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第128話 諸悪の根源


     ◇


「なんじゃと?」


 それは思ってもみない報告であり、紅葉は己の耳を疑った。


 九月六日の夕刻。


 矢継ぎ早にもたらされる報せに徐々に機嫌が悪くなっていく紅葉を、緊張した面持ちで見守っていたのは最上義康や戸沢政盛である。


「夫殿が敗れた、とな」

「は……。報せによれば、すでに河越より撤退しているとのこと」

「…………」


 普段の紅葉ならば、どこか場違いな陽気で人を食った態度を取るところであるが、今回は黙して何も語らない。


 それこそが、事態の危急さを告げていたともいえ、二人が緊張する所以でもあった。


「……何故そのような次第になったのじゃ?」

「はっきりとしたことは。されど敵の増援があったことは確かなようです」

「増援?」

「は。これもはっきりとはいたしておりませぬが、恐らく松平秀康率いる北陸勢の一隊かと」

「なに、松平秀康じゃと?」


 紅葉は眉をひそめる。


 確かに現状、関東の周辺でまとまった兵力を有しているのは、秀康率いる越後方面軍だ。

 幕府軍の中では唯一、順調に事を進めており、すでに越後への侵攻を許してしまっている。


 とはいえ、だからこそあの軍勢は越後にあるはず。


 紅葉にしてみれば、例え一時越後を奪い返されようと、その間に関東で決着がつくのであれば、越後など放っておいてもいいと考えていた。


 足止めに使えれば十分であると。


「越後を突破したにしては早すぎるぞ?」


 紅葉は首をひねる。

 越後での鎮守府軍の旗色は悪いが、これを守る上杉照虎が絶対死守を旨としていないからでもある。


 越後は広い。

 ならばその特性を活かし、奥まで引きずり込んで、後背を襲う算段も付きやすい。


 秀康とてそれは弁えているわけであるから、迂闊な前進などままならない。

 すなわち、足が止まる。

 それでいいのである。


 そもそもにして北陸勢の越後突破は不可能と考えていた紅葉にしてみれば、まず前提条件が崩れたことに首を傾げるのである。


「恐らく敵は信濃を通過して上野に入り、南下したものと思われます」

「信濃じゃと?」


 これまた想定外のことである。


「真田は何をしておったのじゃ? 今回あれは中立を保っているが、領内に敵の軍勢が通るのを黙って見過ごすほど、甘い輩でも無かろうに」


 かつて関ヶ原の折も、真田昌幸は中山道を通って美濃に向かおうとしていた徳川秀忠の別動隊を打ち破り、その武名を高めている。


 今回に限って見逃すとも思えない。


「分かりませぬが、こうなると真田が幕府方についた可能性も」

「真田殿の嫡男は、以前より幕府方についておりますからな」


 義康に補足されて、紅葉は舌打ちした。


 確かに昌幸は関ヶ原の折、お家を二つに分けて、それぞれが西軍、東軍に与して戦っている。

 生き残るためにはどんな手でも打つ、ということだろう。


「食えぬ奴じゃ」

「ともあれ、すぐにも手を打たねばなりますまい」


 義康の言はもっともで、紅葉はため息をつく。


「せっかくわらわが孤軍奮闘して頑張っておるというに、夫殿と養父殿が雁首揃えておきながら、揃って尻尾をまいて退散するとはのう。何という体たらくじゃ。あとでなじってやらねば気がすまぬ」


 その言葉に何かを思い出したかのように、政盛が口を開いた。


「尻尾、で思い出したのですが」

「うん、なんじゃ?」

「敵の中に、妖しき狐憑きがおったという噂が流れておるようです」

「何だそれは?」


 妙なことを言い出す政盛に、義康は眉をひそめる。


「は……。伝令の者が申しておったのですが、その狐憑きの姿をした童女と思しき者が無双の働きをし、一時は本陣の殿の目前まで迫ったとか」

「殿の崇拝する謙信公ではあるまいに、そのような輩がいると申すか」


 義康にしても政盛にしても、紅葉であっても、上杉家において未だに伝説のように語られる上杉謙信とは、面識が無い。


 義康などは辛うじて同じ時代に生きてはいたが、まだ幼子のころに謙信は死去している。

 政盛にとっては生まれる前の話であるし、紅葉にしても同様だ。


 そして彼らの主君でもある上杉景勝の養父である謙信の強さは、未だに語り継がれている。

 軍勢を率いさせても敵無しであり、単騎であっても無類の強さを誇ったという。


 例えば今より四十五年ほど昔である永禄四年に行われた第四次川中島合戦において、謙信は敵対する武田信玄の本陣に切込みをかけ、一騎打ちを仕掛けたという。


 また天正五年には、朝倉家の狐姫と一騎打ちに及び、これに完勝してもいる。


「そのような面妖な輩は奥方様のみにて十分であろうに……ああ、これは失言を」


 思わず本音がこぼれた義康は、しまったとばかりに紅葉を見返したが、紅葉は大した反応も見せずに神妙な顔つきのままであった。


 あまりにらしくない様子に、義康と政盛は顔を見合わせる。


「義康、政盛」

「はっ」

「ははっ」


 不意に名を呼ばれ、二人は背筋を伸ばして答えた。


「その後の敵の動きは?」

「はっきりとは分かりませぬ」

「我が夫殿は」

「これもはっきりとは分かりませぬが、しかしもし追撃を受けているのであれば、東に向かっているかと」

「然様じゃな」


 どの程度の敗北を喫したかは知れないものの、逃れるならば会津方面か越後方面の二択となる。


 しかし越後状勢が不安定である上に、敵の増援が上野方面から来たのであれば、北ではなく東に向かうはずだ。


 差し当たっては利根川を越え、橋頭保としている宇都宮城を目指そうとするだろう。


「奥方様。これでは我らも危ういですぞ」


 今さらのように事態の深刻さに気付いた政盛が、眉間に皺を寄せて言う。


「敵の動きは知れませぬが、この機に乗じて動かぬはずがありませぬ」

「わかっておる」


 想定される敵の動きは三つだ。


 一つは敗退した鎮守府軍主力への追撃戦。

 一つはこの江戸に矛先を向け、江戸城解放に向かう可能性。

 最後の一つはそのまま河越城に居座る選択。


 三つ目はありえぬと思いつつも、では残りの二つのうち、どちらで来るかは読みづらい。

 だが可能性としては、やはり江戸城への援軍と考える方が自然だろう。


 しかし、だ。


「さすがに主力が敗れた状態で江戸に居座るは危険じゃのう」

「もともと我らは寡兵でありますからな」


 これまで連勝を重ねてはいるが、それらは紅葉の用兵の巧みが功を奏していた結果であり、単純な兵力差では決して楽観できる戦況ではないのだ。


 それに元々は江戸に敵を引き付けて足止めし、その間に河越城を陥落させることが主目的である。

 江戸城攻略は二の次だったのだ。


 そして河越城攻略が失敗したとなると、そもそもの作戦が破綻したことにもなる。


 となれば、この場に固執する意義はほぼ失われたといっていい。

 それどころかこのまま居座れば、敵中に孤立することになりかねない。


 政盛の言うように、今やかなり危険な状態であるのだ。


「退くぞ」


 紅葉の決断は早かった。


「しからば殿はそれがしが」

「いらぬ」


 政盛の申し出を、紅葉は一蹴する。


「されど撤退に及べば、必ずや追撃があるでしょう。防ぐ者は必要かと」

「いらぬと言ったぞ? それよりも全力で軍勢を進め、我が夫殿と合流し、利根川を越えることじゃ。それに、恐らく敵は前から来る」

「なんと」


 この状況下において、自分ならばどうするかと考えた結果、紅葉が出した結論は一つだった。


「考えてもみよ。我らの不利は火を見るよりも明らか。なれば全力で脱出を図るであろうことは、敵も容易く想像がつく。そして政盛が危惧したように、追撃もあるじゃろう。わらわが敵の将であるならば、もはや敵の逃げ出した後の江戸に手勢を向かわせたりはせぬ。それよりも追撃するかにみせて、その合流を阻み、あわよくば挟撃しようと目論むところじゃ」

「つまり、河越城にいる敵が我らの進路に回り込んでいる可能性が高い、と……?」

「利根川の目前で、正念場が来そうじゃの」


 渡河には時がかかる。

 その上、利根川は坂東太郎の名を持つ暴れ川。

 敵がこれを利用しないはずもない。


「ひとまずは東に進み、下流にて渡河した後、本隊と合流するというのは」


 義康の言に、紅葉は首を横に振る。


「万が一、本隊が渡河の前、もしくは渡河中に捕捉されておったらどうするのじゃ? まさに背水の陣。さっそくわらわを後家にするのか?」

「め、滅相も無く……」

「それにわらわは敵にも興味があるのじゃ。途中までうまくいっておったというに、こうも一気に崩されるとは思わなかったからのう」


 紅葉が気になるのは、豊臣秀頼が率いてきた西国勢の中から、一万ほどの手勢が河越城に向かった件である。


 もともとその意図が読めずに、気にくわなかったのだ。

 原因は、恐らくその別動隊を率いた者の中にいると、紅葉は踏んでいた。


 そしてそれをはっきりさせねば今後に差し支えると、確信に近いものを得ていたのである。


「背後の敵など気にするでない。眼前の敵こそ諸悪の根源であろうというもの。確かめねばなるまいて」


 紅葉は真っ赤な舌で唇を舐めつつ、全軍に撤退を命じた。


 この時の紅葉の思考は、まさに河越城にあった色葉の思考を見抜いていたと言っていい。


 色葉もまた、この機を逃す気は毛頭無く、思わぬ戦勝に当初の予定を無視することを厭わず、まだ見ぬ敵の正体を確かめるために軍勢を進めていた。


 慶長十年九月八日。


 色葉と紅葉の両者は、ここで初めて相まみえることとなるのである。

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