7話 赦し
数日が過ぎた。
溜飲を下げたガンサイは、地下牢に放り込んでいたゴミと“クズ”を解放した。
二人が奴隷小屋に戻ったとき、小屋全体が沈黙の波に呑まれた。
生きて戻ってくるなど、奇跡に等しい。
その姿を見た者たちは、目を疑い、次いで言葉を失った。
焦点の合わぬ目。
常にわずかに開いた口元。
背筋は曲がり、瞳は空を映さず、感情の気配すら希薄だった。
何があったのかを訊くことすら、憚られた。
バカもアホもカスも、ただ黙って彼らを迎えた。
誰ひとり、一睡もできないまま、夜は白んでいった。
翌朝。
淡い朝日が差す頃、二人は何も言わず、言われるままに掃除へ出た。
道具を手に、ただ黙々と、地面を見つめながら、箒を動かす。
通りかかる町人たちの視線が、露骨に逸らされた。
彼らは知っていた。
この屋敷の奴隷への扱いは、度を越している。
そして今目の前にいる者たちは、その“最果て”に触れてしまったのだと。
そのときだった。
「おい!てめぇ、俺の服に埃つけたな!!」
一人の通行人が怒声を上げた。
ゴミの掃いた埃がわずかに触れたらしい。
「責任者を呼べ! 誰が弁償するんだ!!」
その声に応じるように、ガンサイが現れた。
面倒臭そうに頬を掻きながら、それでも慇懃に微笑む。
「・・・何か問題でも?」
「こいつが俺の服を汚したんだよ! どうしてくれる!」
「どうしようもできませんねえ。奴隷のやることですし」
「・・・ふざけるなよ!」
「はいはい、申し訳ないことをしましたねえ」
あくまで軽薄な態度。
通行人が怒鳴ろうと口を開いたその瞬間だった。
「・・・これで、よろしいですかね?」
ガンサイの手が一閃した。
ナイフが、ゴミの頬を貫いた。
「ぐあッ!!」
鋭く切り裂かれた肉から、血が飛び散る。
「う、うわぁ・・・!!」
通行人は顔を青くし、足早に立ち去った。
「やれやれ・・・客が逃げちまったじゃねえか」
ガンサイは舌打ちし、踵を返して立ち去ろうとした──そのときだった。
通りに満ちていた喧騒が、まるで波が引くように静まり返った。
「・・・ん?」
違和感に気づき、ガンサイが振り返る。
最初は、己の所業に人々が黙り込んだのかと思った。だが、様子が違う。
人々は一様に、同じ方向を見つめていた。
その視線の先から、規則的な足音だけが聞こえてくる。
コツ……コツ……コツ……
やがて群衆は自然と道を開け、その音の主がゆっくりと姿を現した。
まるで光そのものを纏っているかのような、神々しい存在。
「な、なんだ・・・この神聖力は・・・」
思わず後退りするガンサイ。
次の瞬間、その女性はまっすぐゴミの前へと歩み寄り、静かに膝をついた。
「・・・大丈夫ですか?」
それは、風のように優しく。
差し込む朝陽のように、あたたかな声だった。
ゴミは思わず顔を上げる。
銀の髪。長く伸びた耳。透き通るような肌と深い碧眼。
エルフ族──。
それは、彼の記憶のどこかにかすかに残る、遠い存在。
彼女は迷いなく言葉を紡いだ。
「今、治療しますね」
指先をそっとかざし、呪文を唱える。
「〈治癒〉」
淡く緑の光が降り注ぎ、ゴミの頬を優しく包んだ。
裂けた肉が塞がり、痛みが引いていく。
けれど、もっと深くにある何かが──
何よりも癒されていた。
「・・・え? あ、ありが・・・と・・・い、いや! 申し訳ございませんでした!」
混乱と恐怖の狭間で、ゴミは本能的に土下座をした。
額が石畳に打ちつけられ、また血が滲んだ。
「やめてください。せっかく治したのに・・・」
もう一度、光が彼を包む。
彼女の手は揺るぎなく、そして穏やかだった。
その瞬間、彼は初めて知った。
自分が“人”として扱われている──その奇跡を。
ゆっくりと顔を上げた彼に、彼女はふわりと微笑んだ。
「・・・顔が赤いですよ?」
頬に、ぬくもりが戻っていた。
それは恋でも憧れでもない。
ずっと凍えていた“心”が、ようやく目を覚ました証だった。
しかし──その奇跡は、すぐに乱される。
「てめえ!! 俺の奴隷に何しやがる!!」
我に返ったガンサイが怒声を上げる。
その背後には、にやけ顔のゴイルの姿もあった。
エルフィの女性は、静かに一歩前へ出る。
「・・・下がりなさい」
たった一言。
それだけで、空気が張り詰めた。
「なんだてめぇ・・・?」
「これ以上、彼を傷つけることは、私が許しません」
「は? てめえに何の関係が──」
「あります。人として──見過ごせませんから」
凛とした声が、通りを貫いた。
その姿は、まさに“光”だった。
ガンサイが忌々しげに睨みつける。
「・・・おい、おまえ、何者だ?」
「──私、ですか?」
その問いに、女性は静かに応じた。
一つひとつの所作が、まるで儀式のように洗練され、神聖な空気をまとう。
見守る者たちは、息を呑んだまま微動だにしない。
彼女はゆるやかに胸に手を当て、澄んだ声で名を告げる。
「──私は、エクリオン・ミドナ・ドラクロードと申します」
その名が告げられた瞬間、場の空気が一変した。
光が揺れ、風がざわめき、時が恐れをなしたかのように沈黙する。
ただの名乗り──だが、それは“王”の宣言だった。
「なっ・・・!?」
「まさか・・・エルフィの・・・女王・・・!」
沈黙が町を包み、誰もが息を呑んだ。
その言葉を耳にした瞬間、ゴミの中で何かが崩れ落ちた。
理解が追いつかず、ただぼんやりと見つめる視界の中で、彼の内側で長く凍りついていた感情が、ぽつり・・・とひとしずく、溶け出した。
ぽろ・・・
頬に、涙が伝う。
自分でも気づかぬうちに、次々と。
止めどなく、音もなく、涙がこぼれていた。
誰にも気づかれず、誰にも必要とされず、蔑まれ続けた人生の奥底にあった“叫び”が、今ようやく、温かな光に触れたのだ。
女王は一歩、また一歩と進み──そして、宣言した。
「エルフィの女王の名において、彼の解放を命じます」
世界が揺れた。
今まで“存在”すら否定されてきた男が──初めて、“赦された”のだ。
彼女はそっと、手を差し伸べる。
「・・・酷く、辛かったでしょう?」
その手を、震える指先で取る。
温かく、優しく、どこか懐かしい・・・命の温度がそこにあった。
「もう、大丈夫ですよ」
嗚咽が、堰を切ったようにあふれ出す。
涙が、止まらなかった。
喉の奥で震える声は言葉にならず、ただ、体が小刻みに揺れていた。
名も、記憶も失われても。
この瞬間──ゴミは、確かに“心”を取り戻した。
そして、この出来事を。
忘れることは──ないだろう。
「あ・・・あ゛りがとうごばいま゛ず・・・!!!」
嗚咽と共に、彼はただ、何度も頭を下げ続けた。