第1話 羽柴秀吉と本能寺の変
◆朝倉滅亡編 登場人物紹介◆
●朝倉家
・朝倉色葉:主人公。狐憑きの妖。朝倉晴景の正室にして朝倉家の事実上の当主。一乗谷の主。明智光秀の謀反に遭い、本能寺で横死。
・朝倉朱葉:色葉の娘。元は色葉が謎の少女にもらったアカシアという名の本であり、そのアカシアが受肉した姿。
・朝倉乙葉:色葉の義理の次妹。妖狐。柴田勝家正室。
・朝倉雪葉:色葉の義理の末妹。雪女の妖。
・大日方貞宗:色葉の側近。越前勝山城主。
・真柄隆基:雪葉の側近。亡者。
・朝倉景鏡:色葉の養父。
・武田景頼:色葉の義弟。景鏡の長男。武田一門衆。信濃高遠城主。
・朝倉景幸:色葉の義弟。景鏡の次男。
・朝倉景道:朝倉一門衆。敦賀郡司。越前金ヶ崎城主。
・姉小路頼綱:朝倉家臣。越中富山城主。家臣筆頭。
・堀江景実:朝倉家臣。加賀金沢城主。
・武田元明:朝倉家臣。若狭国主。若狭後瀬山城主。
・一色義定:朝倉家臣。丹後国主。丹後建部山城主。
・大野治長:朝倉家臣。色葉の小姓。
●羽柴家
・羽柴秀吉:羽柴家当主。摂津大坂城主。
・黒田孝高:羽柴家臣。
・石田三成:羽柴家臣。
●織田家
・柴田勝家:織田家重臣。朝倉家との同盟強化のため、乙葉を正室に迎える。
・佐久間盛政:織田家臣。鬼玄蕃。
●徳川家
・大久保忠隣:徳川家臣。
/色葉
天正十一年六月二日。
わたしはこの日に一度死んだ。
京の都にある、本能寺。
ここを襲撃した明智光秀率いる一万三千余によって京は席巻され、わたしのいた本能寺はもちろんのこと、二条城も炎上したという。
二条城にはわたしの夫であった朝倉家当主・朝倉晴景が滞在しており、本能寺に次いでここも狙われ、妙覚寺から助太刀に駆け付けた織田家当主・織田信忠もろとも討死に及んだという。
当時、朝倉家は越前、若狭、加賀、能登、越中といった北陸一帯に加え、丹波、丹後、山城、近江に美濃や越後の一部、そして甲斐武田家の遺領である甲斐、信濃、駿河、遠江半国を加えて、日ノ本において比類無き大大名にのし上がっていた。
さらに安房の里見家や、武蔵、相模を抑える徳川家をほぼ従属させ、また畿内を制していた羽柴家や美濃、尾張、伊勢、三河を領していた織田家とも同盟。
越後と上野を領する上杉家とも友好関係を結び、これらをもって連合政権を発足させるところまでこぎ着けていたのである。
天下はほぼ目の前にぶら下がっており、その制覇はあと僅かだった。
ただこの情勢下にあって、中国の毛利や四国の長宗我部が敵対し、これを征伐しようとしたところで、変事が起こる。
それが本能寺の変だった。
織田信長が滅んだ後、朝倉家臣となっていた明智光秀は突如謀反を起こし、わたしを本能寺にて攻め殺したのである。
見事にやられてしまった。
わたしはここで死んでしまったが、そのあとはどうなったのか。
これより先は、語り聞いた話である。
/
天正十一年六月十一日。
中国大返しも佳境を迎えていたその日、羽柴勢は摂津尼崎にまで至っていた。
「殿、織田信孝殿が参っておりますぞ」
疲労困憊の羽柴秀吉にそう報告してきたのは、その参謀的存在であった、黒田孝高である。
「む? それはいかんな……」
秀吉は疲労の色を引っ込めると、やや気を引き締めた。
織田信孝は京で討たれた織田信忠の弟である。
長宗我部に対する四国征伐を、朝倉家によって命じられたのは織田信忠であったが、その信忠の代行として総大将の任にあったのが、信孝であったのだ。
その信孝率いる織田勢は約一万四千余。
しかも渡海するために摂津大坂に駐屯しており、ここは秀吉の本拠地である大坂城の膝元でもある。
そして変の起きた京に近く、そして周辺ではもっともまとまった軍勢を有していたといえる。
秀吉にとって、信孝の動きは無視できないものになるはずだった。
「しかしこちらに来た、ということは……」
「いかにも。京には進軍しなかったようにございます」
にやりと孝高が笑う。
秀吉ですら引くほどの、野心に満ちた笑みだ。
「……まあ、信孝殿の兵は一万四千。光秀もそのくらいは集めておるだろうから、分の悪い勝負はしない、ということか」
「というより、麾下の兵の大半が逃げ去ったようで、四千ほどしか手元にないとか」
「それは……何ともはや、であるな」
これでは勝負にならず、如何な信孝でも援軍を待つより他に無かった、という次第である。
京に近すぎたことが、逆に仇になった、ということだろう。
「されど、どうしたものかな?」
「と、おっしゃいますと?」
「総大将の件だ。信孝殿はわしに合力してくれる心づもりじゃろうが、総大将を誰がするか、決めねばならん」
「……なるほど」
これは大事なことだった。
誰の名によって、明智光秀を討つか。
これは非常に重要である。
「光秀殿を討つ大義名分としては、信忠殿の仇討ちということで、信孝殿の方が適任じゃからのう。わしは今のところ、部外者のようなものであるし」
ここで光秀を討てば、一気に勢力を拡大できる好機なのは間違いない。
が、羽柴家の所領自体では問題は発生しておらず、そもそも光秀と明らかに敵対関係とはなっていない。
もちろん、先方は警戒しているだろうが。
「ここでしゃしゃり出ては、漁夫の利と陰口を叩かれぬかのう」
「殿、勝てば官軍ですぞ。……が、確かにうまくはありませぬな」
ここで孝高はしばし考え、しばらくしてから小さく頷いてみせた。
「では殿、此度の戦は仇討ちを名分に、総大将の任を信孝殿にお譲り下さいませ」
「それで良いのか?」
「兵の数からいっても、実際に総指揮を執られるのは殿であること、これは揺るぎませぬ。そして総大将といっても、それは名目上であるということを周知させれば、さほど問題もないでしょう。信孝殿は信雄殿のように無能者ではありませぬゆえ、機微を察することでしょうしな。むしろ形の上では兵力に勝る殿が一歩譲ったということで、奥ゆかしいと思う者も出てくるでしょう」
「茶番と思う輩もいるであろうがの。ま、良いか。委細は任せるぞ」
「ははっ」
こうして秀吉は実質的には織田信孝を従えて、先へと急いだ。
そして山崎の地に到着したのが六月十三日のこと。
秀吉は到着までの間に兵を搔き集め、やや烏合の衆のきらいはあったものの、その数だけは実に四万に膨れ上がっていた。
対する明智光秀は京を掌握した後、自らの本拠のある近江の制圧をまず優先したらしい。
近江国は朝倉家の領する地であったが、北近江はともかく南近江は日が浅い。
そのため南近江を任されていた六角承禎などは決戦を避け、伊賀に退去してしまう始末だったが、佐和山城の江口正吉、大溝城の北条景広などは頑強に抗戦し、光秀は北近江の平定には至たることなく急ぎ兵を戻し、この山崎にて決戦という運びになったのだった。
この第二次山崎の戦いにおいて、兵力で勝る羽柴勢の優勢は動かず、明智勢は敗退。
光秀も坂本城に向かって逃亡中に、命を落としたという。
決戦の勝利後、明智の残党を討伐し、一応の治安を回復した秀吉は京に入り、その支配権を掌握。
まずこの時点で朝倉領であった山城国が、事実上秀吉の手に落ちる。
「……なるほど。松永殿まで討ち取られたのか」
「そのようにございます」
状況が明らかになるにつれて、次々に悲報が届けられていた。
変事の犠牲者の中に、あの松永久秀がいたのである。
久秀は丹波と京を任されていたが、丹波は嫡男である松永久通に任せ、自身はもっぱら京の管理に専念していた。
朝倉晴景・色葉夫妻の上洛に際にもこれを接待し、当日は本能寺にあったことで難に遭ったという。
「……松永殿は不気味なご老人であったからのう。残念なような、ほっとしたような」
「ともあれおかげで京の平定も、我らが主導で滞りなく行うことができました。朝廷からも、逆賊討伐の祝賀の使者が参るとのことですから、後でお会いしていただかねばなりません」
「時間は惜しいがやむを得んか」
きびきびと報告をこなす孝高に応えて、秀吉はさすがに疲労を隠せずにいたが、しかし本番はこれからである。
「そろそろ朝倉や織田も何かしらの反応を示す頃だろう。情報収集は怠るな」
「はっ」
「あと丹波のことだが」
秀吉が言いたいことを察した孝高は、問題無しとばかりに頷いてみせた。
「お任せ下され。全て手筈は整っております」
「むむ? そうか。いや、どうするつもりなのか、一応聞いておくか」
聞けば明智方の兵の大半は、丹波衆であったという。
光秀は丹波亀山城を乗っ取り、中国への増援の軍勢を整えていた久通や重臣らを急襲して討ち取ると、その兵をまとめて京に入り、事件を起こしたのである。
つまり今、丹波は城主不在にて非常に不安定な状態になっている、ということになる。
これを放っておく手はないというものだ。
「京には明智殿の与力であった細川藤孝殿がおりましたが、この謀反に加担せず、頭を丸めて自ら謹慎し、沙汰を待っているとか」
「ほう、藤孝殿が。それは殊勝。しかも冷静な判断だ」
細川藤孝の嫡男・忠興の正室に光秀の娘が嫁いだ経緯から、両家は親戚関係にあった。
しかし変の後、光秀による再三の協力要請に応えず、自ら剃髪して隠居し、身を守ることに専念したのである。
実際この行動は正解であったといえるだろう。
光秀は敗死し、また織田信長の甥で信忠の従兄弟にあたる津田信澄などは、光秀の娘婿であった事が災いし、謀反の共謀を疑われて信孝に大坂にて討ち取られていたからである。
「この機に藤孝殿を懐柔し、取り込まれるがよろしいかと」
「うむ。あの男は使えるゆえ、もったいないことはせぬぞ」
「いっそのこと、この京の暫定統治をお任せになればよろしい。感激するでしょうし、その上で丹波や近江への調略を行わせるのです」
「ふむふむ。なるほどの」
秀吉はこれを受け入れ、とにもかくにも自身の地盤である畿内の安定に努めたのである。