第10話 滅亡を前に
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四月二十二日。
朝倉方が賤ヶ岳にて敗れ、軍勢が潰走したとの知らせは、すぐにも北ノ庄、そして一乗谷にも伝わることになる。
そして時を置かずして、羽柴勢が北ノ庄城目指して進軍していることも明らかになった。
そんな中、一乗谷で昏睡状態にあった大日方貞宗が目を覚ますことになる。
「目が覚めましたか」
気づけば幼子の顔があり、そのくせまるで感情を感じさせない声音で語りかけてくる。
「…………」
身を起こそうとして激痛が走り、しかし意外なことにしっかりと身体は動いてくれた。
「やはり、あなたは特別なようですね」
出し抜けにそう断定されて、貞宗は眉をしかめる。
そんなことを言う幼女は、色葉の娘である朱葉だ。
親が親だけに、この子もまさに奇天烈な存在であるとしか言いようがない。
「……それは如何なる意味か」
「簡単なことです」
貞宗の寝ていた寝床のすぐ隣にちょこんと座している朱葉は、当然とばかりに口を開く。
その少し離れたところで大久保忠隣が、やや面食らったようにその姿を眺めていた。
六歳児程度にしか見えない朱葉が、流暢に大人びた様子で話す姿は異様の一言であったろう。
加えてこれは実際には三歳であると教えてやれば、どんな反応をしただろうと貞宗などは思ったものである。
「貞宗。あなたはもはやひとではありません」
「――――」
息を呑む。
が、意外というわけでもなかった。
でなくてはこれほど早く、あの重傷が癒えるはずもない。
「京からの道中、ずっと主様を手にしていた。それまで主様が貯蔵された妖気を一身に受けながら、ここまで来たのです。本来ならばただですむはずがない」
つまり、色葉の手によって人でなくされたと言っても過言ではない。
「身体は一度死んだはずです。そう……華渓の時のように」
「では、私も今や亡者の類ということか」
「わかりません」
朱葉は首を横に振る。
「主様の力によって蘇った亡者であるのならば、主様の死によって滅びるはずです。実際、直隆と華渓は滅びています」
しかし、貞宗はこうして在る。
それがどういうことなのか、朱葉は考えた。
そもそもにして色葉を蘇らせるには、その魂が必要である。
朱葉は当初、貞宗が持ち帰った色葉の首級にこそそれがあると思っていたが、実際には違う。
確かにあの首には膨大な妖気が未だに貯蔵されている。
でもそれだけだ。
肝心な魂は無かったのである。
ではどこに行ったのか。
「貞宗の中にこそ、主様の魂は保存されていると私は結論付けています」
「な……」
驚きながらも、一方で貞宗は得心もしていた。
本能寺での最期の言が蘇る。
『――もし、自分の意思でこの首を一乗谷まで運んだならば、それはお前自身の意思でわたしに仕える、ということになるぞ? 永遠に、だ。次は決して手放さない。最後の瞬間までこき使ってやる――』
色葉そう言っていた。
それがこういう意味だとしたら。
「……本当に、これは、呪いであるな」
「私は貞宗が羨ましい」
言葉通り、朱葉は羨む視線を投げかけてくる。
「いえ、むしろ妬ましいくらいです。代われるものならば、代わって欲しい」
「……いや、これは自ら決めたこと。譲る気は、ない」
「そうですか」
貞宗は思い出す。
色葉はあの時、選択肢を用意した。
呪縛から逃れるすべも、確かにあったのだ。
しかし気づけば自身は一乗谷にいた……。
これまで幾度も再確認していたことではあるが、とうの昔に色葉の呪いに捉われてしまっていたのだろう。
かつて望月千代女はその禁忌への魅力にぎりぎりで抗い、色葉の元から去ったことがある。
貞宗はできなかった。
そういうことなのだ。
「ならば、貞宗。あなたはやはり主様のものです」
「……心得ている」
「最後まで、付き合っていただきます」
◇
この世のものとは思えぬ会話を耳にして、つくづく自分の知るこの世は狭かったのだと、大久保忠隣は思い知らされていた。
人でない存在がこの世に在ることは、承知している。
神仏から妖怪変化、その他の動物に至るまで、混沌としているのがこの世の実情だ。
それでも人の世であると勘違いしてしまう程度には繁栄し、人は我が世の春を謳歌している。
たとえそれが、乱世であったとしてもだ。
目の前で交わされる貞宗と朱葉という幼女の話は、そんな常識を改めて打ち破ってくれていた。
そもそもこの一乗谷こそ、人の世とそうでないものが混じり合っている。
ようやく収まったものの、昨年の夏にはあの大雪。
忠隣自身、一乗谷から動けなくなるほどのもので、その原因はあの雪葉であるという。
また真柄直澄や隆基。
彼らは生者ですら、ない。
この谷の主であった狐姫を含め、まことにここは異界であったと言わざるを得ない。
しかしそんな狐姫が築き上げた朝倉家も、今まさに風前の灯火であった。
越前国境で行われた羽柴秀吉との一戦は、朝倉方の敗北で終わったという。
また友好国であったはずの越後の上杉景勝も、秀吉に呼応して越中に侵攻。
このため越中を治めている姉小路頼綱は兵を動かすことができず、北ノ庄は今やもぬけの殻であって、これを守り切ることは至難であろう。
朝倉家は再び滅亡しようとしていたのである。
これに際し、どうすべきか忠隣は頭を悩ませていた。
人知の及ばぬ異界のことは、ひとまず置いておくとしても、忠隣自身は朝倉家臣ではなく徳川家臣である。
そして徳川家にとって大きな後ろ盾であった朝倉家が滅ぶとなれば、徳川家にとっても他人事ではすまされない。
関東の平定はすんでいるとはいえ、安定には時がかかる。
こうなると徳川とて身の振り方を考えねばならないのだ。
忠隣の主たる徳川家康も、今頃頭を痛めていることだろう。
しばし思考に没頭していた忠隣は、不意に吹き込まれた冷気に身を震わせた。
「――大久保様」
外から入って来たのは、雪葉であった。
すでに気弱な雰囲気は微塵も無く、いつもの冷たい雰囲気の美貌が戻っている。
「雪葉殿か。ちょうどいい。大日方殿も目を覚まされた」
貞宗に意識が戻ったことを確認すると、雪葉はその場にそっと膝を折り、用件のみを手短に告げた。
「……ご出立の準備を。貞宗様も、お早く」
「谷を出られるのか?」
意外を隠せずに忠隣が確認すれば、雪葉は小さく頷く。
「はい。つきましては大久保様に、お願いしたき儀がございます」
「……伺おう」
「わたくしどもの庇護を、徳川様に執り成していただきたいのです」
それはとりもなおさず、朝倉家を見捨てることを意味していた。






