことは、まさか!」
彼の煽りは、民に着実に浸透していく。
(・・・よし、乗ってきた!)
彼からすると町民が乗る前に女王と証明されてしまったら終わりだった。
しかしエクリオンは沈黙を保ったまま、視線を逸らした。
女王の証を出して証明しようともしない。
それが、ゴイルにとっては“肯定”に見えた。
(これは・・・勝てるッ!)
「女王であれば、ご自身の身分を証明できますよねぇ? まあ、俺が言った後じゃ何を出してきても怪しいですがねぇ──」
その瞬間だった。
空気が、変わった。
突如、彼の全身に圧がかかる。
一瞥──
視線だけで、息を奪うような圧。
エクリオンの視線が、刺すように彼を捉える。
「・・・黙りなさい」
ただ、それだけ。
それだけで、世界の全てが沈黙する。
「う、ぐ・・・」
ゴイルは言葉を失い、その場に崩れ落ちる。
口から泡を吹き、目を見開いたまま、意識を手放した。
これこそ王たる証明。
まさに──“絶対”の力だった。