第一章 Ⅱ 異変
「副長、そろそろ限界です」
ハンサ要塞から脱出して三週間が経とうとしていた頃。
日が落ちてまもない時間、簡易会議所として設営したテントの中で、グレアム・クィン准尉はホルスにそう告げた。
「狩猟によって食料はどうにかなっていますが、穀物類はすでに底をつきました。
また、医薬品の不足が深刻です。負傷が軽度だったものは快方に向かってはおりますが、いまだに治療の継続が不可欠な者が五名、残っています。……アルマイヤー少佐も含めて。
死者が出ていないのが唯一幸いなことでしょうか」
ホルスは、黙ってうなずいた。
アルマイヤーの体調は芳しくない。意識ははっきりしているものの、熱が下がらず、食事さえ満足にとることができないでいた。
解熱剤や痛みどめは既に使い果たしてしまったので、今はダリルが見つけてくる薬草を煎じて対処しているという状況である。
そして、指揮官が実質不在という現状は部隊の士気にも大きく影響する。
「ふさぎ込んでる人が多くなったね。食事をとらない兵士も見かけることがある」
「ええ。副長にもうすこし頼りがいがありそうなオーラがあればいいのですが」
「面目ない」
グレアムの軽口にホルスは苦笑で返した。
現在、部隊での階級がアルマイヤーに次ぐのはホルス・クレイン中尉だった。
アルマイヤーが床に伏せっている今、代行の指揮官は彼ということになる。
ところが、見た目の厳格さも軍人としての経験も持ち合わせているアルマイヤーに比べ、能力はともかく、いまだ二十代の若さでどこか抜けているように見られるホルスでは、部隊の士気を維持するカリスマというものに欠ける。
彼自身もそのあたりは理解していた。そして、早急に手を打つ必要があることも。
「まあ、無いものはしょうがないから、あるところに行くしかない」
「では、そろそろ山をおりますか」
うん、とホルスは頷いて、地図を広げた。脱出の際に要塞から持ってきたもののひとつだ。
それには、ごく一部ではあるがゼス山一帯の地形が細やかに記されている。軍で使われるものだけに、非常に精度が高い。
「現在地が要塞から東に進んだこの地点。地図で見る限りでは、半日ほどの距離に川があることになっている。まずは川を目指して、そこから南下しよう」
「はい。一週間もかからずに山の麓に出られるでしょう。その位置からならば、このクロックテイル村は目と鼻の先です」
クロックテイルは、登録がある限りではフィニクス王国最北端に位置する村として知られている。
もっとも取り立てて名産品や観光地などはなく、また軍が駐留していることもない。
それでも、必要な物資を提供してもらえるよう交渉することはできるはずだった。
「そうだね、それでいこう。……さて、問題は」
「その最短ルートが、傭兵崩れどもの縄張りであると想定されるエリアを横断することになるという点ですね」
しばし、二人は黙り込んだ。
要塞から逃げ出してから三週間ゼス山にこもっているホルスたちだったが、本来の想定であれば二週間以内に山を下り、最寄りの王国軍基地に逃げ込むつもりでいたのである。
だが、いざ分け入ってみたゼス山には、そこかしこに傭兵崩れの山賊の痕跡が点在。その規模は不明だが、負傷兵を多数抱え込むこの部隊が戦闘を行うことは絶対に避けなければならなかった。
そのため、周辺を可能な限り調査しながら、一つの場所にとどまることを避けるためにキャンプ地を短期間に移動させ、山賊の縄張りに極力近づかないように配慮して進んだのである。
その過程で予定のルートを大幅に外れてしまい、逆に山の奥深くへと進む羽目になってしまったのだ。
――結果、当初の予定を大幅に遅れてゼス山での逃避行は続いているのだった。
「避けて進む余裕は……もう、無いよね?」
「この行程でもギリギリかと。これ以上期間が延びるのならば、死者が出ることも覚悟しなければなりません」
腕を組んで目を閉じるホルス。彼の肩には、いまや部隊五十名の命がかかっている。
グレアムは何も言わず、その様子を見つめていた。
危険を承知で最短距離を行くか、少数の犠牲に目を瞑って迂回路をとるか。
――熟考の末、ホルスは決断した。
「最短ルートを行こう。万が一敵と遭遇した場合のマニュアルは私が考えてみるよ。
明日の正午前には出発する」
「了解。朝一で移動の準備をさせましょう。部隊の編成とルートの詳細はこれから作成します」
「よろしくね」
グレアムは頭を下げてテントを出ようとする。が、外に一歩踏み出したところで、振り返った。
「副長、ずいぶんとお疲れのように見えます。休息は十分にとれていますか?」
問われたホルスは一瞬目を丸くしたが、笑いながら答えた。
「少佐がずっと寝込んでいるおかげで、昼寝をする時間もないからね。
まったく、私の生活リズムを崩さないでほしいなぁ。――大丈夫、心配無用だよ」
「ならいいのですが。……顔、汗だくになってますよ。
それでは」
今度こそ退出したグレアム。その背中に、ホルスはひらひらと手を振った。
そして深夜。
ホルスは、以前ルシアに発見された場所へ行くと、野外活動用の寝袋を広げて入り込んだ。
「……ぐ、っつ!――うああ、あ」
額からは汗がにじみ、服の背中にも濡れたような跡。
くぐもった呻き声が、暗闇の中にかすかに聞こえている。
彼はいま、身体中を襲う激痛と戦っているのだった。
ちょうどアルマイヤーが倒れた頃。その夜から身体の異変は始まった。
初めは大したことのない、ちょっと違和感がある程度の痛みだった。彼自身も、疲れているのかな、と思っただけだ。実際、朝になると何ともなかったように治っているのである。
だが、痛みは日ごとにその力を増し、いまではホルスの睡眠を妨げるようになっていた。
「あぐっ!……う、うう」
原因はわからない。謎の奇病が発症したとも考えられる。
だが、アルマイヤーが倒れ、ホルスまでもが病に侵されたと知られれば、これから先についての不安をかろうじてこらえている部隊が瓦解するかもしれない。
それを危惧したホルスは、誰にも告げることなく、キャンプから少し離れたこの場所で耐えることを選んだ。
――なに、少しの間辛抱すればいいだけの話だ。
体力が尽き、意識が途切れるその時まで、彼は今日も耐え続ける。
その様子を木の陰から見つめる者の存在に気付かないままに。
「……へぇ。まだ山にこもってるのか、あの兵士たちは」
「ええ、理由はわからないけれど。でもそろそろ限界みたい。最近元気がない、って彼らが言っているわ」
「そうか。まあ、このまま様子見に徹していても埒があかないと思っていたところだ」
「じゃあ、仕掛けるのね?」
ひとつのベッドの上で、男と女が話している。
「ああ。どんな訳があるにせよ、俺たちの縄張りに入ってくるのなら、挨拶しなきゃあな。
指揮官はどんな奴だったっけ?」
「若い男。アナタと違って、のんびりした顔をしているわ」
「ハハハ! 可哀想なことを言うなよ。俺と比べたらどんな男だって間抜け顔だ!」
「ええ、そうね」
女は、一糸まとわぬ身体を男に絡みつかせる。男もまた、そんな女を愛おしそうに抱き寄せた。
翌日。
部隊は一路、第一目標である川へ向かっての道を進んでいた。
目覚めたホルスが何事もなかったかのように部隊へ合流すると、すでにキャンプは大方取り払われていた。
「副長。またお寝坊ですか!」とルシアに怒られるホルス。
ひとしきり謝った後、彼は動けるもの全員を集め、これからの事を説明した。
そして、敵に襲われた際の各々の行動も指示。徹底するように言い含めた。
グレアムの仕切りにより短時間で準備を終えた彼らは、予定より早く出発できたのである。
そのグレアムが地図を参照しながらホルスに報告した。
「副長。予定より早いペースで進めています。このままであれば明日の正午には川へとたどり着けるでしょう」
「ダリルの言う通り、荷物を最小限にしたのは正解だったね。みんな頑張ってくれてるよ」
それは珍しいことに、言われたとおりに行動するのが俺の仕事っす、と明言しているダリルからの提案だった。
――武器とかテントとか、かさばるものはできるだけ置いていきましょうよ。
それと動けないやつは荷車に乗ってもらうんじゃなくて、元気のあるやつが背負うんです。どうせ戦うなんて無理なんすから、逃げることだけ考えるなら、荷車なんて捨てちゃったほうがいいっす!
と、非常に的を射ていたのだ。
付き合いの長いグレアムなどは、「ダリルが論理的なことを言うなんて……」と目を丸くしていたほどだ。
ちなみに、ダリル本人はアルマイヤーを背負って、意気揚々と先頭を歩いている。
その状態でも時折動物用の罠を目ざとく発見しては鮮やかに解除するのだから、大したもの。
ホルスは素直に感心していた。
「あの、クレインさん」
後ろから声をかけられたホルスが振り向くと、アリシアが立っていた。
彼女はルシアと共に、数人の兵士に警護されながら進んでいる。
ホルスは彼らに連れ立って歩き始めた。
「ああ、アリシア様。辛くはないですか?」
「お気遣いなく。この三週間でもう慣れました。むしろ楽しいくらいなんです。
それに、私の分の荷物も持っていただいているのに、辛いなんて言っていられません」
なお、アリシアの警護を任されているのは、自称『アリシア様ルシアちゃん親衛隊』のメンバーである。
元駐留兵、兵站部隊問わずに結成された、見目麗しい彼女たちの熱狂的ファンおよそ二十名強。恐ろしいことに、部隊の約半数の人間が加入しているようだ。
そして、現在護衛についている五名は要塞でアルマイヤーらを救出に向かった際にグレアムが選抜した兵站部隊員だときく。
――その存在を聞かされたとき、ホルスは何も言わなかった。
「ところで、クレインさん?」
遠い目をしかけたホルスは、アリシアの声で我に返った。
「なんでしょう?」
「その、背中の物なんですけど、置いてこなかったのですね」
「ああ、これですか」
ホルスの背中の物。それは、あの不思議な剣のことだ。
かつて布に雑にくるまれていたそれは、今やちょうどよい鞘に収まっている。置いてくることになった武器に使われていた物を拝借したのだ。
「まあ、知っての通り何とも不思議な代物ですし。
もっとも武器としては使えそうにないので、お守り代わりです。
それになんといっても私と姫と、少佐の命の恩人……いや恩剣ですから」
「ええ。……でもそれが恩剣なら、クレインさん、あなたは紛れもなく恩人です。
あの時はありがとうございました。王都に帰ったら、ぜひお礼をさせてください。私にできる範囲の事ならさせていただきますから」
「それならば、この部隊の者全員に。私個人は、もう前払いでいただいてますからね」
「え?」
不思議そうな顔をするアリシアに、ホルスは微笑んで言った。
「アリシア様の枕となっていっしょにお昼寝。どうです、国中の男が羨む名誉でしょう?」
「ふぁああ!? お、覚えていたんですか!」
瞬間、周囲を護る『親衛隊』から突き刺さるような視線がホルスに集中した。
なんだそれは!? お昼寝!? 馬鹿な、我らの姫様が!
――悲怒こもごもである。
「えっ!? なんですかそれー! いつ副長とそんな関係になったんですか姫様ー!?」
「誤解ですルシアさん! 掘り返すのもダメです! 命令ですよ!?」
近くで聞いていたルシアが詰め寄るが、アリシアは真っ赤になって手をばたつかせ否定する。
軍人とはいえまだまだうら若い女性であるルシア。この手の話には反応がすごい。
ホルスはその様子を微笑んで見ていた。
――瞬間。
すべての時間が止まったような感覚がホルスを襲った。
騒いでいるアリシアとルシア、地図を眺めるグレアム、腕を振って歩いているダリル。そして、兵士たち。
その誰もが、そのままの姿で死んだように動きを止めている。
木々は色を失い、世界は灰色に。虫の声も風の音もない、全くの静寂。
なんだ、これは?
動いているのは自分だけ。一人だけ別の世界に取り残されたような気分。
『こっちだよ』
誰かが呼んでいる。ホルスはゆっくりと声がした方向に目を向けた。――不思議と、恐怖は感じない。
『こっち、こっち』
進んでいる方向の左、山の斜面。そのずっと先に、複数の赤い何かが見える。
……赤い? この灰色の世界で?
気になって目をこらしてみると、とたんに自分がものすごい速さでそちらに移動を始めた。
――いや、違う。移動したのは視界だけだ。身体は今もそこにある。ホルスは漠然とそう思った。
赤い何か、そのひとつに近づいていくにつれて、それは次第に形をはっきりとさせていく。
人間だ。やや露出度が高い衣装に身を包んだ、妖艶な美女。その近くには数人の男。
その女性だけが、弓を構えている。狙われているのは――私か!
そう理解したとき、すべてが元に戻った。
急速に色を、音を、動きを取り戻していく世界。
ホルスは叫んだ。
「敵襲!! 左斜面に複数、ひとりは弓兵! 全員散開!!」
急なことにほんの一瞬、全員が動きを止める。だが、一秒もたたずに飛び上がるように動いた。
誰かが襲撃を伝えたのなら、考える前に動け。
出発前に徹底させたことだった。
即座に部隊が動き出したことを確認したホルスは、咄嗟にすぐ近くにいたアリシアとルシアを押し倒すようにしてその場に伏せた。
刹那、つい先ほどまでホルスの頭のあった空間を一本の矢が射抜く。
――この森の中、あの距離でなんて正確な!
相手の技量に心の中で驚嘆しつつ、身体の下にいた二人を強引に立たせたホルスは、『親衛隊』と共に敵がいる側とは反対方向に走り出した。
「ふ、副長! なんでわかったんですか!?」
「さあ、なんでかな。私にもさっぱりわからないんだ」
走りながらルシアがホルスに問いかけるも、それは彼にも答えようがなかった。
生まれてこのかた、あのような体験をしたことはないのだから。
「ともかく、いまは走って! 弓兵の女の他にまだ男が数人いるから!」
「はい!? なんでそんなことまで知ってるんですか!?」
「私が知りた――」
言いかけた途端、またあの現象が襲い掛かってきた。
あの女の姿が見える。信じられないことに走りながらも弓に矢を番え、こちらを――。
「くそっ!」
迷う暇はなかった。
自分のわけのわからない感覚を信じて、アリシア達のグループから抜けるように横に走る。
「クレインさん!?」
「『親衛隊』! アリシア様とリリー伍長を頼む!」
ホルスはそう言い残すと、困惑するアリシアをよそにひとりで別方向に走る。
その後を追うように、矢が飛来して彼が駆け抜けていった後の地面に突き刺さった。
女は、自分の弓術に絶対の自信を持っていた。
幾人もの敵をこれで葬ってきた。常人には不可能な距離であっても、私の矢は標的を必ず貫く。
いつも通りに矢を番え、頭を狙う。
彼女の視力は特別だった。この距離でも標的の指揮官が笑っている顔が見えている。
――おやすみなさい。殺気と共に矢を放とうとした、その時だ。
男の間抜け顔が急に変わったかと思うと、次の瞬間には射線上から消えていた。
必殺の一射が、空を切る。
自分の目が信じられなかった。たまたま避けられたのではない。完全に気づいていた。
現に、兵隊たちは蜘蛛の子を散らすようにこちらとは反対方向へと逃げ出していくではないか。
「そんな……気づかれた」
「なに!?」
女の言葉に、彼女と共にいた男たちが驚きの声を上げた。
「どうするんだ、エルヴィ」
「追うわ。あの男は、私が。お前たちは他を」
そう告げるや否や、エルヴィと呼ばれた女は走り出した。一歩遅れて男たちが続く。
走りながらも矢を番え、第二射。――またしても矢は外れる。
彼女は思わず歯噛みした。
あの男はこちらに背を向けていた。なのに、矢を放った瞬間に向きを変えたのだ。
勘がいいのか、運がいいのか。あるいは……
だが、今ので相手は一人になった。これなら、足を止めればそれで終わる。
「逃がさない。あの人のもとへたどり着かれる前に、仕留める」
エルヴィは再び矢を手に取ると、その弓に番えた。
追うものと、追われるもの。狩りは、これからが本番なのだ。