第20話 政争の果て
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翌日になり、七将の率いる手勢は伏見城を包囲。
家康に三成の引き渡しを要求したが、家康はこれを拒否した。
代わりに三成を佐和山城へと蟄居させることを約束し、三成もこれを受け入れざるを得ず、その三成を護送する任には家康次男であった結城秀康をあてたことで、誰もが手を出すことはできなかったという。
「このような仕儀となり、我が身の不徳を情けなくは思うが、ここまでお見送り、まことに感謝いたす」
近江国瀬田にまで至ったところで、領国からの出迎えと合流した三成は、護衛として随行していた秀康へと心からの謝辞を述べていた。
「ご心情はお察しいたします。この程度しかお役に立てぬこと、お許し下され」
結城秀康は家康の次男ではあったが、秀吉の養子となっていた経緯から三成とも面識があり、その関係はとても良好であった。
また秀康自身は武勇に優れ、その器量も周囲に認められたひとかどの武将であったという。
「ご家臣方も参られたからには、もはや安心であります。我らはここまでと致しましょう」
「あいや待たれよ。お礼をまだ致しておらぬ」
「礼などには及ばぬことですぞ」
「そうもまいらぬ。これを受け取っていただきたい」
そう言って三成が差し出したのは、一振りの太刀であった。
「これはまさか」
「我が宝であったが、貴殿が持ってこその名刀であろう」
それは鎌倉時代末期の刀匠・岡崎正宗が打ったとされる一振りである。
五大老の一人で備前岡山城主を務める五十七万石の大名・宇喜多秀家から三成へと送られたもので、周囲の羨望の的であった。
「こ、このようなものをいただくわけには……」
「よいのだ。私は武芸に覚えは無いが、貴殿は武勇のひと。貴殿が持ってこそ相応しいというもの。それに今の私に差し出せるものなど、これくらいしかないのでな」
こうしてこの正宗は、三成の手から秀康の手に渡ることになった。
感激した秀康はこれを愛用し、石田正宗と呼んで愛用することになる。
◇
慶長四年九月。
石田三成を排除した家康は、七日には伏見から大坂と移り、二十八日には大坂城西の丸へと入って政務を執ることとなった。
しかし九月九日の時点でとある事件が持ち上がることになる。
すなわち徳川家康暗殺計画の発覚である。
「――治長を流罪にすると言うの?」
「はい。内府殿はかように沙汰を出されました」
大坂城の乙葉へとその旨を伝えた朝倉秀景は、養母が激怒するのではないかと恐れたものの、それは無かったことに安堵する。
「……治長は?」
「素直にこれを受けると」
「でも、冤罪なんでしょ?」
「恐らくは」
乙葉は溜息をつく。
事の発端は、五奉行の中の二人、増田長盛と長束正家からの密告による。
その内容は、前田利長、浅野長政、大野治長、土方雄久ら四名が家康暗殺を計画していた、というものであった。
石田三成が失脚し、これ以上の家康の専横を許さぬために四人が計画した――と、なるほどそれらしくは聞こえる。
が、同時に家康が先手を打ってきた、ともいえた。
真偽の程は乙葉にも分からず、そして今や家康に表立って逆らえる者も、この大坂には存在しない。
謀略の気配は濃厚であるものの、乙葉はこの手の策謀は得手ではなく、対応できなかったのだ。
そして何より今は、秀頼や秀景を守ることで精いっぱいでもあった。
「治長殿は下総国の結城秀康殿の元で、蟄居と相成りました」
秀康は家康の次男ではあるものの、豊臣家との縁が深く、比較的好意的な人物でもある。
そこにわざわざ追放したということは、家康なりの配慮のようにも取れた。
治長は乙葉が重用している臣であり、当然そのことは家康も承知している。
あまり乙葉を刺激しないように、しかし一方で乙葉への警告でもあったのかもしれない。
「恐らく治長殿は、ここで争えば石田殿の二の舞になると踏んだのでしょう。しかし母上の手前、内府殿も強硬なこともできぬと承知し、忍従を選んだのだと思われます」
「つまり、妾次第……ということ?」
「今、内府殿を敵とするのは得策ではありませぬ。うまく関係を持ち、さすれば治長殿も返り咲くことが叶うはず。今は、ご辛抱を」
「……秀景は、賢いわね」
乙葉などは本気でそう思った。
父親は朝倉晴景、そして母親は朝倉色葉――この両人から生まれた紛れもない実子が、朝倉秀景である。
両親が本能寺の変で斃れた後は、乙葉が養母となってこれを育てたのである。
そのため乙葉に似て武勇に優れ、父・晴景の誠実さを受け継ぎ、なおかつ母・色葉の才知も受け継ぐ優秀な人物であると、身びいきながら乙葉は思っている。
未だ若いものの、今後この豊臣家を支える存在になってくれるはずである。
むしろ、未だ才のほどが知れぬ我が子の秀頼よりも、豊臣家の当主に相応しいのではないかと考えているくらいだった。
しかしいかに秀吉の養子となったとはいえ、実子である秀頼がいる以上、それを差し置いて当主となることは、例え乙葉が望んでも他の家臣たちが認めないだろう。
家中に亀裂を生じさせ、家康などを喜ばせるだけであることは、乙葉でも分かることだった。
「治長殿に、お会いになられますか」
「……やめておくわ。その方が、いいんでしょ?」
「はい」
乙葉はそれ以上何も言わず、秀景も意を察してその場を退出した。
◇
「しばし苦労をかけるが、よろしくお頼み申す」
「お任せ下されと申し上げたいところではありますが、治長殿がおられないとやや不安でもあります」
別れの挨拶に訪れた秀景は、治長へと率直にそう告げる。
大野治長はこれまでずっと乙葉の傍にあってこれを支え続けていたため、紛うことなきその最側近であった。
乙葉に育てられた秀景にしてみれば、父親代わりのような存在であったともいえる。
「淀の方様は?」
「是非も無し、と」
「然様か」
そんな返答に、治長は苦笑した。
ずっと以前の乙葉であったならば、即座に怒り出した案件であったはずにも関わらず、今では流れに身を任せてしまっている。
少なくとも秀頼が成人するまではと、そう考え忍んでいるのだろう。
「よいか秀景殿。今回の一件は内府殿の警告であろうが、逆に好機でもある。素直にこれを容れ、取り入るためのな」
「そのように私なども思いまするが、母上のご心痛を思うと……」
「淀の方様はお強い方であるぞ」
朝倉家が滅亡した際、乙葉は最後までこれに従った。
結果として朝倉家は守れなかったものの、当時はまだ幼子であった小太郎――秀景を今に至るまで無事に育てている。
「が、気を遣って差し上げることだ。今は感情を殺しておられるのだろうが、以前の淀の方様を知っているわしなどからすれば、やはりらしくはないと思うのでな。今やかの方の拠り所は秀景殿や秀頼様となっており、その貴殿からの言葉であれば、心も安がれることもあろう」
「それをおっしゃるのであれば、治長殿も同じではありませぬか」
秀景の実母である色葉に仕えた小姓達は、朝倉滅亡の際にそれぞれの縁を頼って散り散りとなった。
治長の場合は乙葉の口利きにより小姓になれたこともあって、元々乙葉との縁があったことでその後を共にすることになったのである。
「わしなどは非才の身なれば、豊臣家は重すぎる。だが必ず舞い戻るゆえ、その際は微力を尽くすことをお約束しよう」
こうして治長は下総結城に流罪となって、蟄居を余儀なくされた。
他の参加者とされる者たちで、五奉行の一人であった浅野長政は隠居の上で武蔵府中に蟄居。
加賀野々市城主の土方雄久は、常陸水戸に流罪。
そして首謀者とされる加賀金沢城主・前田利長に対しては、家康はこれを討伐することを決定し、加賀征伐の号令が発せられた。
その先鋒を命じられたのが、治長と同じくかつては色葉の小姓であった、丹羽長重である。
この加賀征伐に際し、前田家中では徹底抗戦すべきという者と、弁明して状況を回避すべきという者とで分かれたが、結局利長は弁明を選択し、幾度となく使者を派遣して身の潔白を訴え、最後は人質を差し出すことで落着した。
こうして加賀前田家も、家康の前に屈服したのである。






