第56話 越前国をあとに
◇
慶長八年五月。
長々と北ノ庄に居座っていた利光が、珠と共に金沢に帰還することになった。
利長などはとっくに金沢に戻っているが、利光と珠は特別に残っていたのだった。
かなり異例な措置ではあるが、これはわたしや珠の我が儘によるものである。
将軍家の権力は、なかなかのものだ。
利光などはその間、わたしに顎を砕かれては堪らないと、必死になって景成に師事していたようだった。
ついでに仙千代という好敵手がいたことも、励みになったらしい。
僅かひと月のことではあったものの、二人とも随分成長したようだ。
にこにこしながらわたしが見守っているので、余計に頑張ったらしい。
ちなみに利光は金沢に帰った後は、富田重政に師事することになっている。
重政は景成に勝るとも劣らない達人だ。
話によれば、重政は加賀前田家に剣術指南役として仕えているという。
利光が後継ぎである以上、その指南を受けるのに何の条件もいらないだろうが、一筆書いておくことにした。
何て書いたかは推して知るべし、である。
「義姉上。一つだけ、お願いしたき儀がございます」
別れ際に、利光が改まってそんなことを言ってきた。
「わたしに頼みとはいい度胸だな?」
「う……」
「おねえさま。利光さまのお願い、聞いてくださらないの?」
珠まで利用するとは、本当にいい度胸である。
「聞いてやるとも。可愛い妹の頼みであるのならな」
「うん♪」
珠が喜んでくれるのなら、まあ何でもいいか。
「で、何だ?」
「は、はい……。実は丹羽長重様のことです」
「長重?」
どうしてここでその名前が出てくるのだろう。
いや、もちろん長重の名前は知っている。
わたしの小姓だった人物だからだ。
確か関ヶ原の戦いの折に、前田利長を撃退して勝利し、それが仇となって戦後、家康に改易されてしまったはずである。
今は完全に浪人生活をしていることだろう。
「長重がどうした?」
「実は……」
聞けば、利光と長重には縁があるらしい。
浅井畷の戦いで前田家が敗北した後、両家は和睦したのであるが、その条件として前田家より利光が長重の元に、人質として送られていたことがあったらしい。
当時の利光は未だ後継ぎではなく、利長の兄弟の中では身分の低い側室の子であったために、選ばれたようなものだった。
そんな利光はしばし小松城にあったそうだが、長重はそんな利光にとても良くしてくれたのだという。
「……長重様は手ずから梨を剥き、食べさせてくれたことがありました。そのことが忘れられないのです。義姉上のお力でどうにかならないものでしょうか」
恩を返したい、か。
梨一個で知行とは、如何にも大きな見返りではある。
「約束はできないぞ?」
「やっていただけるのですか?」
「やるだけならば、な」
長重はわたしにとっても無縁な存在じゃない。
功を上げながらも理不尽に苦労しているのなら、助けてやるのもやぶさかではない、ということだ。
「その代わりに、前田家の所領が削られたとしても、文句は無いな?」
「……構いません。それにもしこれが叶いますならば、義姉上に忠誠を尽くすと誓います」
「ん、いいだろう」
忠誠といっても子供のお遊びのようなものだろうけど、わたしは偉そうに主らしく、鷹揚に頷いてみせたのだった。
この件については後の話にはなるが、わたし自ら父や祖父に書状を送り、便宜を図るように頼むことになる。
結果はあっさり了承、であった。
長重は幕府に召し出され、前田家の所領の一部である大聖寺城を与えられ、僅か一万石というものではあったが、晴れて大名に返り咲くことができたのだった。
これが慶長八年の十二月のことである。
……まあ、放っておいても長重は復帰する可能性が高かったのだ。
実際史実において、長重は常陸国古渡一万石を与えられて大名に復帰しているのだ。
それだけ能力が認められていた、ということでもあるんだろう。
わたしはそれを利用したようなもので、労せずして長重や利光に恩を売ることができた、というわけである。
◇
話は戻って利光らが金沢に帰ってからさらにひと月して、とうとうわたしが北ノ庄を離れる時が来た。
すでに六月半ばである。
ずいぶんとのんびりしていたが、珠がいなくなってからのわたしは、北ノ庄を拠点にしてあちこち歩き回っていたといっていい。
その間にあれやこれやとあったり無かったりしたのであるが、それはまた別の話である。
「……もう行かれるのですか」
「ん、いい加減、そろそろな」
名残惜しそうにしているのは、仙千代である。
当初、あれほど偉そうだった仙千代の態度は、今や一変してしまっていた。
ある程度礼儀正しくなり、わたしに対しても畏怖だか敬意だかのようなものを見え隠れさせている。
まあ、けっこうしごいたからな。
特に仙千代には精神修養を徹底させた。
武勇はともかく、利光などに比べて精神面が、圧倒的に劣っていると見てとっていたからである。
短気で気性も荒い。
すぐ不満を口にする。
これでは史実通りの末路を辿ることになるだろう。
だからそれを叩き直した。
子供に対してするにはちょっと、と思われるようなこともしてやった。
場合によっては手ずからぼこぼこにもしてやった。
仙千代にとっての精神的支柱はやはり、父である秀康だ。
その秀康の死期は近い。
代わりになる存在がいなかったことが、仙千代によっての不幸だろう。
「……俺も強くなりました。色葉様について、大坂に向かえばお役に立てます」
「あはは」
わたしは笑った。
「ひと月やふた月、ちょっと稽古したからといって調子に乗るな」
「でも……」
「役に立ちたいのなら、もう少し成長してから言うんだな。あと、みんなの前で色葉とは呼ぶな」
「あ、ごめ……申し訳ありません」
しゅん、となる仙千代。
これもこれで、分かり易くて可愛いものだ。
最初からできている利口な利光とは違い、育て甲斐があるというか何というか。
これで離れなければならないのは、残念といえば残念かな。
「それにこれからお前が行くのは江戸だぞ? 大坂に行っている場合じゃない」
わたしが越前を離れるのには、もう一つ理由があった。
秀康が仙千代を伴い、江戸参勤に及び、秀忠に挨拶しに行かねばならないからだ。
仙千代にしてみれば、初めての江戸である。
「父上には一筆したためておいた。よくしてくれるはずだ」
「……ありがとうございます」
「あと、お前に名をやろうと思う」
「名前?」
首を傾げる仙千代。
「ああ。今回結城家には世話になったからな。父上にお願いして、松平姓に復せるように頼んでおいた」
これは利光ばかりに便宜を図ったのでは、と思ったからでもある。
まあこれも、わたしが口を出さずとも自然にそうなるはずのことではあるんだけど。
「それからお前が元服した際、父上の偏諱を受け、忠直と名乗れるようにもしておいた」
「松平、忠直……」
「それが将来、お前が名乗る名前だ」
我ながら恩着せがましいことこの上無いが、利用できるものは何でも利用するのがわたしの主義である。
「あともう一つ。わたしの妹の勝が、お前に嫁ぐことになる」
「いろ……いえ、千姫様の妹君が、俺に?」
「まだ幼いからもうちょっと待て。本当ならやるつもりは無かったんだが、お前が変われるというのなら、預けてもいい」
何のことやら仙千代には分からないだろう。
少なくとも今の時点の仙千代には、何ら罪の無い話である。
「ともあれそういうことだ。早く大人になって、わたしを助けろ。礼はその時に受けてやる」
「……わかりました」
「ん、母上も伯父上と一緒に江戸に戻られるから、しっかり守ってくれ」
「はい!」
よしよし。
しかしこれで雪葉ともしばしのお別れか。
実に名残惜しい。
そしてとうとう大坂に入ることになる。
そこではわたしの結婚相手である豊臣秀頼が待っているはずだ。
乙葉もいる。
はてさてどうなるやら、だな。
◆あとがき◆
これにて関ヶ原之編は終了、次回より諸国漫遊編となります。
舞台は主に西国。
『色葉鏡』ではあまり登場することのなかった、四国や九州に舞台を移してのお話となります。
章題の通り、色葉が漫遊するお話なので、肩の力を抜いた気楽な内容になればと。
引き続き、お楽しみいただければ幸いです。
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