香る春
先輩は二次会に出ないで帰るというので、私も帰ることにした。
飲み屋の前で、別れを惜しむセレモニーをひとしきり。卒業生たちと抱き合い在校生に手を振る先輩を、輪から少し外れて眺めて、それから歩き出す後ろ姿を足早に追いかける。まだ名残を惜しみ足りない若者たちに浮き足立つ学生街を抜けて、大通りから外れ、緩い坂道を下るにつれて祝祭の空気は遠ざかっていく。
残るのは湿った春の夜。
暖かい雨はやんでいた。濡れて光る路面に革ブーツがテンポを刻み、紺袴の裾が揺れる。
歩調が緩んだ気がして、肩を並べた。
「先輩」
呼んだ声は、ちょうど差し掛かった公園の木立の暗がりに吸われる。少し音量を大きくする。
「引っ越すんですよね?」
「うん」
懐古のない乾いた声。
「通勤には遠いから」
「いつですか」
「週末」
曲がり角、公園の終わりから差し伸べられているはぐれた枝に、先輩は指を絡ませて行き過ぎる。葉裏に残っていた雨粒が、街灯の光を吸って指先から滴る。
先輩はそこを曲がっていかなくてはいけない。私の下宿はまっすぐ行った先にある。立ち止まるのはわざとらしいだろうか、と、わずかに躊躇った矢先に、水滴を払い落とした先輩は足音を止めた。
首を巡らすことすらなく、低い呟きが落ちる。
「沈丁花が咲いてる」
鳥のさえずりだとか、雑草のつける花だとか、雲の明暗だとか、言われてみなければ気にも留めない些細なものばかりに目を向けるようになってしまったのはこの声のせいだった。人間に対しては、それなりに愛想が良いだけの、軽く乾いた声ばかり返しているくせに、ベランダで夏の夜空を指し示すような瞬間だけはほのかに潤う声。
花らしき姿は見えない。見えない、と思った鼻先を、甘い香りがくすぐることに気づく。
そんなことばかり気づくひとが、この先何十年も、はめ殺しの窓から空を眺めながら社会に貢献するはたらきをまっとうに果たしてして生きていくことができるものかと。
「そう怒らないで」
「怒ってません」
「怒っているよ、私の就職が決まってからあなたはずっと」
やっと振り返った先輩は、晴れ姿を街灯の下にすっかり照らして、どうでもいいようなことを言う。
「春のにおいがするね」
どうでもいいようなことを、そして私は忘れられなくなる。