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最高の妻

作者: 長根兆半

小説 「最高の妻」

長根兆半・作


屁のツッパリにもならない自己満足に、ハンガリーにも海が有る、というのがある。

地図を見たってそんなものはない、何処にって聞くと、バラトン湖という。

なるほど、確かにミズウミというウミだ。

だが普通、ウミといえばやはり塩辛い水のある海の事だろう。

それを、屁理屈並べて、海があるなんていう。いじましいというか、可愛いというか、何とも手に負えないという感じになってくる。

最も、言ってる彼らの顔が、この時ばかりは多少、引きつってはいるのだが。

その湖の近くに別荘を持ち、この夏もガーデンパーティーをやろう、という男の話を、出雲妙子がフーテン板前の牡鹿翔太に持ってきた。

彼女の客には相変わらず、上玉が多い。

ハンガリーがサツマイモ型の国土なら、バラトン湖は干からびたサツマイモのように見える。

長さ七十七キロメートル、最大幅十四キロメートル、面積から言うと東京二十三区と、ほぼ同じ。水深が二三メートルと浅い割には、子供の水難事故もあるから油断は出来ない。

冬は当然、全域凍結、天然スケートリンクとなる。


「バラトン湖でか、いいな、よし、天麩羅やろう」と翔太が気持ちよく受けた。

「え、外で、天麩羅、どうやって、大丈夫なの?」と妙子が心配する。

こんな会話を電話でし、久しぶりに、摩周湖で飯でもどうかとやって来た。

妙子は、白い股下何センチというミニスカート、レース入りの黒のブラジャー、その上に肌が透けて見える薄手の白い絹のブラウス、赤いカーディガンをラフに背負い、相変わらずの色気満載で窓際の席に座って居る。

そこに翔太が、CM入りの白いTシャツにダークグレーの半ズボンという格好で、中古のメルセデスを運転してやってきた。

半年前と比べ、店は昼飯時にもかかわらず客が少ない。

翔太が妙子に片手を上げながら店に入っていく。

席に着くと、顔見知りのウエイトレス、美鈴が来て、

「お久しぶりです翔太さん、お元気でしたか」と言ってお絞りを置く。

「まぁね、彼、元気かい、子供、まだ?」

まだなの、と言って彼女が飲み物、何にします、と翔太に聞く。

「そうだな、車だから、俺もコーラにするよ」

はい、と言って美鈴は向こうへ行った。

「翔太、失礼じゃない、あんな事言って」

「そんな事気にするような子じゃないよ。ハンガリー人と結婚して、子供できたら、ここ辞めるって頑張ってるんだが、どうやらまだらしい」

「ね、天麩羅、どうすんのよ」と妙子は、話を戻した。

「それは俺がやるからいいけどさ、詳しい話聞かせろよ」

そこに、美鈴がコーラを持ってきて、ごゆっくりと言ったきり立ち去った。

「やっぱり彼女、気にしてるわよ」と妙子は言いながら美鈴の後姿を眼で追った。

そんな事はないのだが、むしろ、子供・・・と言うことで、妙子が気にしているフシが翔太には見えた。

「で、いつ、そのガーデン・パーティーがあるんだい」

「八月十日十二時から、バラトン湖の別荘で」

「いくらだすんだい。その男?」

「聞いてないわ」

「なんだ、肝心な事が抜けてんじゃないか、そうだな、後二週間あるから、一度会って、詳しい話聞いてみようか、向こうの都合、聞いてくれよ」

「いいわ、ね、なんか食べない?」

「ん、そうだな、カツ丼でも頼むか」

手を上げるまでもなく、振り向くと美鈴がすぐに寄ってきた。

注文をして、十分もしないうちにカツ丼は来た。

「あれ、元に戻ってる」

「そうね、どうしてこんなカツ丼作るのかしら」

「ダシをしいて、玉ねぎを入れたら少し煮る。その上に半生に揚げたカツレツを切って置き、黄味を潰したくらいの溶き卵に青味を入れ、それを鍋の中のカツレツに掛け、蓋をする。白身が固まりかけたらさっとご飯の上に全部置く。で、出来上がり。どうして、ご飯に切ったカツレツを置き、玉ねぎの卵とじを乗っけるんだろなぁ。関西風だ、なんて言ってるが」と翔太は、美鈴に聞こえるように言っている。

美鈴が、又厭味言ってると言う顔で、引きつった笑みを隠しきれないでいる。

経営者が、店の繁盛よりも自己顕示欲が強いから、仕方がない。

「変よね、これ、私が居た時は・・・ああ、翔太が居たものね。あの頃、何風でもいいけど、美味いならね。でも見た目も、あまり美味そうじゃないわね。これ」

二人とも、何となく腹は減っているのだが、カツ丼を箸で突っついて見てしまう。

「俺が来た頃に、やっぱり関西風ですなんてオーナーが言うから、どうして寿司は江戸前なんですかって言ったら、寿司だからだってさ。寿司だって関西が出なんだが、どうも分らんオーナーだった」

「あっちの都合のいい事、こっちのいいとこだけを繋ぎ合わせて、賢こ振る人って居るのよね」

「まあいい、言ってもしょうがない。とにかく食べよう」

と言うことになって食べ、翔太が送って行くよと、二人はメルセデスに乗った。

「ひえー、おんぼろ」

「贅沢言うなよ、俺の愛車だぞ」

出雲妙子が相手の都合を聞くと、いつでもいいという事で、早速行く事になった。


ブダペストからM7の高速でおよそ一時間弱、そこにバラトン湖がある。

赤い柱に白い板壁、水色の破風、いたるところにそんな感じの、こじんまりとした家が散在している。別荘と言うよりは、避暑地だろう。

湖を囲む山並みの中には、豪華な別荘も点在している。

翔太は湖の近くにあるとばかり思っていたのだったが、どうやら、山に点在している本格派の別荘らしい。

「あ、彼、あそこに居るわ、そう、あの柳の木の下の紳士」

サングラスをしたジェームス・ボンドのような男の近くに、赤いアルファー・ロメオのオープンカーが止まっている。

翔太のメルセデスから降りた妙子が男に近づくと、頬を摺り寄せて挨拶すると、翔太を紹介する。紹介された翔太は堅い握手を交わす。

「ヨージェフです。これから家にご案内いたしますから、私の後に付いて来て下さい」

えらく丁寧な話し方に、翔太は好感を持った。

チューリップの花壇を抜け、林の中に入った。ところどころに、赤や黄色の花が咲いている。

うっそうとした雑木林を十分も走るといきなり、左右に赤いカンナの群生が現れた。

その一〇〇メートル位先に、道から見ると、いくらかハスに構えて建っているのが、彼の家だった。鏡張りの総大屋根、ソーラー・システムだからだと言う。

これで音響や、コンピューターシステムといった弱電関係は、全て賄えるというから驚いた。

黒い丸太の柱、ブラウンの板壁、窓から上は白い壁になっている。前庭に上がるマーブルの石段の前は、優に五台は横並びに駐車できるスペースが取ってある。

ここでパーティーをするんですと案内された庭は、当然全面芝生、ゴルフのパットの練習には事欠かない広さである。

丸太で組んだ椅子があちこちにある。どう見ても縦横五〇メートルは有る庭だ。

その周りを常緑低木の夾竹桃の垣根が、一重の白い花と八重の桃色の花をつけ、今を盛りとばかりに庭を囲んでいる。

垣根の向こうは、バラトン森林。どこかで鳥の声がする。日の射す庭に、森林からの冷気が木の香とともに、気持ちが良い。

左の垣根に沿って、清水が流れ、それが家の近くの池に落ちている。

八畳くらいの池の中には、バラトン鯉が群れを成して泳いでいた。

「これも、天麩羅に出来ますか?」とヨージェフが言う。

「は、え、勿論」と翔太が、唖然として頷いた。

「ハハ、冗談ですよ。でも、やっても良いです」とヨージェフは言うと、家の中を案内しましょうと入って行くのに、翔太と妙子も続いた。

部屋は二〇室、十一ベッド・ルーム、三ヵ所のバス・トイレ、混浴用のバスルームに至っては、まるで室内プールの様相を呈している。

大きな娯楽室は、スヌーカーの台があり、ブラックジャックのカウンター、ルーレット台、当たり前だがダーツも出来る。まるでカジノだ。

男用化粧室に女用化粧室、それぞれのハンガーには、今にも仮装行列ができるほどの衣装がぶら下がっている。

コンピュウターの詰まった研究室、オフィスに会社も同居している。

さてと、通された一室で、翔太が掛けたソファーで、え? と思った。あまりにもフカフカで体が沈むからだった。

「何人様ぐらいを想定して、準備したらよろしいでしょうか」

「寿司ですと想像出来るのですが、天麩羅となりますと、どういうことになるのですか」

「そうですね、食されるお客様にとって、寿司で五〇〇〇フォリントなら、天麩羅ですと三〇〇〇フォリントとお安くなります。ただ機材の関係で、結果的には同じくらいになるとお考えいただければいいかと思います」

「どんなものがでるんですか?」

当然な質問だった。

「海老、ギンポウ、ハゼ、柱といいまして、これは天麩羅の四天王と言われる、美味しい食材ですが、それはハンガリーにないのでそっちに置いて、鯰とかイカそれと貝類がいいでしょう」

こうなると、さすがのヨージェフも、初めてハンガリー語を聞いた日本人のような顔になっていく。

「はぁ、トンハル(鮪)とか、ラザーツ(鮭)なら分りますが、何ですか、そのええ、今言った、魚の名前ですか?」

「魚の話になりますと、十年掛かりそうですから、わからなくとも安心してください。私がお聞きしたいのは、何人分で、お一人様、おいくらのご予算と、お考えかと言うことです」

「招待しているのは二〇〇人です。予算は全体の八分の一、ハーフ・ミリオンの五十万フォリント、他にも、ハンバルゲル・コーナーや、グリル・チケルのコーナーなどもやり、飲み物などの事を考慮しますと、こんな感じです」

「いいでしょ、ハーフ・ミリオン」と翔太はサラリと言った。


話はスカッと、あっさり決った。

ポンコツじゃないが、オンボロメルセデスで、翔太と妙子の二人はブダペストに向かった。

「翔太って素っ気無いのねぇ」

「ビジネスは、すれ違いに成立させる。これが俺のビジネスさ。グダグダあっちの話し、こっちの話なんかしたって、目的は金のやり取りと決っている。彼がどんなに裕福な暮らしをし、どんなに凄い家に住んでいようとも、俺には関係ないね。他人の財布の中をいくら勘定したって、俺が潤うわけじゃない。それより、どれだけ俺が金を取れるかの方に関心があるよ」

「まあ、そうだけど・・・・・・」

「タエだってそうじゃないのか、相手の懐具合で値段付けるわけじゃないだろ」

「当たり間じゃない、そんなお人よしじゃないわよ」

「な、だろ、それで良いじゃないか」

「私、どうしようかしら」

「なにが?」

「んん、私、呼ばれてないのよ」

「どうして?」

「当日はホステスが来るらしいけど、私の事をどう、紹介すれば良いか迷ってるらしいのね」

「よくわからないけど」

「ホステスはホステスで、何処からかまとめて呼ぶらしく、無論彼には彼女がいるし、立場がなんか分りにくくなるじゃない、私の」

「・・・・・なるほどな、いいや、俺のアシスタント、これでどうだ」

「でも、あんまり行きたくもないけど」

「タエ、俺とゲームしようってのか、その分は、ちゃんと奴に請求するから心配ないよ。ただで遣われるとでも思ってるのか、安心して金稼げよ」

「そういおう事じゃないわよ・・・・・」

国道M7の向こうに、大きな夕日が、夕焼け雲を従えて、沈もうとしていた。

妙子は運転している翔太に、触りたくなった。

得体の知れない虚しさが、翔太によって埋め尽くされた気がしたからだった。


(ハロー、ヨージェフ)

秘書のシルビーが遊びに来て、十分位すると、ジュリーから電話があった。

「おー、どうしたんだ、ジュリー」とガウンを羽織ったままのヨージェフが、受話器を取った。

(いや、どうということもないが、水臭いじゃないか、パーティーやるんだって)

「ああ、気分転換に、いつものことさ。水臭いって、どういう事だい」

(ケボールから聞いたんだよ、俺を外そうってのかい?)

「そんな事ないぜ、電話いかなかったのか?」

(何もないから、言ってるんじゃないか)

「シルビーにまかせっきりだったんで、ま、後で聞いてみるが、気にしないで来てくれよ」

(なんだか、押しかけるみたいで厭な気分だな)

「俺が言ってるんだからいいじゃないかジュリー、気にすんなよ」

(まあ、そういうことならいいが、最近少し変だぜ、ヨージェフ)

ここで、ヨージェフは、少しむっとし、ロゼワインカラーのブラウスに、七分丈の水色の薄いプリーツ・スカート姿のシルビーに、ウインクをおくった。

「そっちこそ、大丈夫かい、去年と同じ、いつもの事だ、来いよ」

ヨージェフは、早く電話を切りたかった。

(ならいいが、顔を出すよ)

ヨージェフは、受話器を置くと、軽い舌打ちをした。

「厭味な奴だよ」

「私も嫌い、彼」とシルビーも言った。

「それにしても、ケボールから聞いたと言っていたが、あいつとも、あまり仲は良くない筈なんだ。ちょっと電話してみよう」とヨージェフは言いながらダイヤルをする。

少しの呼び出し音が聞こえると、やがてケボールが出た。

ヨージェフは、ジュリーからの電話の事を言うと、それっきり頷いてばかりいた。

彼が電話に頷きながらシルビーを見ていると、彼女は水着になって、プールへ行くという仕草をし、部屋を出て行くのに、軽く手を振った。

シルビーが飛び込んだ水音が聞こえると、ヨージェフは溜息混じりに受話器を置いた。

そして、そのままソファーに行き、肘掛を枕に横になると、何か考えに耽っていった。

ヨージェフが今日の財を築き上げる事が出来たのは、コンピューター・ゲームのソフトを開発したからだった。

ヨージェフはゲームに関心はなかったが、大学へ入ってからジュリーの呼びかけに応じ、色々やっている間に、ゲームを作るという事が面白くなり、のめり込んで行ったのだった。

自分の作ったゲームに対し、ジュリーは、やれスリルが軽いの、スピード感が悪い、などと言っていたのだが、半年もした頃、ジュリーのゲーム・ソフトが市販されたという事が分った。

早速お祝いのつもりで買ってみると、どうも自分の作ったのと同じようなゲームだと分った。

そんなある日、ジュリーが休んだ時、そっと彼のソフトを見ると、矢張り自分の作ったソフトがベースになってた。

以来ヨージェフは、クラブをやめ、自分ひとりで開発に夢中になったのであった。

大学を卒業する頃には、お互いが完全なライバルになっていた。

そうなると、できるだけ、身近に来て欲しくないという思いが強くなる。

昨年のパーティーの時も、ジュリーは何かと家の中を見て回り、ヨージェフの研究室にカギが掛かっているのを知ると、しつこく見せろと言い出され、困った事が有った。

そんな事が有ったので、今年は、ジュリーを呼ばない事にし、シルビーにその事を言った為に、連絡が行かなかったのだった。

それにしても、どこか腑に落ちない気分は拭いきれず、ケボールに聞けば、案の定、言ってないという。挙句はシルビーが言ったに違いないとまで言い出すから、わけを聴くと、少し前あたりから彼女にスパイのような事をさせているらしいとまで、ケボールが言う。

そういえば、シルビーは普段、研究室にいつまでも居る事がなく、さっさとオフィスに戻るのだが、自分の後ろで、いつまでも覗いている事が多くなっている事に、ヨージェフは思い至った。

狭いソファで寝返りを打って、自分の思い過ごしならいいとは思いながらも、何らかの手を打たなければいけないと思うと、再び電話を取った。

「出雲さん、実は、ちょっとお願いがあるんだが、彼と一緒に会えないかなぁ」

出雲妙子のオーケーの返事で、ヨージェフは研究室のドア・ロックを確認し、プールのシルビーには声もかけずに、アルファーロメオでブダペストに向った。

ヨージェフがブダペストに着く頃、矢張りと言うべきか、シルビーから携帯が入った。

「ああ、ゴメンゴメン。急用が出来て、今ブダペストに来ているんだが、用事はすぐ済むから、適当に遊んで居ればいい、すぐ戻るから」と言ってヨージェフは、出雲妙子と牡鹿翔太に合う為、指定されたブラハ・ルイザの裏通りにある喫茶店に入った。


指定した時間ぴったり、フィッシング・スーツの翔太と熟柿色のジャンパーにジーンズの妙子の二人は、ヨージェフの居る喫茶店に現れた。

「やあ、出雲さん。ごめん、呼び出して」とヨージェフが立って挨拶をした。

「いいわよ別に、暇だから」と妙子も軽く言う。

「先日はどうも」と翔太は、愛想が悪い。自分の女ではないが、矢張りヤケル。

コーラかなんか、軽い飲み物を注文し、ヨージェフが、ガボールとジュリーとシルビヤの事を話しだした。

「庭の夾竹桃、あれ食わそうか?」と翔太がボソリと言う。

「どうして夾竹桃なわけ?」と妙子が小首を傾げて聞く。

「あれを食えば、どうなるんです?」とヨージェフも、よく意味が分からない。

「死ぬよ」とあっさり言ってしまう翔太である。

夾竹桃は葉が竹に似て、花は桃に似ていることから、この名がついた。

「あれが毒なんですか?」とヨージェフは、顔色を変えて言う。

フランスで、夾竹桃の枝を串焼きの串に利用して、その肉を食べて死亡者が出た。

広島で枝を箸代わりに利用し死亡者が出た事を言った。

広島市は夾竹桃を市の花に指定していながら、学校では夾竹桃の毒性についてほとんど教育がなされていない。と、翔太は金魚すくいをしているように言った。

夾竹桃にはオレアンドリンなど様々な強心配糖体が含まれており、強心作用や利尿作用もある。という薬用になるのだが、同種は非常に毒性が強いため、素人は見るだけにした方がいいと付け足すように言った。

オレアンドリンは、青酸カリより強い毒性があり、ジキタリスに類似の作用を持つ。


「そこまですることないわよ」と妙子が顔をしかめて言った。

「パーティーで、事故となれば、やっぱりまずいですよ。私としては、彼にかぎまわって欲しくないだけですからね」とヨージェフも及び腰になった。

「妙さん、これはお前さんの仕事になりそうだな」

最近、翔太は妙子のことを、妙さんというようになっていた。

「いいわ、まかしといて」と言って妙子は嬉しそうに思案に耽った。

「有難う、他の人に言うと、筒抜けで、こっちの立場も変になるんで、頼みます」と言うとヨージェフは、そっと出雲妙子に紙袋を手渡した。

話が済むと、ヨージェフは帰っていった。

「なんだい、それ?」と翔太が、妙子の手に有る紙袋を言った。

「しらないわ」と言って妙子が紙袋を開けると、中に十万フォリントの現金があった。


八月十日の朝、翔太の電話で起こされた妙子は、まだ眠気が抜け切れていない。

二人はブラハ・ルイザに在る、マクドナルドで待ち合わせた。

妙子は靴ともサンダルともつかない花柄のパンプスを履き、袖なしのブラウス、長めのフレアースカート、全てが薄手の白、光のかげんで、中身が透けて見えた。

上品な紙袋を片手に、妙子は翔太のメルセデスに乗り込むと、すぐに転寝が始まった。

「夜の仕事、何時までもやっていると、体が持たんだろ」と翔太は妙子の転寝を邪魔するわけではないが、そういってみた。

「最近考えてるわ。この歳じゃ、潮時かなって」と力なく妙子は声に出して言い、女ゆえに身の回りを飾る割りに果たしてどれだけ、心を飾る事が出来ているだろうかと、気になる最近を思い出し、虚しさが、寂しさに変わっていくような気がした。

メスの満足はあっても、女の満足が何か足りない。ましてや人間としてとなると、茫漠としてしまうのだが、少なくとも今のままで良いとは思えない苛立ちが湧いてくると、転寝もままならなくなってしまうのだった。

そして、こういう事がこの翔太に、分るのだろうかと、目の端で彼を盗み見た。

昼前のブダペスト市内の交通は、意外と混んでいる。

それでも、東京やロンドンを経験した者なら、案外流れがいいと感じてしまうくらいだった。

「それにしても、早いよな、もう四年になるかな」

「そうね、もうそんなになるわ」と妙子は言って、もうすぐ三十五よ、と溜息をついた。

「俺ね、あの進化論考えてみたんだが、なかなか面白いよ。と言うのはさ、妊娠から、流産の子、早産の子、挙句が死産。生まれても夭逝したり、産む女性にしたらショックだが、それぞれの子には寿命ってのがあるだろうと思ってさ。妙さんの言うこれは大昔、ここまでしか生きる事ができないって言う環境での、名残じゃないかって気がしたんだよ」

「そんな事解ったって、私はお嫁に行けませんのよ」と言って、妙子はふてたように横を向いてしまった。

「ヨージェフの事、どう思ってるんだい?」

助手席で、車窓の外を見ている妙子に、翔太が言った。

「翔ちゃんはどうなの・・・」と、翔太のことを、翔ちゃんと甘えるような声で言ったのだったが、彼の耳には上手く届かなかったようだった。

何の反応もない彼を、妙子はそっと振り向いた。前方で、警察が交通整理をしていた。

どうやら信号が動いていないらしい。その状況に翔太は気を取られていたのだった。

妙子は、ツンと軽く顎を上げ、車のドア寄りに再び、拗ねたように丸まった。

信号機故障でも、警察の誘導で、車の流れは徐々に動き出した。

まもなく、M7の高速に乗ると、中古のメルセデスは、十九年落ちとは思えない快調な走りを発揮しだした。

運転席のパネルの計器類は、スピードメーターも、走行カウンターも動いては居ないが、エンジン快調のメーターは二十五を維持している。

ボンネットについていた、メルセデスのトレードマークがないのがいかにも、おしい。

路上駐車してあった時にむしり取られ、腹いせにどこかのメルセデスのをむしり取って付けたが、又やられたのだった。それ以来諦めてはいるが、矢張り悔しさが残っている。

グっとアクセルを踏み、走行車線から追い越し車線に入ろうとして、前方を見ると、何と大型トレーラーが斜めに止まっている。

どうやら事故を起こした直後らしい、周りの車も、いっせいにスピードを落とした。

翔太は、こんな事故を初めて見た気がし、野次馬になった。

妙子はどうやら寝ているらしい、起こそうか、ン、やっぱり起こそうと手を出しかけると、妙子はむっくり顔を上げた。

「もう着いたの・・・」

「いや事故だよ、見なよ」

「わ、何やってるの、あれ」

「トレーラー同士が、おカマをホッタらしい」

当てたトレーラーの前面が、スクラップになっている。

時速百キロの車に、時速百二十キロの車が当って、二十キロの衝撃、ま、そんな程度で済んだようだ。

翔太はロンドンでの事故を思い出した。

横道から出てきた車に当てられ、当てた方が、すぐ車から出て、スイマセンと言って、車の保険を言い出し、相手が、修理はこっちに請求してくれと言ったのだった。

翔太の車は、ボコっと後ろのドアがへこみ、修理に出したのだったが、加害者からは何の話もないことに腹を立て、加害者の家に行って見ると、逆に警察を呼ばれ、来た婦警さんから、保険で全てはカバーされ、それに同意しているのだから、これ以上個人的な話し合いは無用です。と説教されてしまったのだった。

翔太は、何時同意したのかわからなかったが、日本なら、手土産の一つも持って、ご迷惑をおかけいたしましたの、挨拶がある。

翔太は、その感覚だったのである。車は修理が利くが、その為に被った迷惑は、どうするのかと言いたかったが、既に時遅し、という感じになってしまっていた。

トレーラー事故を横目に、翔太はその場をやり過ごした。

後、何分か速かったら、球突きになるところだった。と思いながら、ロンドンでの別の事故の後を思い出し、何となくおかしくなった。

あれは、雨の降る夜だった。

車がないからと、ヤマハのバイク、タウンメイトを借りていた。

バイクの運転は、初めてなので、翔太は慎重だった。スピード、車間距離、何も問題ないとおもって走っていた。

前方の車に、ひときわ赤いテールランプが点いたから、翔太もブレーキを小刻みに踏んだ。

雨の降るアスファルトの道、思うようにバイクのスピードが落ちない。

ブレーキをグッと踏んでも止まらない。ツツーっとスリプする。

ガキ・・・・・止まるはずの寸前で、おカマをホッテしまった。

黒いスーツを着た見るからに天才風の若い青年が、車から降りて来た。

彫りの深い顔にはキラキラ光る目、黒々とした睫、天災秀才学者様、と言う感じの男だった。

彼は、何か言っているが、翔太には解らない。

「あんたが、急に止まるからいけないんだ」と翔太が言うと、多分彼は、言ってもしょうがない、大した事ではないし、と諦めたのか、雨が降っていたからなのか、秀才は案外あっさりと引き上げてしまったのだった。

相手のテールランプが壊れた事を、知っていながらの言い分だった。

ソーリーと、簡単に言うなと教えてくれたのは誰だったか、翔太は勝ち誇った気になった。

そんな事を思い出して、今一人で片頬を歪め、ほくそえんでいる翔太を、横にいる妙子が見ている。

「気持ち悪いわねぇ、何考えてるの?」と妙子が厭な顔をしながらも、おどけて言った。

「アハ、さっきの事故を見て、昔の事を思い出していたんだよ。あ、俺この場所、好きだなぁ」

丁度、ブダペストとバラトン湖の中間辺りだろうか、そこは、いかにも大陸の平原という感じに視界が広がっていた。

小高い丘が所々にある見渡す限りの草原は、好き勝手に生きて来た翔太の、心を包んでくれる感じになるからだった。

そうした感情は妙子も同じだったのだが、翔太が分からないだけだった。

M7の高速道をバラトン湖へ向っている車の中で、牡鹿翔太は運転をしながら、出雲妙子は軽いフテ気味な感じで車窓から外を眺めながら、お互いが同じ事を思っていた。

若い時は、このまま若さが続くような感覚でも、若さが宝だと、気が付くのは、若さを過ぎた頃、と同じように、同じ思いで居ることを二人は今、解らない。

やがて、カンナの群生している辺りに近づくと、ランボルギーニ、ロータス・ヨーロッパ、ムスタングなどのスーパーカーに混じって、クラッシック・カーが何台か縦列駐車している。

翔太は目を見張ってしまった。

ハンガリーに、スーパーカーは走っていないと言う認識を改めないといけないな、などと思いっていると、

「ヘー、結構ハンガリーにも、スーパーカーが有るんだ」と、妙子が頓狂な声を出した。

打ち合わせの時、荷物があるから、と言って置いたが、なるほど、翔太が停められる場所は、庭の近くに確保されていた。

庭に入ると、右の垣根に沿って、ハンバーグ、サラダバー、グリルドチキン、などの模擬店が設置され、庭の中央では豚の丸焼きがゆっくりと回転しながら焼かれている。

少し離れた所では、グヤーシュ・スープの大鍋が、ピラミット鉄柱にぶら下がって、パプリカと魚の香が混じって湯気を立て、食欲をそそっている。

その庭の一角に、翔太が天麩羅テーブルのセットをしながら、思っていたより、かなり盛大だなと胸が躍った。

翔太はセットを終わると、早速ガスに火を点けた。

東欧ハンガリー料理の香に混じって、東洋的なゴマ油の香が辺りに広がった。

三四十人のゲストは、その香に慣れないながらも、独特な食欲をかもし出す香に、つい翔太の天麩羅に寄って来る。

ハンガリーにも、ラント・シェルテ・マールと言うとんかつに似た揚げ物料理はあるが、彼らにとって、見慣れ、食べなれているそれと同じ材料が見当たらない。

さてどうするのか、何が出来るのか、見たこともない東洋の天麩羅、一体何が出来るのか、興味津々の目が寄り集まって来た。

一リットルの水に六〇グラムの卵を入れる、思い切りかき混ぜると、白い泡が立つ卵水。

粉は漉し、充分空気を入れ、冷凍庫で最低二十四時間は保存しておく。

その卵水四に対し、ほぼ六の割合で冷えた粉を入れ、それをかき混ぜるが、全体にトロミが出る寸前で粉のダマが残っているまま、かき混ぜを止める。

冷えた天麩羅の衣は必要だが、素人はここで、氷を衣に入れてしまう、彼らは知っているのだろうか、氷は溶けると言う事を・・・・・・。

そんな事を思いながら翔太が材料を用意し、生粉を出すと、既に切りつけられた材料、野菜を生粉に一寸付け、適温の百六十度になった油鍋に入れた。

その前に翔太は、何度か衣を鍋に散らしていたのだが、それが何のためなのか、知る人はいない。一滴の衣を鍋に入れた時、その衣が、油の表面ですぐ上がるようなら、それは百八十度になっている。衣が鍋の底に跳ね返ってくるように上がれば、百七十度。

衣が鍋の底にいくらか止まってから上がってくれば百六十度以下。

天麩羅の衣が、どの位鍋の底に止まっているかで、油の温度が分るわけだが、矢張りこれは経験から来るようだ。

妙子も、レース編みが少し回りに施されているハンガリーのエプロンを着け、愛想を振舞っている。

そこへヨージェフが来た。

「やあ、今日は有難う、この通り人が一杯だから、大変だと思うけど、頼むよ、ショウ」

「ああ、任せなよ。で、その、ジュリーってのは、どいつだい?」

「今、大鍋からグヤーシュ・スープを取っているのがそうだ。傍にいるのがシルビア」とヨージェフが言う方向を、翔太が見ると、向こうも視線を感じてか、こっちを振り向こうとしたその瞬間、翔太は視線を、建物に移した。

そこから、更に多くの人が賑やかに出て来たからでもあった。

ふと気が付くと、妙子が傍からいなくなっていた。

野菜や魚は一口大に切りつけてあったが、海老は皮がついたままにしてあり、翔太はその海老の皮を剥き、プロレスの逆海老固めのようにして海老の筋を指先で伸ばした。

素人は、この作業に、庖丁を使い、更に長く伸ばしたりする。

これでは、揚がった海老の天麩羅の、衣を食っているのか、何を食っているのか分らなくなってしまう。

ところが翔太の技は、いかにもプリッと、海老の甘みが口に広がっていく。

海老は火が通りやすい、ふっくらと揚がった海老天を、客の目の前に出すと、一つ目がまだ口の中にありながら、次に手を出すのが常だった。客は、見るからに簡単にできて来る天麩羅を、フーフー言いながらレモン汁をかけて摘んでいく。

客は、早く出せと言わんばかりに、翔太の周りを囲んでいる。

翔太は、妙子がせめて鍋から上げるのを手伝ってくれないかなと、思ったが、その妙子がいない。それでも、何とか、人垣がなくなるまでやり、一息つくと、夾竹桃の垣根に身を添えるように、妙子とジュリーが立っているのに気が付いた。

その妙子は、フレアー・スカートではなく、白いミニスカートに変わっていた。

ジュリーは薄いピンクの開襟シャツのボタンを大きく開き、胸毛が見える。


「そうね、資本は、コンピューターと、特許料くらいかな」

「でも、その才能、凄いわ。私なんか、ゲームすら満足にできないのに、中毒になるほどのゲームを作るなんて」

「あれ、ヨージェフ、何処へ行ったかな」とジュリーが不意に言った。

「さっき家の中に入って行ったわ」

「そう、じゃ、何か持って行ってやろうか、一緒に来る?」とジュリーは言いながらそばの夾竹桃を手折って、串のようにするため、葉をむしり取った。

ジュリーはその串を手元でクルクル回し、人込みの中をかき分け、バーべキューの模擬店の前に立った。

「肉と野菜をくれないか、いやいや、生のやつ、金串じゃ色気がないから、これに刺して焼いてほしいんだ」

妙子は、これをヨージェフに持って行くつもりなのか、と思ったとたん、翔太の話を思い出した。夾竹桃には、殺人可能な毒がある。その名はオレアンドリン。

彼は知っていてそうしているのか、知らずにやっている事なのか分らなかった。

いずれにしても、何とかしないとまずい、と出雲妙子は思った。

大事になっても、知らなかった、親切でやった。と言えば、彼の哀願に同情が寄せられ、罪は軽くなる。

しかし、彼の何らかの目的は、果たせて仕舞う気が、出雲妙子はした。

かといって、今これを責めても、とぼけられれば、矢張り彼の本心は分らずじまいになる。

ジュリーの本心が、何処にあるにしても、あんた殺す気、などと責めてみたところで、場がシラケ、険悪なものが残るだけでしかないように思えた。

「ジュリー、私も何か持っていくわ」と妙子は言って、翔太の天麩羅に行った。

日本女性の出雲妙子に向けられる、多くの視線が溜息を漏らしているのを、背に感じた。

妙子は、セクシャルな視線を腰周りに感じ、気分が良かった。

妙子は、翔太が天麩羅を揚げている間に、ことの成り行きをかいつまんで話した。

「それならこの天麩羅を持って、俺も行く」

「分ったわ、じゃ」と妙子は言うと、ジュリーの所に引き返した。

やがてジュリーと、串から外したバーべキューを持った妙子が、建物に向う後ろに、翔太は天麩羅を持って、付いていった。

建物に入る一瞬手前で、

「翔ちゃんこっち」と妙子が後ろを振り向いて言うなり、ずっこけた。

丁度庭から建物の境にある敷居のところだった。

ああ、と言う間に、バーベキューがマーブルの床に四散してしまった。

驚いて振り向いたジュリーの足元にも、バーベキューの肉が転がっていた。

彼は、かすかな不快感を眉間に見せながらも、優しく妙子を抱き起こした。

「大丈夫か?」とジュリーが言った。

「あ、こっちは大丈夫ですから」と翔太がいう。

いきなりジュリーが翔太に近づくと、天麩羅の乗った皿をひったくるように取り、君は持ち場に帰りたまえ、と言って妙子の腕を取り、ヨージェフの居る部屋へと、向った。


ガーディン・パーティーの黒山の人だかりも、さすがに満腹になったあたりから、建物の庭続きのテラスに、ドラムなどの音響装置が設置され始まった。

パーティーはようやくこれからのようだった。

この頃になると、翔太は後片付けを始め、間もなく終わると、妙子を誘ってメルセデスに乗った。

バラトンの山並みに差し掛かった弱い西陽とは逆に、途切れ途切れに聞こえていたバンドの音が、徐々に高まっていった。

町並みの中を走っている間は、話もなかったが、高速に乗ると、二人は話し出した。

「体張ったね」

「仕方ないわよ、他人のセイにするより、こっちのセイのほうが、みな安心じゃない」

「何時まで、続けるんだい」と言った翔太の真意を、妙子は一瞬掴みかねた。

だが

「翔ちゃん、何処に居るのか、分らないし・・・・・・」と独り言のように妙子は言った。

「来るのがいいかな、行くのがいいかな」

「きて・・・・・・」

「食い扶持、どうしようか」

「知らないわよ、そんな事まで」


翌日、妙子にヨージェフから電話が来た。

昨日の事を、長々と出雲妙子は喋った。

話し終えると、妙子は翔太に電話をした。

「ヨージェフの秘書をやって、私が食わせるわよ。オ・バ・カさん」


―――おわり―――


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