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第8話 賤ケ岳の戦い(中編)

 そして月は変わり、四月十六日。


 急報が秀吉の元に届けられていた。

 降伏していた織田信孝が一益に呼応して、再挙兵したのである。


 さらに武田景頼がこれを支援すべく、信濃より美濃に侵攻。

 信孝は一気に岐阜へと兵を進め、これに対抗するために秀吉は朝倉勢と対峙する自軍から兵を分け、自ら岐阜城へと向かった。


 十七日には美濃に入った秀吉であったが、折しも揖斐いび川が氾濫。進路を遮られ、美濃大垣城で足止めとなる。

 この情報をいち早く掴んだのが、勝家の与力であった佐久間さくま盛政もりまさである。


 岐阜城を秀吉に落とされた際に、盛政や前田利家といった勝家の与力であった将の一部は、これを良しとせずに美濃に潜伏し、機を伺っていたのであるが、その盛政に秀吉が大垣城に入ったことを伝えたのが、利家だった。


 ところがこの時すでに、利家は秀吉の調略を受けており、勝家を裏切っていたといえる。

 その利家から情報を得た盛政は集められるだけの手勢を率い、勝家本陣へと駆け込み、合力を願い出て先制攻撃を提案した。


「今こそ攻め時。敵は少数なれば、各個撃破の好機と心得る」


 盛政は勝家麾下の中でも特に勇将で知られた武将だ。

 その武勇は勝家すら認めるところで、その勇猛さから鬼玄蕃おにげんばと称されてもいた。


「総大将が離れたとなれば、士気も下がる。盛政の申す事、試す価値もあるとは思うが、如何思われる」


 盛政の参陣により力を得た勝家は、景実へと出陣の是非を問うた。

 この軍勢はあくまで朝倉勢であり、総大将は堀江景実であって、勝家の一存で決められるものではない。


「確かにまたと無い好機。が、大垣城は美濃の入口であり、遠方とはいえぬ。深入りは禁物とも思うが」

「げにも」


 勝家もまた同意する。


「中国大返しなどと巷では呼ばれているようだが、秀吉は足の速い戦も得手であることは弁えておく必要があるだろう。まずは敵の大岩山砦のみを攻め、結果如何に関わらず速やかに引き揚げて様子を見る、というのは」

「それならば賛成いたす」


 景実も賛意を示し、にわかに作戦が練られることになった。

 この戦、決戦に持ち込み一気に勝利を得る必要は、実はない。


 まずは織田家による美濃の奪還。

 これが戦略的な目的である。


 そして現在、その美濃を目指す軍勢は、織田信孝と武田景頼の二方面からなり、加えて景実や勝家の率いる軍勢を含めて三方面と、決して不利な情勢ではないのだ。


 織田家中の分裂は気になるところではあるものの、この機に秀吉方の者どもを一気に排斥できるのであれば、勝家の織田家における発言力はさらに増し、それと縁続きになる朝倉家にとっても都合がいい。


 景実としては負けないように戦い、秀吉を近江に引き付ける。

 その間に美濃奪還をなしてもらえばいいのだ。


 秀吉とて近江を平定しているわけではないので、美濃に首を突っ込みすぎていては退路を断たれる可能性を考慮しなくてはならず、じっくりとした戦いはできないだろう。


 景実は朝倉家中おいて、合戦経験も豊富な良将である。

 色葉も景実をよく用い、景実もよくこれに応えていた。


 が、それでも勝家らのような猛将というわけでもなく、自らの武勇を頼みにするような戦い方をとることはない。

 それは誰よりも勇猛であった色葉自身が、真正面からの決戦を好まなかったからである。


 色葉は常に軍の運用をもって敵を欺き、囮を用いて敵を自軍の有利な場所へとおびき出した上で、それを包囲殲滅する策を用いることが多かった。


 それはうまくいったこともあるし、いかなかったこともある。

 が、色葉自身が自ら指揮した戦で敗北は、ない。


 かつて上杉謙信と戦った神通川の戦いなどでは、朝倉方の完敗となり、色葉自身も九死に一生を得るほどの重傷を負ったものの、あれは敗戦を承知で望んだ戦でもあった。


 そしてあの戦のおかげで景実は色葉に評価され、乙葉にも好意をもたれるようになり、徐々に信任されるようになって今の地位にあるといっていい。


 とにかく今、決戦を急ぐ必要は無いのである。

 雪解けも進み、兵站も確保されている。


 越前は色葉の経済政策のおかげで繁栄しており、銭や兵糧も事欠かない。

 十分に長期戦を戦えるのだ。


「よいか盛政。先鋒を任すぞ」

「お任せあれ!」


 先陣は柴田勝家がこれを受け、佐久間盛政に先鋒を任せてまず中川なかがわ清秀きよひでの守る大岩山砦への攻撃が敢行された。

 これは四月十九日のことである。


「来たか」


 大岩山砦を守る中川清秀は、元は荒木あらき村重むらしげの家臣である。

 村重が織田信長に対して謀反した際にいったんは同調したものの、結局これを見限って信長方についた経緯があった。


 その後秀吉が謀反し、清秀はこれに従ったため、村重とは同じ羽柴家臣になっていたのである。


「敵は佐久間盛政か。噂に名高い鬼玄蕃。これは苦しい戦を覚悟せねばならん」


 清秀は兜の緒を締めて、決死の覚悟でこれに当たった。


「いざ進め。羽柴の山猿など敵にもならん」


 盛政の猛攻は熾烈を極めた。


 対する清秀も奮戦したものの、ついには支えきれず、砦は陥落。

 清秀は討死と相成ったのである。


「次なる獲物は誰ぞ」


 勢いに乗った盛政は、岩崎山を守る高山たかやま右近うこんを攻撃。

 右近もまたこの猛攻に耐えかね、木ノ本の本陣へと退却。


 盛政は更に勢いのまま、黒田孝高の守る本陣へと攻撃を仕掛けたのである。


「ここは何としても食い止めよ。そうでなくては策が破れるぞ」


 この猛攻に対し、孝高は奮戦してこれを守り切った。


 ともあれ緒戦は朝倉方の勝利であり、勝家は先行する佐久間隊を呼び戻したのであるが、しかし盛政は従わず、黒田隊との戦線を維持し続けることになる。


 翌二十日、賤ケ岳砦を守っていた桑山くわやま重晴しげはるも、盛政の圧力を受けて撤退を開始。

 佐久間隊の執拗な攻撃が功を奏し、このまま羽柴勢の本陣を打ち崩せるかと思われた、その時だった。


 桑山隊の撤退により賤ケ岳砦に誘引されつつあった佐久間隊に対し、突如増援として現れた羽柴秀長(ひでなが)隊と桑山隊が逆撃を開始。

 これにより不意を突かれた佐久間隊は、賤ケ岳砦を確保する寸前で追い払われてしまうことになる。


「ここが正念場ぞ。盛政を逃すな」


 勢いを取り戻した羽柴勢は、いったん足並みの崩れた佐久間隊へと猛攻を仕掛ける。

 やや劣勢となった佐久間隊であったが、更なる苦難が用意されていた。


 すなわち羽柴秀吉率いる主力の来援である。

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