序章 Ⅴ 陥落
アルマイヤーは司令官室へと急いでいた。
道中、数人の暗殺者と交戦したため、アルマイヤーの体には数か所に傷があり、血がにじんでいる。
――昔なら傷など負わずに倒せた。歳は取りたくないものだ。
司令官室のある棟には要塞司令部の高官の部屋、そしてアリシア王女の客間がある。途中で各々の部屋を見て回ったが、物言わぬ骸が転がっているか、もぬけの殻かのどちらかだった。
なお、アリシアの部屋には護衛の兵の遺体はあったものの、彼女本人は確認できていない。連れ去られたのだろう、とアルマイヤーは予測している。
まもなく司令官室だ。扉の隙間から光が漏れているのが見える。人の気配もあった。
(ランス司令官はご無事かッ?)
扉に手をかけようとした、その時である。
「――どういうことなのか、説明してください!」
アルマイヤーの動きが止まる。……いまのは、アリシア様ではないのか?
聞き覚えのある声なのは間違いなかった。殺されてはいなかったようだ。アルマイヤーは安堵する。となれば、彼女はいったい誰に向かって話しているのか?アルマイヤーは聞き耳を立ててみた。
――アリシアの声が続く。
「なぜ、貴方がその襲撃者たちと共にいるのです! 答えなさい、アリスター・ランス大将!」
(何!?)
アルマイヤーは思わず声をあげそうになった。――驚いたその瞬間、注意力が散漫になったのは否めない。
故に、背後に現れた人間に気が付かなかった。
「どうぞ中へ。立ち聞きはあまりほめられませんぞ、少佐」
「――ッ!」
不意に耳元で聞こえた男の声にアルマイヤーは咄嗟に振り向いて拳を放つ。
……が、手ごたえはなかった。代わりにすさまじい衝撃がアルマイヤーの身体を吹き飛ばす。
「ぐぉおおお――!!?」
アルマイヤーの身体は扉を突き破り、司令官室の中へ。勢いのままに壁に激突して止まった。
視界は朦朧として、体の至る所から痛みが走る。いま自分が何をされたのか、アルマイヤーにはまるでわからなかった。年老いたとはいえ大柄な自分の身体をこうまで吹き飛ばせるとは。
それでも意識を手放すまいと歯を食いしばり、アルマイヤーは自分を襲った相手の方を見た。部屋の明かりが入ってきた男を照らす。
――柔和な顔立ちに、眼鏡。やや小太り。見覚えのあるその男に、アルマイヤーもにわかには信じられなかった。
「貴様か! ウィンストン・ブルック!!」
その男――ブルックは、いままでと何も変わらない笑顔をアルマイヤーに向けた。
アリシアは、自分の後ろで大きな音がしたのに驚き、振り返った。
そこには、アルマイヤーが壁にもたれかかっている姿があった。次に、突き破られた扉から入ってくる男性の姿。
「貴様か! ウィンストン・ブルック!!」
アルマイヤーの声だ。アリシアは、思わずアルマイヤーに駆け寄った。
「アルマイヤー少佐!」
「姫様……?ぐっ!?」
アリシアの声を聴いてようやく完全に覚醒したのか、アルマイヤーが立ち上がる。彼は満身創痍だった。今の拍子にどこかにぶつけたのか頭から血を流し、軍服の至る所が裂け血がにじんでいる。
「姫様、私の後ろへ」
アルマイヤーがアリシアを庇うように前に出た。
襲撃を受けてから、暗殺者にここに連れてこられるまでアリシアはひとりだった。頼みの綱と思っていたアリスターは敵と共にいて、何も語ってくれない。
そんな中、アルマイヤーの傷だらけの身体がアリシアにはひどく頼もしく見えた。以前にもう五十歳を過ぎだと笑っていたが、年齢を感じさせない覇気がある。
アリシアは、視線を部屋の中へと向けた。
執務机には、アリスターが座ったままだ。その両脇に、彼を護るように暗殺者が2人。そちらに向けて、こつこつと音をたてて歩み寄る男。先程、アルマイヤーがブルックと呼んでいた男だ。
「ブルック、貴様、スレンドガルドの手の者だったか」
「……そうでもあるし、そうでないとも言えます」
睨みつけるアルマイヤーに、ブルックは肩を竦める。どこか、不気味な感じだ。アリシアはそんな感覚を抱いた。
アリスターの机にブルックが腰を預けた。傍から見れば無礼な行為ではあるが、当のアリスターは何も言わない。
「私はスレンドガルド王国に雇われている身です。この要塞にはスパイとして潜り込んでいた。
要塞を無力化させよとの依頼でしてね。この三年ほど、まあ下準備をしていたわけです」
三年……すると、ハンサの戦いの翌年から? アリシアは戦慄した。
(スレンドガルドは、いままでの四年間攻めあぐねていたわけではなかった……!虎視眈々と、要塞を攻略する算段を水面下で練っていた。
――お父様の危惧は正しかったんだ!)
「そう、ゼノバン一世陛下の考えは正しかったのですよ、姫。アレクシス一世はこの国への侵攻を決して諦めていなかった。それを平和ボケしたあなた方ときたら、この四年間何もせずに現状維持で満足していた」
アリシアの心を見透かしたようにブルックが詰る。彼の言葉は続いた。
「実際のところ、ふた月ほど前にほぼ準備は完了しておりましてね。あとはきっかけ待ちだったのですが、折よくアリシア姫、貴方が来訪されるときた。それを契機とさせていただいたわけです。
――何をしに来られるのかは知りもしませんでしたが、まさか兵を半分引上げさせろとは! ゼノバン一世に最も近いあなたがそんな考えを持っていることに、失礼ながら大爆笑でしたね」
「……そんな」
ブルックのいうことにアリシアは言葉を失った。――それでは、自分が今回の引き金を引いてしまったようなものではないか。
「姫様、奴の言葉に惑わされてはなりませんぞ」
崩れ落ちそうになっていたアリシアは、厳しくも優しげな声に引き留められた。
アルマイヤーが、こちらを見ていた。彼は、ブルックの方に再び顔を向けた。
「貴様の任務とやらはよくわかった。――答えろ。ランス司令官に何をした」
アルマイヤーの言葉にアリシアははっとして、アリスターの方を見る。
一言も話さない司令官。冷静になってみれば、先程から表情一つ変えないうえ、あまりにも静かすぎる。
クックッ、とブルックが笑っていた。
「なに、ちょっとした暗示ですよ。彼の意識を縛り、傀儡とする。私が最も得意とする術でしてね。他の人員もほとんどが私の操り人形です。うまく術が効かなかったものには、今回死んでいただきましたが」
「……貴様、何者だ」
アルマイヤーが唸る。ブルックはその笑顔を僅かに歪めた。
「魔法使いです。アハハハハ!!」
「……ふざけたことを」
「おや、信じていただけないので? 先程貴方を吹き飛ばしたのも魔法の力ですし、それに」
次の瞬間。ブルックがいきなり目と鼻の先に現れた。
「――ほら、こんなこともできてしまうのですから」
アリシアもアルマイヤーも言葉を失った。決してブルックが動いたのを見逃したわけでは無い。目の前にいきなり現れたという他なかった。
アルマイヤーが拳を突き出すが、空を切る。ブルックは再び執務机に腰かけていた。
「むぅっ、化け物め!」
「酷い言いぐさですな。そんなことを言われると、悲しくて悲しくて――殺したくなります」
ブルックが右手をゆっくりと前に突き出す。すると、信じられないことにその手のひらから火の玉が飛び出した。火球はどんどんと大きくなり、やがて人間の頭より二回りほどのサイズになる。
「誠に残念です、少佐。貴方はよき同僚でありました。短いながらも一緒に仕事ができてよかった。
……ああ、アリシア姫はまだ利用価値があります。そのまま動きませぬように」
アリシアはぞっとした。
自分もなにかしらの魔法で暗示をかけられて、あの男の意のままになるというのか。
「姫様、奴の狙いは私です。あの火の玉が放られたら、出口まで走りなされ!」
「アルマイヤー少佐、そんな!」
アルマイヤーが叫んだ。彼は既に自分が盾になるつもりでいる。アリシアにもそれがわかった。
火球の熱は自分たちがいるところまで届いている。相当な熱量だ。あれを受ければ、まず助からないだろう。
ならば、とアリシアは、震える脚を無理やり鎮め、逆にアルマイヤーの前に出た。
「やめなさい! この身が必要なのならば捧げましょう。ですから――!」
しかし、アリシアの覚悟に、ブルックは首を振る。
「いえ、なければないで問題ないので。面倒ですからどうぞお二人で仲よくお逝きなさい」
軽く腕を振り上げるブルック。アリシアは絶望した。あの火球がどれだけの速度で放たれるのかはわからないが、あの男が仕損じるとも思えなかった。
(私は、なんと余計なことをしにこの要塞に来てしまったのだろう)
――その時だった。
「隊長、ここですかー!?」
誰かが部屋に入ってきた。アリシアも、アルマイヤーも、ブルックもその声の主に目を向けた。
そこには、アリシアにとっても見覚えのある男性がいた。
ホルス・クレインが司令官室にたどり着いた時、目の前には何とも奇妙な光景があった。
アルマイヤーを庇うようなそぶりをしているアリシア姫。無表情に椅子につくアリスター。
――そして、不思議なことに火の玉を掲げるブルック。
この現場で、一番最初にホルスに声をかけたのはアルマイヤーだった。
「クレイン!? 一人で来たのか?」
「いえ、それが途中で暗殺者に囲まれまして。部下が『ここは我々に任せて先に行ってくれ』と」
と、ホルスは答えた。アルマイヤーは何とも言えない表情を浮かべている。
ホルスはブルックに顔を向けた。
「こんばんわ、ブルック監督官。その火の球は置いといても、この状況を見るに貴方が裏切り者ということでいいのかな?」
「ええクレイン中尉。そのとおりです。ではさようなら」
ブルックは何の躊躇いもなく、ホルスに向かってその火球を投げつけた。
「わぁっ!?」
ホルスは咄嗟にもっていた軍用剣で防ごうとする。が、刃が火の球に触れた瞬間、その部分がドロドロに溶けていくのが見えた。彼は剣を手放すと、勢いよく転がって回避した。
目標を失った火の球は、壁に当たって抉るようにその部分を燃やした後に鎮火する。
石の壁には大穴があいていた。
「……どうも、手品ではないようで」
「この状況で、その言葉が出てくる胆力。やはり貴方は憂慮すべき人物です、クレイン中尉殿!」
再び手から火球を生み出すブルック。
「初めてお会いした時、貴方は以前に会った、と私のことを覚えていた。私はこの要塞にいる間、自身に印象を限りなく薄くする魔法をかけていたというのにね」
「ま、まほう?」
「そうです! なんとなく見たことがある、というだけなら私の魔法にちょっとした耐性があるだけかと思いましたが、忘れていたのに思い出す、となれば話は別だ。
――生かしておけば、後々私の脅威となる可能性がある人物なのです!」
火球が放たれる。今度は二個、三個と続けざまだった。ホルスはひたすら逃げに徹するが、ジリ貧なのは明白だった。
その様子を見ていたアルマイヤーが叫ぶ。
「クレイン、何か手はないのか! このままではいずれやられるだけだぞ!」
「な、なにか、と言われてもそれこそ今は運まかせで――!」
そのときだった。ホルスの足が何かにつまずき、バランスをくずして転倒した。拍子に手のひらに傷を負い、出血する。
その致命的な隙を見逃すブルックではない。
「おやすみなさい、中尉――!」
火球が迫る。――冗談じゃない、永遠に目覚めない昼寝なんてしてたまるものか!
ほとんど無意識に、ホルスは自身の背中に手を持っていく。彼が背負っていたのは長さ百三十センチほどの布に巻かれた何か。
ホルスはそれを思い切り振りかぶると、迫る火球に向かって叩き付けた。布が焼け、中身が露出する。握る手に灼熱を感じるが、いまはそんなことを気にしてはいられない――!
「何っ!?」
ブルックの口から驚きの声が漏れる。その光景は、アリシアやアルマイヤーもあっけにとられるものだった。
剣が、火球を跳ね返したのである。
火球は、術を放ったブルックへと一直線に向かった。
「くうっ!?」
たまらずブルックが執務机から転げて回避する。その後ろには、アリスターを護るように立っていた暗殺者がいた。
避ける間もなく、その身体が火球に襲われる。
「ギャアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!」
響き渡る男の悲鳴。肉の焼ける匂いがする。数秒でその身体は黒焦げとなり、床にどう、と倒れた。
「な、な、なんです!? それは!」
自分の絶対的な優位性にほころびが生まれたことで、ブルックは軽くパニックになっているようだ。
ホルスにも何が起きたのかはわからない。だが、今は。
「隊長、アリシア姫を連れて逃げましょう! 今のうちです」
「よし! 姫様、失礼いたします!」
「は、はい……!」
アルマイヤーのたくましい腕が、アリシアを抱え上げる。
「に、逃がしませんよ!」
再び火球を放つブルック。だが、ホルスは冷静にその火球に剣を合わせる。
再び剣は火球を跳ね返し、今度は天井へとその向きを変えさせた。
天井に火球が突き刺さり、爆発音が響く。パラパラと破片が降り注ぐ。
その隙に、ホルスたちは部屋を脱出した。
残されたブルックは、生き残った暗殺者に叫んだ。
「追え! 殺してあの剣を私のもとへ持って来い!」
命令を聞いた暗殺者は、部屋から風のように出ていった。
それを見届けて、ブルックは独りごちる。
「あの剣、ボロボロのようだったが、まさか『魔剣』では……?
どうやってホルス・クレインがあれを?」
彼は第六倉庫からでてきた物のことを聞かされていなかった。とるに足らないガラクタであるとアルマイヤーが報告しなかったためであったのだが、そんなこととはつゆ知らずに訝しむブルック。
――そして、彼は気づいていなかった。自身がコントロール下に置いているはずのアリスターが、その口元にわずかに笑みを浮かべていることを。
ホルスたちは夜の要塞をひたすらに駆け巡っていた。途中、ホルスと共に行動していた5人の部下とも無事に再会した。彼らもまた傷だらけであったが、聞けば暗殺者たちととてつもない死闘を繰り広げていたのだとか。
いったん身を隠し、互いに情報交換する。その後、アルマイヤーがホルスに尋ねた。
「――クレイン、これからどうするつもりだ」
「クィン准尉たちに要塞脱出の準備をさせています。彼らと合流して、東に逃げましょう」
「東?……ゼス山の中に逃げ込むのか。だが、なぜそちらなのだ。南にはカイム集積所があるというのに」
カイム集積所は彼ら兵站部隊の本拠地である。だが、ホルスは首を横に振った。
「司令官室に行く前に確認してきましたが、南方面の正門は既に封鎖されていました。開けている間に敵に囲まれかねません」
「囲まれても、あの暗殺部隊となら我々の方が数は上だ。正面から戦えば突破はできるだろう。ブルックが出てきてもお前の剣があれば……」
「いえ、暗殺部隊の方は正直どうでもいいんです。問題は、消えた駐留兵二百名の方で」
「なに、駐留部隊が消えた!?」
アルマイヤーにとっては初めて聞く情報だった。ホルスは頷いた。
「詳しい話はあとで。まずはクィンたちと合流しましょう」
彼らの待つ兵舎はもうすぐそこである。ホルスたちは再び立ち上がった。
「――そうですか、やはりこの要塞はもう」
「ああ、だから東に逃げる。すぐにでも行けるね?」
グレアムらと合流したホルスは、先だって起こったことを全員に説明した。生き残った者たち――特に駐留兵は信じられない、といった表情をしていたが、アルマイヤーと、何より王女アリシア・フィニクスの言葉に真実であることを悟らざるを得なかった。
「クレイン、先程の話だが、駐留兵二百名はどうなっているとおまえは思うのだ?」
「魔法とやらがどれほどの効力なのかわからないので想像でしかありませんが。
……ブルックが三年かけて暗示をかけて回っていたのなら、彼らはおそらくブルックの私兵として動かされているのでしょう。どこかに集められているのか、隠れるよう指示されているのか。
暗殺部隊は、それでもなお残っている人間を殺しに来た。今生きている兵士は、ブルックの魔法に多少なりとも抵抗力があるんでしょう」
「ふぅむ。ではここで時間をくえば……」
「はい。私兵と化した彼らに囲まれれば二百対五十。しかもこちらは戦闘経験のない人員が多くまじっている。勝負になりませんよ」
アルマイヤーは唸って黙り込む。
まもなく、ホルスのもとにクィンが現れた。
「副長、東門は施錠されていましたが、開けるのは容易でした。いつでも行けます」
「よかった。――隊長、いいですね?」
「無論だ。……全員出発。急いでゼス山に潜り込むぞ!!」
アルマイヤーの号令で、兵士が一斉に動き出した。輜重車は兵站部隊が運び、その外周を駐留部隊が囲み、護衛する。即席五十名の部隊は、ハンサ要塞の東に広がる山林を目指して進みだした。
アルマイヤーは、アリシアに付き添っている。馬が手に入らなかったので、王女とはいえ歩いてもらわなければならない。もっとも、それを辛いと駄々をこねるようにはホルスには見えなかったが。
ホルスは兵站部隊に交じって輜重車を曳いていた。今はただ、逃げる事だけを考えていればいいが――。
(今後のことを考えると憂鬱だよなぁ……。それに)
自分の背中に感じる重み。それは今夜、ホルスらを救ったあの剣。
「これの正体も、突き止めなきゃならないよね……」
進行方向は東、進む先が明るい。まもなく日の出である。
だが、この国の未来は、まさにこれからが夜となるだろう。ホルスはそんな予感を覚えていた。
大陸歴2326年。フィニクス王国の要衝、ハンサ要塞は一夜にして陥落した。
――止まっていた歴史が、動き出す。