2話 異世界転移
「ん・・・」
⸻
少年は静かに目を覚ました。
見ていた夢の記憶はすでに霧散していたが、何か不吉な感覚だけが、胸の奥にひっかかっていた。
カーテンの隙間から差し込む朝陽が、室内を眩しく照らしていた。
空は晴れ渡り、まるで世界全体を祝福しているかのような天気だ。
その光をまぶしそうに細めながら、陸斗は昨晩の出来事をゆっくりと思い返していた。
(確か・・・昨日は──)
⸻
『──要するにパラレルワールドへの干渉技術だ』
『・・・は?』
『すでに現世とは異なる並列世界の存在が確認されている。そして今、その世界に干渉するためのプログラミングを──』
『ちょっと待って!』
『・・・ん?』
『並列世界が確認されたって本当なの?
それに、そんなものに干渉って・・・衛星で?』
『・・・時空間の歪みについては知っているか?』
『うっすら。たしか、重力の影響で時間の流れにズレが生じるってやつだよね』
『その通りだ。宇宙では地上よりも時間が速く進む。それを説明したのが、一般相対性理論だ』
時空の歪み? 相対性理論? 何を言ってるのかさっぱりわからない。
『ごめん、私まったくわからないんだけど』
『大丈夫。母さんも理論までは理解していないわ』
『それ、大丈夫じゃねぇだろ・・・』
少しだけ安心した。どうやら自分だけが理解できていないわけではなさそうだ。
『それと並列世界と何の関係が──あっ、まさか!?』
『気づいたか』
ん?
『・・・いや、そんなバカな』
『ちょ、ちょっと!二人で納得してないで、ちゃんと説明してくれ!』
『そうだよ! そ、そもそもさ?相対論って何?』
『よし・・・じゃあ例を挙げてみよう。例えば僕が光速で進む宇宙船に半年間だけ乗って、陸斗が地球に残ったとする』
『なんで俺らを例にするんだよ』
『黙って、りっくん!』
『・・・』
『半年後に僕が地球に戻ってきたとする。その時、地球で生活していた陸斗はすっかり中年になっている。これを証明したのが相対性理論なんだ』
『その通り。さらに言えば相対論には──』
『『『???』』』
『父さん』
『ん?』
『それ以上話すと全員パンクする』
もうすでに遅い気もする。頭がオーバーヒートしそうだ。
『要するに、重力から離れれば離れるほど、時間の流れは速くなる。それが一般相対性理論』
『お、おう・・・で、その理論が何の役に立つんだ?』
『・・・そうだな、トランポリンを思い浮かべてみて』
『トランポリン?』
『そこにボウリングの球を乗せる。すると中央が凹むよな?』
『ふむふむ』
『その凹みによって周囲のネットが歪む。そしてその歪みは、場所によって異なる伸び方をする』
『つまり?』
『つまり、同じ高度でも、場所によって時間の進み方に差が生じる。それを地球全体に広げると、ある地点ではほんのわずかだけ歴史がずれていくことになる』
『じゃあ・・・違う歴史が並行して生まれるってことか?』
『そういうことだ。理論上では、時空の歪みが新たな選択肢と現実を生み出し続けている』
『要するに、簡単に言えば──
時空が歪む → 時間にズレが生じる → 本来とは異なる選択が起こる → 別の歴史が形成される。
その歴史ごとに存在する世界を、並列世界と呼んでいるんだ』
『な、なるほど?・・・信じがたい話だけど、とにかく実際に確認されたってことか』
『そういうことになる』
『それで、その並列世界に干渉するのはなんで?』
『向こう側から接触があった』
『え・・・!?』
『内容はこうだ──この世界に危機が迫っている。そして、それを助ける代わりに向こうの世界へ協力してほしい、と』
『危機!?な、内容は?』
『それは・・・わからない』
『父さんはいつからこのプロジェクトの存在を知ってたの?』
『最初から、だ』
兄も完全に混乱していた。
"『そ、それならなぜ父さんは手を引いたの?
いや・・・その前に “新事実”って、一体なんだったの?』"
『・・・そうだな。まずは、向こうの世界の正体について話そう』
陸斗は興味が湧いた。
並列世界、もう一つの地球──どんな世界なのか。
『干渉してきた世界は、もはや物語の中の“異世界”と言って差し支えない』
『異世界!?』
『並列世界は、地球の誕生以来、無数に生まれ続けている。
その中には、こちらの常識や法則が一切通じない世界も存在する。
物理も、文化も、言語も、時には生命の形すらも』
『でも、地球なんだろ? 同じ物質でできてるんじゃないの?』
『違う。例えば隕石や宇宙の塵、あるいは未知の物質が、ある時点で流入していれば?
そのわずかな違いが、全てを変えてしまうこともある』
『・・・なるほど』
『要するに、向こうの世界では、人が話すとは限らない。
言葉も文化も通じない。
そこでは重力すら、こちらとは異なる“理”で動いている』
『じゃあ、どうやって意思疎通を?』
『それが・・・最大の問題だった』
『これまでの話だと暁プロジェクトって、世界を救うためだったんだよね?
なんで父さんはやめたの?』
『言ったはずだ──俺は逃げた。
ただ、あのプロジェクトは・・・“害悪ではない”が、“すべてを善”とするわけにもいかない』
彰人の言葉に、誰もそれ以上問うことができなかった。
異世界、時空の歪み、並列する現実、そして世界の危機。
全てが真実なら、なぜ彰人はそのプロジェクトから身を引いたのか。
その答えだけが、どれだけ問いかけても返ってくることはなかった。
『・・・とにかく、全員、気をつけろ』
(気をつける・・・一体、何に?)
⸻
昨日の話は、あまりにも現実離れしていた。
裏山で交わされた不可解な会話、父の異様な様子。
だが朝になってみれば、まるで夢でも見ていたかのように、心のざわつきは薄れていく。
陸斗はいつも通り、兄の海斗とともに剣道部の朝練に向かっていた。
稽古に汗を流し、授業を受け、弁当を食べる。すべてが日常そのものだった。
まるで昨日の出来事が、幻にすぎなかったかのように。
午後の授業が始まる頃。
冷房の効いた教室。窓際の席で、陸斗はつい眠気に誘われていた。
そのとき──
窓の外に、一匹の黒猫が現れた。
のん。
陸斗が見間違えるはずがなかった。
(・・・なんで校庭に?)
兄に視線を向けようとした刹那。
今度は教卓の上に、のんがいた。
「うぉっ!?」
思わず立ち上がる陸斗。
教師の叱声が飛んだ。
「どうした五十嵐弟! 授業中だぞ!」
「す、すいません!」
慌てて着席しつつ、再び窓の外を確認する。
だが、そこにはもう何もなかった。
(・・・瞬間移動? いや、そんな馬鹿な)
そのとき、頭の中に直接響く声があった。
『掘り起こせ』
「えっ!? な、何!?」
突然の声に驚き、教室がざわつく。
「どうした!?」
「陸斗・・・?」
『今すぐ向かうんだ』
確かに聞こえる。
けれど、それは陸斗にしか届いていないらしい。
「・・・のん? お前なのか・・・?」
『早くしろ!!』
その瞬間──
廊下から激しい足音が響き、学年主任が教室に飛び込んでくる。
「陸斗! 海斗! 五十嵐そらがいなくなった!」
「「えっ!?」」
双子は同時に立ち上がり、迷うことなく走り出した。
「陸斗は裏山へ行け!」
「なんで!?」
「昨日、父さんの話の後から、そらの様子が妙に静かだった。もしかしたら何か知っていて、そこに向かったのかもしれない」
「・・・わかった!」
海斗は家へ。陸斗は裏山へ。
土を蹴り、駆ける。
昨日、異常な出来事が起きたあの場所へ。
そして、到着すると。
そこには、無表情で佇むそらの姿があった。
「そら・・・?」
返事はない。
瞳は虚ろで、生気がない。
「そら! しっかりしろ!!」
呼びかけにも応じない。
そして次の瞬間、そらの口から漏れた声は──
彼女のものとは思えない、異質な響きを帯びていた。
『・・・地は蠢き、空は赤く染まる。種は交わり、世は始まりを迎える』
「な、何言ってんだよ・・・!」
凍りつくような宣告が続く。
『正しき世界にて生命は存える。
産まれた資源は永久と成す。余は万物なり』
「ふざけんな! 目ぇ覚ませって!」
陸斗はそらの肩を掴み、必死に揺さぶる。
だが──その身体がふわりと宙に浮かび上がった。
「なっ・・・!?」
思考が追いつかぬまま、声が再び頭に響く。
『触れるな』
「ぐっ・・・!?」
不可視の力に弾き飛ばされた。
地面を転がりながら、衝撃に咳き込む陸斗。
『約束の刻限はとう過ぎた。代償を払うがいい!!』
その声とともに、そらの身体が糸の切れた人形のように崩れ落ちた。
「そら!!」
駆け寄った陸斗の声に、そらがか細く応える。
「・・・り、陸にぃ・・・?」
「よかった・・・! 大丈夫か!?」
「だいじょ、う──」
──ぱちん。
目を見開いたそらの顔が、急変する。
「大変だ・・・大変なの、お兄ちゃん!!」
「な、何が!?」
「これから! 街の人が! 次々に・・・暴れ始めるの!!」
「はあ!? なに言って──」
「いいから聞いて!!」
その剣幕に、陸斗は押し黙った。
「空が・・・光って・・・!」
直後、街の方角から騒ぎ声が届く。
誰かが争っている。それは現実だった。
「・・・もう、間に合わない・・・!」
「えっ?」
『何をしている! 早く掘り起こせ!!』
「の、のん!?」
その声に従うように、そらは迷うことなく地面を掘り始めた。
「ちょ、ちょっと待て! 一体何が──」
『お前は今すぐ、食べるんだ』
「お、おう・・・」
陸斗は箱を開けた。
父から託された角砂糖──いや、赤く脈打つように光るそれは、もはや別の何かだった。
今は、考えるよりも行動だ。
躊躇を振り払い、陸斗は角砂糖を口に放り込む。
その瞬間。
世界が、光に包まれた──
「ドガアアァァァン!!!」
轟音、爆風、そして世界の変容。
すべての始まりだった。
⸻
「ぬあああああああっ!!」
叫び声とともに、陸斗は跳ね起きた。
息は荒く、額からは滝のような汗が流れ落ちていた。
全身に鳴り響く鼓動が、強烈な警鐘となって意識を揺さぶる。
視界はぼやけ、現実との接点が掴めない。
「ど、どうなって・・・っ」
混乱の中、部屋の扉が勢いよく開かれた。
「どうした!?」
「陸にぃ、大丈夫!?」
駆け込んできたのは、兄と妹だった。
その顔を見た瞬間、陸斗の中に現実が押し寄せた。そらが生きている。目の前にいる。夢じゃない。
その衝撃が、胸の奥を大きく揺らした。
(そらが・・・生きてる? 俺も・・・?
ゆ、夢、だったのか・・・?)
安堵と混乱が一気に押し寄せ、陸斗の感情が決壊する。
「そ、そら・・・よかった・・・!」
嗚咽が喉を突き上げ、涙が頬を濡らす。身体の震えが止まらない。
「り、陸にぃ・・・」
そらは何も言わず、陸斗の手を握りそっと背中をさすった。海斗がカーテンを引くと、朝の光が室内に差し込んできた──その瞬間。
「うわあっ!!」
強烈な光が、爆発の記憶を呼び覚ました。息が詰まり、視界が暗転する。過呼吸だ。
「陸斗!? 大丈夫か!?」
「救急車呼んだ方がいいかも・・・!」
口を開こうとしても、声が出ない。
「そ・・・」
「待ってて!!」
(落ち着け・・・落ち着け、俺)
陸斗は意識を無理やり静め、ゆっくりと深呼吸を繰り返す。
フーー……スーーー……フーーー……
「そら、大丈夫だ。俺は・・・大丈夫だ」
「で、でも・・・」
「大丈夫だって言ってる」
「・・・わ、わかった」
光を浴びたことで、大爆発の記憶がフラッシュバックしたのだろう。
夢だと、自分に言い聞かせる。
だが、部屋の外からじっとこちらを見つめている“のん”の視線だけは、現実味を帯びすぎていた。
三兄妹しかいないはずの家に広がる違和感。その不安を拭うため、陸斗はグループトークアプリ〈ポイント〉を確認した。
その不安を拭うため、陸斗はグループトークアプリ〈ポイント〉を確認した。
父・彰人の「裏山に行ってくる」というメッセージがあり、少しだけ安堵する。
準備を整えた三人は、学校へと向かった。
登校中、陸斗の頭の中は混乱に包まれていた。
夢と現実の境目を探すように記憶をなぞるが、答えは出ない。
教室に着いても、朝練でも、授業でも、昼休みでも──
夢のことばかりが頭を離れなかった。
息遣い、温度、感情。あまりにもリアルで、生々しい。夢とは思えなかった。
ただ一つ、“のん”が姿を見せなかったこと。
それだけが、現実との境界を証明する数少ない要素だった。
(やっぱり、あれはただの夢・・・なのか)
そのとき──
『只の夢ではないのう』
脳内に直接語りかけるような声が響いた。
「うあぁっ!?」
「えっ、どうしたの?」
「陸斗くん、大丈夫?」
「何、何? 何かあった?」
周囲のざわめきも耳に入らない。
陸斗は、恐る恐る窓の外を見た。
そこに、“のん”がいた。
「なんで・・・いるんだよ・・・」
『お前が見たのは予知夢じゃ』
「はぁっ!? 予知夢!?」
『この後、どうなるかは分かっておろう。今すぐ──向かえ!』
「ふざけんな・・・」
教室がざわつく中、陸斗はまっすぐ兄・海斗を見据えた。
「兄貴・・・たぶん、そらが今、裏山にいる」
「・・・は? なんでそう思うの?」
「予知夢を見た。そして、それが現実になってきてる」
「・・・ど、どういう──」
「とにかく!
俺は裏山へ行く。
兄貴は家に戻って、親父たちと合流してくれ!」
一瞬の沈黙。
そして、海斗は頷いた。
説明なんていらない。
双子だからこそ、信じられる何かがある。
教師の制止も聞かず、二人は教室を飛び出した。
電車を乗り継ぎ、自転車で全速力で走り、やがて分かれ道にたどり着く。
「俺はこのまま裏山に行く!」
「わかった。何かあったらすぐ連絡して」
「了解。それと・・・」
「ん?」
「あれ、食べておいた方がいい」
「・・・わかった」
「死ぬなよ、兄貴」
「陸斗も・・・必ず、生きろ」
⸻
裏山の入り口に、そらの自転車がぽつんと置かれていた。
(・・・やっぱりだ!)
全身に警鐘が鳴り響く。
「そらっ!!」
走った先で、そらが泣きながら地面を掘っていた。
「そらああああっ!!」
陸斗はそらを抱き止めた。
「陸に゛ぃ・・・」
「何があった?」
「えっと、授業中に寝ちゃって・・・夢の中で・・・」
「・・・予知夢、か」
「っ・・・!?」
驚いたそらの目に、恐怖が浮かぶ。
「俺も、今日見た。ついさっき予知夢だったって気づいたばかりだけどな」
「ど、どうすれば・・・」
「あ・・・あれ!チョーカーをつけろ! その間に俺が掘る!」
「う、うん。海にぃは?」
「家に向かってる。親父たちと合流予定だ」
「そっか・・・よかった!」
⸻
一方その頃、海斗は自宅の目前で足を止めていた。
玄関前に、じゅらがいた。
しかも──喋っていた。
『──いと!海斗!!
急いでよ!!!』
「ど、どういうこと──」
『いいから早く!
〈原初の結晶〉を飲みなさい!!』
「マ、マテ・・・?」
『角砂糖よ!!』
「あ、う、うん!!」
海斗は箱から角砂糖を取り出した。
異常なほど黄色く光り輝いてる角砂糖をビクビクしながらなんとか飲み込んだ。
「お、おえ」
『飲んだら、早くパパ達のところへ向かいなさい!!』
「わ、わかった」
(な、なんでじゅらが喋ってるんだ?)
そんな疑問も浮かんだが、とにかく今は異常な事態なんだと認識せざるを得ない。
胸の奥がざわつく。この感覚・・・陸斗が危機にあるときの、双子ならではの直感だ。
(陸斗が危ない・・・!)
海斗は急いで家に駆け込んだ。
扉は開け放たれ、家の中から異様なオーラが漏れていた。
中に入ると、両親──彰人とみさとが、床に倒れていた。
「父さん!? 母さんっ!!」
反応がない。脈も、心音も・・・止まっていた。
「なんなんだよ、これ・・・!」
『落ち着きなさい。まだ死んではいない』
「し、心臓が止まってるのに!?」
『一時的に“停止”してるだけ』
直後、二階の陸斗の部屋から、破裂音のようなものが聞こえた。
だが、じゅらが進路を遮った。
『行ってはダメ!』
「なんで!? そもそも君は何者だよ!? じゅらに憑依してるのか? それとも最初から──」
『ごめん。説明してる時間はないの』
「どういうこと?」
『これから・・・大災害が起こる。そして、貴方は──』
──死ぬの。
その言葉が、鼓膜ではなく、心臓を直撃した。
⸻
その頃、陸斗は裏山の斜面で、ようやく父・彰人が埋めた“それ”を掘り起こしていた。
「ったく・・・掘らせるなら、もう少し掘りやすくしておけっての・・・」
『愚痴を言っておる暇はないぞ』
「わかってるよ! で、次は?」
『〈原初の結晶〉──マテリアルキューブを今すぐ体内に取り込め』
「・・・は?」
『角砂糖だ! 飲み込め!』
「あ、あぁ?」
言われるがまま、陸斗は手にした角砂糖サイズのキューブを口に運ぶ。
夢で見たあの光景と同じだ。キューブは強烈な光を放ち、彼の口内で微かに震えた。
陸斗は目を閉じ、勢いよく喉の奥へ流し込む。
『次だ。箱を開け、中の物を掴め』
指示に従い箱を開けると、中にはテニスボールほどの透明な水晶が収まっていた。
「・・・なんだこれ」
「・・・綺麗──」
手に取った瞬間、意識が白く塗りつぶされる。
真っ白な世界──いや、世界に“いた気がした”だけだった。
一瞬、完全に意識が飛んだのだ。
脳震盪にも似た症状が引いてくる。混濁した意識が徐々に現実へと戻る──
──が、そこにいるはずの人物の姿がない。
「そ、そら!?」
喉を震わせて叫ぶ。
「そら!! おい!!」
(待て、待て、待ってくれ・・・そんなはずはない、こんな冗談、嘘だと言ってくれ!)
「そらってば!!! いるなら返事しろよ!!」
必死に名を呼び続ける陸斗の耳に、遠く街の方角から怒号が聞こえてくる。
駅前では誰かが「世界の終末が来るぞ!」と叫び、通行人たちは冷ややかな目で通り過ぎる。
空に伸びる一筋の光を見上げて、「ねーねー、見てみてー!綺麗だね!」とはしゃぐ少女の姿もあった。
そのすぐ近くにずっと探していた姿があった。
「なんでそこにいんだよ!!!」
即座に駆け出す。考える暇はない。
(何をすべきかも、どうすればいいのかもまだわからない・・・。
だが、傍にいれば──守れるかもしれない。
いや、守る。絶対に、守り抜いてみせる)
「そら!!」
間近まで迫り、声をかける。
しかし──
「・・・?」
振り返った少女の顔を見て、陸斗は言葉を失った。
──全然違う子だった。
「・・・どこだよ・・・? どこにいるんだよ・・・」
視界が揺れる。思考も言葉も崩れかけたその瞬間、世界が白に包まれた。
まばゆい閃光が、辺り一帯を照らし出す。
一瞬の光の筋。
それを目にした人々の心は、まるで時が止まったかのように引き込まれ、その一瞬が千代にも八千代にも感じられたという。
その光──隕石は、放物線を描くように先ほどまで陸斗がいたところへ消えたかに思えた。
「・・・え?」
ドガアアアアアァァァン!!!
裏山に隕石が直撃。
数秒遅れて音が届いた。
風が唸り、大地が揺れ、爆音が空気を裂く。
街の歩道では子どもが泣き叫び、駅前広場では複数の人々が地に伏し、悲鳴が飛び交った。
ビルの窓ガラスが粉々に砕け、破片が空を舞い、あちこちで赤い飛沫が咲く。
しかし、人々はまだ──何が起きたのか、理解できていなかった。
陸斗もその余波で吹き飛ばされ、頭を激しく打ち、地面を転がる。
額から血が滴り、意識が遠のいていく。
(そら・・・どこ・・・? いなかった・・・いたはずなのに・・・)
混濁した意識の中、陸斗はゆっくりと地面に手をついた。
意識が少しずつ戻っていく。
(そらはここにもいなかった・・・)
呼吸を整え、立ち上がり、よろめきながら一歩を踏み出す。
そして──次の隕石が、街に落ちた。
ドオオオォン
群衆がようやくそれを”危機”だと理解した。
逃げ惑う声が響き、地面を蹴る足音が街に満ちる。
火球が空を舞い、人々は恐る恐る上を見上げた。
──空が、真紅に染まっていた。
まるで世界そのものが燃え尽きるかのように。
誰かが呟いた。「もう・・・だめかもしれない」
それは希望の喪失だった。
その場にいた全員が、人生を諦めるほどの絶望を感じた。
人々はもはや神に祈ることしかできなかった。
言葉が失われ、静寂が街を包んだ。
この現象は、日本国内にとどまらず、世界各国で同時に観測されたという。
そんな中──ただ一人。
陸斗だけは、足を止めなかった。
周囲で車が吹き飛び、火のついたガレキが落ち、人の腕が転がる。
瓦礫に押し潰された叫びがあちこちで上がる。
あらゆる悲鳴が空気を震わせる中で。
何度倒れようとも傷で血だらけになった身体で、彼は駆けていた。
(ここにそらはいなかった!
っていうことは──
くそ!違っててくれ!!)
その背には、何もなかった。
希望も、光も、誰の声も届かない。
そして──かつてそらといた場所へ、戻ってきた。
だがそこは、もう別の世界だった。
木々は薙ぎ倒され、山肌がえぐれ、黒煙が立ち上り、地面は焼け焦げている。
まるで、空そのものが怒りに満ちて地上を罰しているかのようだった。
「そら・・・!! そらぁーーーーーッ!!!」
肺が裂けそうになるほど叫んだ。
喉が潰れても叫び続けた。
血が逆流しそうなほど、必死に名前を呼び続けた。
だが。
視線を落とした先に──それは、あった。
「・・・これ・・・そらの・・・」
手にしたのは、チョーカー。
父・彰人が、そらのためだけに作った、世界に一つだけのもの。
(うそ、だろ・・・?
なんで、ここに・・・?
外れた・・・のか? いや・・・)
「お、おいそら!
サプライズなら、もうやらなくていいからな!
二日続けて引っかかるわけ、ないだろ・・・!」
(・・・ちがう。これはそらのじゃない・・・!
そらのは・・・こんな、こんな風な感じじゃなくて・・・)
「そら・・・?
卒業したら、旅行行くんだろ・・・?
約束したろ・・・?」
言葉とは裏腹に、涙が止まらなかった。
心が、叫んでいた。
「頼むから、返事してくれよ!!」
だけど、返事はなかった。
頭では認めていた。
これが、確かにそらのチョーカーだということを。
「そらああぁぁァァ・・・」
──どうして、離れてしまった?
「ァァアアアアア・・・!」
──どうして、守れなかった?
「アアアアアガガガガギィィィ!!!!」
──何が、いけなかった?
「ウガアアアアアアアアア!!!!!!」
──どうして? なぜ?
──オレが・・・
──無力だったからか?
──プツン──
理性が崩壊した。
心が砕けた。
陸斗は、陸斗でいられなくなっていた。
地面に頭を打ちつけ、拳で顔を殴り、髪を毟り──
天を仰いで、ただ、咆哮した。
そして。
ズォォオオ・・・
その目の前に、直径100メートル級の隕石が、ゆっくりと・・・しかし確実に、落ちてきた。
「ウオオオオオオオオオオオ!!!!」
バゴオオオオォォォン!!!!!!
⸻
ピー・・・
《身体の再構築・・・完了しました》
電子音が脳に直接響いた直後、陸斗の意識がゆっくりと浮上し始めた。
(・・・ん?)
霧の中から思考が立ち上がる。
まばゆい光がまぶた越しに差し込み、彼はおそるおそる目を開けた。
「・・・俺、生きて・・・?」
ガバッと身を起こした瞬間、視界に広がったのは見知らぬ森の風景だった。
「な、なんだここ・・・?」
確かに最後の記憶は、裏山での爆発だった。
だが、ここはあの場所ではない。明らかに異なる。
(・・・あんな爆発を喰らって、生きてるわけが・・・)
疑念を抱きながら、自身の身体に意識を向ける。
静まり返る胸元。
心臓の鼓動が感じられない。
(まさか、俺・・・死んだのか?)
しかし、手足は動く。意識も明瞭。目に違和感はあるが、爆発の後遺症だと考えた。
それよりも、今は──
(腹が・・・減ってる。喉も渇いた・・・)
空腹と渇きが、生の実感を強く訴えてくる。
(・・・じゃあ、生きてる・・・のか)
納得しきれぬまま、ふらつきながら立ち上がる。水を探し、足を引きずるように歩き出した。
だが、目に飛び込んできたのは、文明の気配など一切ない、原始の森だった。
(・・・ここ、裏山じゃない。どこだ、ここ・・・?)
状況が飲み込めぬまま、陸斗は無意識に走り出した。
帰りたい。日常に帰りたい。ただそれだけを胸に、森を駆け抜ける。
そして──
ようやく小川のせせらぎを耳にし、足を止める。
水面を覗き込んだ瞬間、彼の全身に戦慄が走った。
(・・・誰だ、これ)
映った顔は、確かに自分だった。
だが、角が額から突き出し、牙が口元に覗き、耳は長く尖っている。
人間の面影は、ほとんどなかった。
爪は鋭く伸び、肌はざらつき、まるで岩肌のように硬質化している。
「う、うわあっ!! なんだよこれっ!!」
理性が混乱を抑えきれない。
(こんな・・・こんなはずじゃ・・・)
そのとき、心に浮かんだ名前。
(・・・そら。そらは・・・!?)
「そらあああああああっ!!!」
咄嗟に叫ぶ。だが、返ってくる声はない。
思い出すのは、隕石が着弾する前、彼とともにいた小さな妹の姿。
(・・・あの隕石に・・・)
罪悪感、怒り、絶望が一気に押し寄せる。
──俺のせいなのか?
──誰を憎めばいい?
──どうすればいい!?
──誰か、何か教えてくれ!!
「誰かいるんだろ・・・?
頼むよぉ・・・」
わかってたのに誰も救えなかった。
「頼むからよお!!!」
知っていたのに何も変えられなかった
「誰か出て来てくれよ!!!!」
そしてそらを失った。
叫びは空へと吸い込まれるだけだった。
誰も応えてはくれなかった。
分かっていたはずなのに、何もできなかった。
今感じることは、知らない世界で孤立したという恐怖だけ。
その時だった。
背筋に“殺気”が走る。
反射的に横へ跳び、受け身を取る。地面に転がりながら振り返ると、そこには──
体高2メートルはあろうかという巨大な獣がいた。
(な、なんだこいつ・・・!?)
毛むくじゃらの白い巨体。
まるでナマケモノと白熊を掛け合わせたような異形。
その名が、視界の端に機械的な文字で浮かび上がった。
〈暴走した白熊〉
長い体毛、異様に伸びた手足、しなる尻尾。
バキィッ!!
その巨体が、目の前で木を握り潰した。
「・・・ちょうど・・・いい──」
陸斗の瞳が、殺意に染まる。
抑えきれぬ怒りと憎しみを、ぶつける標的が目の前にあった。
「ぶっ殺してやる・・・このクソ野郎がぁああああっ!!!」
怒声と共に拳を振り上げ、跳びかかる──
だが。
ドガッ!!
返ってきたのは、白熊の鋼鉄のような腕による反撃。
地に叩きつけられ、肺から空気が抜けた。
「・・・がっ・・・あぁ・・・」
血を吐き、立ち上がる。歯を食いしばり、拳を振るう。
だが、何度殴っても手応えはない。
まるで岩を相手にしているかのように、傷一つつかない。
「どうすりゃいいんだよっ!! ふざけんなあああ!!」
白熊が咆哮した。
「グオオオオオッ!!!」
バゴォォン!!
「ガハッ・・・!!」
吹き飛ばされ、地面に転がる。
立ち上がることすら難しい。意識が遠のく中──
白熊が、陸斗にとどめを刺すべく腕を振り上げた。
(・・・これまでか)
目を閉じた、その瞬間。
ズパアアアッ!!!
空を裂くような斬撃音。
陸斗は目を開けた。
そこには──
真っ二つになって崩れ落ちる白熊の残骸。
「な、なに・・・? 何が・・・起きた・・・」
その答えは、血煙の向こうから現れた。
大剣を背負い、タンクトップ姿の筋骨隆々とした男。
異国風の顔立ち。鋭い視線。どこか人間離れした威圧感。
「あ、ありがとう・・・!」
陸斗がそう口にしたが、男の言葉は理解できなかった。
ただ、無言でジェスチャーを送る。ついて来い、と。
陸斗は頷き、黙ってその背を追った。
やがて森を抜け、石畳の道が現れた。
そこに広がっていたのは──
中世ヨーロッパのような街並みだった。
石造りの家々、露店、鎧姿の人々。
活気と異質さが混在する、幻想的で非現実的な世界。
(まさか・・・転生・・・? 並列世界・・・本当にあったのか・・・)
文明の違いが明らかだった。
中心には威風堂々とそびえる五階建ての建物。
その前で、先ほどの男が再び肩を叩いてきた。
『~~~~~~!!』
意味は分からない。
だが、怒っていることは伝わる。
「す、すみません・・・」
街を歩くうち、陸斗はある“違和感”に気づき始める。
一つ。異様なほど視線を感じる。冷たい、突き刺すような視線。
二つ。人々が“違う存在”を虐げている光景。
角や羽の生えた子供が、上級者らしき者に蹴られ、叱責されても、誰一人として止めに入らない。
(・・・嫌な予感がする)
だが、それでも彼の心には──小さな希望が残っていた。
(俺が生きてる。
なら、そらも・・・生きてる可能性はある)
その一縷の望みにすがるように、街を進みながら考える。
だが──
彼がようやくたどり着いた真実は、残酷だった。
ここは、異世界。
自分は、バケモノの姿。
そしてこの世界では──
人型のバケモノは、奴隷として扱われる存在だった。
陸斗はこの異世界で──
バケモノとして。
そして、奴隷として。
新たな人生の幕を開けた。