ep.0 家族のはじまり
[ 西暦1997年7月 東京 某大学 ]
強い日差しが照りつける中、男は微動だにせず立ち尽くしていた。
日陰に避難する様子もない。
(どれほどの時間が過ぎた?
・・・いや、実際には数分も経っていないだろう。
なるほど、人は想定外の事態に直面すると、体内時計が狂うものらしい。
これは──ジャネーの法則?
・・・いや、違うな。
例えるなら、車に轢かれそうになった瞬間のようなものか。
・・・実際に轢かれたことはないが、視界に入った車が、ゆっくりと迫ってくるように見える。
あの感覚に近い。
以前読んだ論文に、危機的状況で時間が引き延ばされる現象があった。
走馬灯のような記憶の再生と絡めて解説されていたが、今の自分の状態も、それに近いのかもしれない。
いや、もしかしてこれは脳の錯覚?
緊急時にアドレナリンが分泌されて認知速度が上がるってやつか?
・・・って、今はそんなことはどうでもいいんだって)
彰人は理性的であろうと努めていたが、思考はまとまらず、状況の整理も追いつかない。
命の危機にあるわけではない。
だが、明らかに時間が遅く感じられていた。
後の時代、この感覚は「タキサイキア現象」と呼ばれるが、当の本人に知る由もない。
思考の暴走は混乱の証左だった。
なぜ、こんなことになっているのか──
[ 東京 某所 自宅 ]
いつもの朝。彰人は静かに目覚めの瞬間を迎えていた。
朝5時前。カーテン越しの隙間から差し込む陽光が、ゆっくりと彼の顔を照らす。
揺らめく光はまるで小さな妖精たちが戯れるようで、眩しさに目を細めながらも、心地よさに包まれて意識を覚醒させていく。
起床後はスムーズに支度を整え、朝食の準備に取りかかる。
パンを焼き、ベーコンをフライパンでカリッと仕上げ、卵と共にトーストへ。
マヨネーズ、塩、胡椒、そしてチーズを惜しみなく乗せてオーブンへ入れる。
焼き上がりを待つ間、彼は論文『大災害時における人間の行動心理』に目を通す。
香ばしい香りが漂い、やがて朝食が完成。
満足げに味わい、インスタントコーヒーを添えて一息つく。
新聞に目を通し、散歩と軽い運動をこなしてからシャワーを浴びる。
クラシック音楽を聴きながらの読書で締めるまでが、彰人のいつものルーティンだった。
やがて母親が慌ただしくリビングに駆け込み、父を起こす。
時計はまだ7時30分。
本日の講義は10時30分から。彼は「30分前行動」を信条としており、移動時間を考えても、まだ2時間ほどの余裕があった。
準備を終えた彰人は、実家を出てネットカフェへ向かった。
ここ数年で話題となりつつあるネットカフェは、インターネットが自由に使える空間として注目されていた。
彼の目的は、その中でも「人工知能」についての情報を集めることだった。
だが、記事はAIの可能性に懐疑的な内容が多い。
自由な判断ができない、限られた処理しかできない──そういった否定的な論調に触れつつも、別の記事では期待を寄せる論文も目にした。
ふと時計を見ると、すでに9時40分。
会計時に小銭をばら撒きつつ慌てて店を出た。
電車の遅延、切符の紛失──いくつかのトラブルを経て、なんとか大学前へと辿り着く。
そして現在に至る。
10時10分。
いつもの「30分前行動」は崩れたが、まだ講義開始までは余裕があった。
朝の完璧なルーティンのおかげで心のゆとりも・・・あるはずだった。
だが今、どちらの余裕も消え去っていた。
すべては──中庭で目にした「彼女」が原因だった。
校舎へ向かう途中、中庭を通った際、彰人の歩みが徐々に鈍くなり、やがて完全に止まった。
そもそも彼は「遅刻」が許せない性格だった。どんなに些細な予定でも、時間を守ることに強いこだわりを持っていたのだ。
首席合格者としての自負もあり、遅れなど論外。
日常のトラブルに備え、ルールに則った行動を徹底してきた。
それが今は、まるで歯車が狂ったかのように機能していない。
動けない。
拭うこともできない汗が背を伝う。
どうしてここで立ち止まっているのか──問いは脳内で反響し続けた。
だが彰人には分かっていた。
本能で。
──彼女が、そこに「いた」からだ。
空を遮るものもない猛暑の中。
パラソルの下、丸テーブルに腰かけ、ノートを広げる一人の女性。
最初はただの違和感だった。
この陽射しの中、なぜ中庭に?
後に聞けば、校舎の一部が工事中で教室が使えず、やむを得ず中庭での作業となったという。
だがそのときの彰人に、そんな事情を知る術はない。
数秒後、その違和感は──興味へと変わった。
そして彼の足は、完全に止まった。
彼女の姿に、視線が吸い寄せられた。
ストレートの黒髪を耳にかけ、真剣にノートへと向かう横顔。
誰かに挨拶するたび、ふわりと笑顔が生まれ、頬には愛らしいえくぼが浮かぶ。
陽射しに透けるような白い肌。
控えめなシルエットと、服越しにも伝わるしなやかな身体のライン。
彼女を見た瞬間、彰人の時は止まった。
蝉の鳴き声も、周囲の雑音もすべてが遠のく。
頭ではなく──心が先に理解していた。
胸が締めつけられるような、けれど温かくなるような不思議な感覚。
まるで長い旅路の果てに、ようやく辿り着いた場所のような──
これは、運命だ。
運命の人と出会ったんだ、と。
気がつけば、二人は見つめ合っていた。
彼女の瞳は、印象的な青みがかった二重。大きく澄んだその瞳は、一度見たら忘れられない魅力をたたえていた。
普通なら、女性と目が合えば逸らしてしまうはずだった。
だがその美しい瞳から目を逸らすことは、あまりに惜しく感じられた。
やがてその瞳が、ぐっと近づいてくる。
「どうかしましたか?」
その声は、人の心にまっすぐ届くような、透き通った美しさがあった。
まるで周囲の喧騒すら一瞬で静めてしまうようなカリスマ性に満ちている。
「あのー、大丈夫ですか?」
少し困ったように見上げる彼女からは、ふんわりと優しい香りが漂っていた。
「あの」
「・・・?」
「人の話、聞いてます?」
「・・・はい?」
「大丈夫かって聞いてるんですけど!」
「は、はい!!!」
(び、びっくりしたー・・・!)
彰人は思わず取り乱し、声を上擦らせた。
冷静に考えれば、黙って見つめられることが不快に感じられるのは当然のことだ。
だが、だからといって初対面で怒鳴るとは、随分と気が強い。
けれど、「何か用ですか?」と問われても、答えに窮してしまう。
見惚れていた、それだけなのだから。
(・・・違う)
出会ったのだ。
そう確信していた。
今この瞬間を逃してはいけない。伝えなければならない。
もちろん、データとして証明できるものなど何もない。
だが、彰人は彼女の中に、言葉では決して表せない何かを感じた。
理屈では説明できない。
(全細胞が叫んでる・・・。何が何でも、この人と繋がれって)
彰人はどう切り出せばいいのか思案した。
十八年間、学問と読書に明け暮れてきた彼には、女性との接点などなかった。
だからこそ、声のかけ方一つわからなかった。
──トクン…トクン…
(ん? なんの音だ?)
──バクン…バクン…
(まさか・・・心臓の音か!?)
尋常ではない鼓動。
こんな激しい音、今まで聞いたことがなかった。
(おいおい・・・冷静になれ。どんなトラブルでも、冷静さを失わなければ・・・)
──バクバクバクバク!!
(ぬおああああ!!! 無理無理!! 落ち着け、自分!)
これまで数々の危機を乗り越えてきた知識と経験を総動員し、彰人は合理的な言葉を選ぼうと努力した。
「あ、あの・・・? だいじょ──」
「結婚してください!!」
「・・・え?」
・・・。
視線が集まる。
(いや、今、何て・・・?
け、結婚してください・・・!? えええええ!?!)
「あ!いや、今のは──」
「なんで?」
返ってきた言葉に、思考が止まる。
なぜって・・・そんなもの、決まっている。
「君に運命を感じた、から・・・」
「そ、そう・・・お名前は?」
「あ・・・えっと、い、五十嵐・・・彰人、です。・・・い、いち、今年一年です・・・」
口元がわずかに震えていた。
彼の声は、ぎこちなくも誠実だった。
「私は金森みさとと申します。同じく、今年入学しました」
何故か、胸に引っかかる。
説明できない、違和感のようなもの。
「その・・・いきなり、プロポーズされるのは、初めて、かな・・・」
「そ、それは、失礼いたしました・・・」
しかし、彼女は拒絶しなかった。
むしろ、その頬はわずかに紅潮していた。
──トクン
「びっくりしたけど、私もおかしいみたいです」
──トクン
「え?」
──トクン
「私もあなたに、何かを感じる」
──ドクン!
きっと、この瞬間だった。
二人の運命が動き始めたのは。
何もかもが静まり返っていた。
蝉の鳴き声も、人々のざわめきも確かに耳に届いている。
それなのに、不思議なほどの静寂が心を包む。
まるで〈世界〉が二人だけを閉じ込めたかのように。
まるで〈世界〉が二人を祝福しているかのように。
まるで〈世界〉がこの瞬間を待っていたかのように。
「不束者ですが、よろしくお願いいたします」
「あ・・・よ、よろしくお願いいたします」
足は自然に動いていた。
出会ってすぐにプロポーズ。そして、それを受け入れる。
常識で考えれば、到底あり得ない。
だが、この二人にとっては、それが何よりも自然だった。
彼女の瞳、声、香り。
出会ったその瞬間から、彼はその全てに恋をし、愛していた。
その後、二人は親の反対を押し切り、アパートを借りて同棲を始めた。
四年間の大学生活を共に過ごし、卒業後に結婚。
彰人は大手IT企業でプログラマーとして働き、みさとは専業主婦として家庭を支えた。
結婚してからも毎週のようにデートを重ねた。
みさとの頬には、いつも笑窪ができていた。
気が強く、負けず嫌い。
それでもどんな時も明るく、献身的に彼を支えた。
二人の生活には、笑顔と温かさが満ちていた。
そんな幸せな日々が二年続いたある夜。
キッチンに立つみさとの様子が、どこか落ち着かない。
ソファでテレビを見ていた彰人に、みさとは言った。
「あきくん・・・話があるの」
「・・・何?」
その口から告げられたのは──
新しい命を授かった、という知らせだった。
喜び、不安、そして恐れが入り混じる彼女の表情。
彰人は言葉を失い、ただ涙を流していた。
伝えたい想いは山ほどあったはずなのに、言葉は出てこない。
代わりに、彼はみさとを強く抱きしめた。
二人で頷き合いながら、声をあげて泣いていた。
そして翌年の七月。
あのプロポーズの日と同じように、蝉の鳴き声が響く中──
みさとは一卵性の双子を出産した。
彼女の腕に抱かれた赤子たち。
朝日の光に照らされたその姿は、まるで聖母のように神々しく、
その美しさと感動に、彰人はただ涙を流すことしかできなかった。
さらに二年が経ち、長女が誕生し、五人家族となる。
彰人は心に誓った。
(何があっても、守ろう。
家族だけは、必ず守り抜こう)
振り返れば、奇跡のような連続だった。
出会ってすぐのプロポーズ。
結婚、三人の子どもたち。
仕事でも結果を出し、信頼を勝ち取り、責任ある地位へと昇り詰めた。
幸せ。
そう、確かに幸福だった。
完璧なはずだった。
──あんなプロジェクトに参加しなければ。
娘が生まれてから、十四年後のことだった。
彰人は──
家族を・・・守れなかった。