序章 Ⅲ アリシアという女
アリシアの命令は、一同を騒然とさせた。
呆れたように何も言わない者もいれば、立ち上がって声を荒げる者もいる。
そんな中、司令官であるアリスターは命令を発した彼女をじっと見据えていた。
アリシアもまた、彼から目を離さない。
――にじみ出る高貴さというものが、アリシア・フィニクスには備わっていた。
王族としての教育によるものもあるが、それ以前に、彼女の際立った容姿が見るものにそういった印象を与えるのだ。
思わず見とれてしまうほど整った顔立ち。
無駄なく均整の取れた身体。
そして、王族の証ともいわれるプラチナブルーの髪は美しく透き通り、宝石のように輝く。
「……理由をお聞かせ願えますかな、姫様?」
そんな王女に気圧されたわけではないが、先に口を開いたのはアリスターの方だった。
静かな彼の言葉に、ヒートアップしていた部下たちも押し黙る。
「ご存じのとおり、この要塞はスレンドガルドに対する防衛の要。
先の侵攻から四年間、いまのところかの国もおとなしくしてはおりますが、いつまた攻めてこないとも限らない。
……そのような情勢で、最たる理由もなく兵を退くことなどはできませぬ。
どうかご説明いただきたい」
落ち着いた声ではあるが、明確な理由なくしては動かない、そういう意思が感じられる。
アリシアは、一度息をふっとついてから、アリスターに応えた。
「父……いえ、ゼノバン一世陛下は、近日中に国内全土に強制徴兵令を発布しようとしています。
私は、それを阻止したいのです」
「――ほう」
室内にざわめきが起る。さほど動じていないのはアリスターぐらいであった。
数年前、ゼノバン一世が実施しようとして、貴族の強い反対によって頓挫した徴兵令。
それを今回は強制的に実施すると、アリシアは告げたのである。
「軍を預かるものとしては、願ってもない話ですな。
常備軍の強化は必要不可欠であると私も思っています。現状、有事の際には貴族より資金を募り、傭兵を雇ってもよいということになってはおりますが、傭兵は士気に乏しく、また指揮系統の確立も難しい。
この先の対スレンドガルド戦を考慮しても、徴兵はいずれ必要となるでしょう」
淡々と語るアリスター。だが、アリシアは首を振った。
「ですが、強制的な徴兵に踏み切るのは急すぎます。
ハンサの戦いから四年、小規模な衝突も見られなかったことで貴族の中では戦費の調達すら渋るものも出てきているのです。
――いま強行すれば、国が割れます」
傍で聞いていたアルマイヤーにも、国家分裂はありうるだろうと思えた。
建国から五百年、王族の力は衰える一方である。建国から続く名家などは、王の命令を無視する事もあるという。そんな中での徴兵令の強行。
まるで陛下は――
「……陛下は、焦っておられるように私には見えます」
そうアリシアは続けた。アルマイヤーの抱いた感想と同じであった。
「今回のことも、陛下は自身の側近である者たちで話を進めておりました。
私が徴兵のことを知って国が割れると掛け合っても、陛下はただ一言、『だが、このままではアレクシスに潰される』と」
「アレクシス一世……スレンドガルドを、陛下は恐れていると?」
アリシアは無言で頷く。
「ふうむ、陛下のことはよくわかりました。……それで、その徴兵令の阻止と今回のご命令、どうつながるのですかな。
失礼ながら、これは姫様の独断でいらっしゃいましょう。陛下が許可なさるとは到底思えませぬ」
アリスターの疑問ももっともだった。
この命令は、ゼノバン一世の方針とまるで真逆をいく。王の命に背いてまで遂行することで、どうなるというのか。
アリシアは一呼吸おいて答えた。
「……私は今回、視察という名目でこちらへうかがいました。その結果として、現在の情勢では兵の人数が過剰であると報告を致します。
そこで王族の特権を行使、司令官であるランス将軍に快く許可をいただいて、半数の兵を一時帰国させます。
赴任している兵が戻れば、民たちに国境では四年間何も起きていないと思われるでしょう。厭戦感情も増します。
私は民意によって、陛下に再考を促したいのです」
「……なるほど」
アリスターは目を閉じて聞いている。王女の言葉を反芻しているようだった。
――やがて一言、アリシアに告げた。
「完全には同意できませんな」
「……っ。ランス将軍……!」
アリシアが思わず立ち上がるが、アリスターは意に介せずに続ける。
「姫様のお考えには確実性がない。
ご命令通りに退いたとして、陛下のお考えが変わらなければ?
一時的な撤退とはおっしゃいますが、その間に攻められたらどうしろと?
そして、王の方針にその娘までもが背いたとなれば、王の権威はさらに失われますぞ?」
「それは……」
アリシアは答えに窮する。他の将官たちも司令官の言葉に同意するそぶりをしている。
「――ですが」
と、いったん言葉を切るアリスター。アリシアが顔を上げる。
「国の分裂の危機は見過ごせることではありません。
兵の半数は不可能ですが、百名を連れて王都へお帰りください」
司令官の言葉に諸将が疑問を抱く。
百名とは確かに半数ではないが、常駐している兵の三分の一に相当する。それでは半数と変わりないではないか。
「今回の視察のために、カイム集積所より六十名を招集しておりました。
彼らと要塞の兵士五十名で計百十名。うち十名ほどは民間から雇った人間ですが、兵士は百名です。これで恰好は付くでしょう」
「は、はい……ありがとう、ございます」
完全に納得できたわけではないが、アリスターの厚意にアリシアは頭を下げた。
――そもそも急な話であったのだ、この百名を連れ帰った実績を武器として戦う他ない。
「姫様。心配されずとも、陛下は聡明なお方です。国が分裂する恐れがあることも承知されているでしょう。
それでも強行することを決断されたのであれば、それには大局を見据えたお考えがあってのこと。わかって差し上げるのも娘としての務めだと、私は考えます」
「……はい」
「賢明です。それでは、こちらにもいろいろと準備があります。出発までに一週間の猶予をいただきたい。
……さてアルマイヤー少佐、突然で悪いがそういうことだ。貴官に兵士五十名を預ける。詳細を詰めておいてくれ」
アルマイヤーは承知いたしました、と一言答えると、アリシアに向かって一礼する。
――諸将が退室し、部屋に残ったのは主であるアリスターひとりとなった。
時刻は間もなく夕方。
窓からは夕日が差し込み、彼の体に影を作り出している。
「……そうです、姫様。国王陛下は大変聡明なお方です。アレクシス一世の事をよくわかっている」
アリスター・ランスはひとり呟く。
「この要塞は要なのです。失えば、戦局は大きく傾くでしょう。……そう、失った時には、もう遅い……」
窓際から、鳥が一羽はばたいた。
あれから四日が経った。
アリシアは今、要塞の外周を囲む防壁の上を歩いている。
彼女の存在は秘匿されており、兵士たちには出発の当日に伝えられることになっていた。兵の一部が王都に向けて帰還するということのみ知らされており、各所はその準備の最中である。
そんな中で彼女の外出が許されたのは、アルマイヤーの厚意によるものだった。
王都帰還の指揮官兼、王女の警護責任者に任命された彼は、本来客間の中で引きこもらなければならないアリシアに散歩を勧めたのである。
無論、フード付きのローブで顔を見られないようにしているが。
――ずっと部屋の中では、息が詰まりましょう。
護衛は目立つのでつけられませんから、移動を許可できるのは一部の場所だけですが。
一度、兵たちの様子を見てみるのもよろしいかと。良い経験になるはずです。
普段は王宮にいるアリシアにとって、要塞の兵士の姿は新鮮に映った。
王宮に詰めている兵士たちは、自分の姿を見れば直立不動、職務に忠実な行動をとる。それは仕方のないことだが、彼女としては一人の人間としての姿を見ることができないのが残念ではあったのだ。
アリシアの存在を知らない彼らは、普段通りの仕事をしている。
防壁から下を見てみれば、忙しく走り回っているもの、同僚とゲームに興じているもの、鍛錬を行っているものと様々だ。
アリシアはひとり呟いた。
「彼らがこの国を護ってくれている。……それを王の命令で壊してしまうことは、あってはならない」
もうすぐ防壁の端に到着する。
そろそろ戻ろうと踵を返そうとしたときである。
「あら?」
アリシアは、その防壁の端に兵士がひとり寝転んでいるのを見つけた。
彼女は一瞬躊躇したが、意を決して近づいてみた。
もしかしたら、具合が悪くて倒れているのかも。そう頭をよぎったのもあるが、ちょっとだけ、話を聞けるかもしれないという好奇心もあった。
「軍人さん、よね?」
――その兵士は、どこかのんびりとした顔の男だった。年齢は二十二歳の自分とそう変わらなく見えるが、あまり兵士には見えない。
軍服を着ているので、軍人に間違いはないのだろうが……。
彼は腹部に広げた本を伏せたまま、よく眠っている様だった。また器用なことに、なぜか火のついていないパイプを口にくわえたまま、である。
その様子が、アリシアにはどこか可笑しかった。
「よく、眠っているわ。起こしてお話を聞くわけにはいかないわね」
なんとなく、アリシアはその男の隣に腰を下ろしてみた。
同年代の人間、しかも男性とそうそう接点のないアリシアにとっては非常に珍しいことだったが、この時の彼女は不思議と警戒心を持たなかった。
つい、ちらちらとその男の方を見てしまう。
――なんとも幸せそうな顔だ。
「……外で眠るのは、そんなに気持ちいいのでしょうか」
時刻は午後のはじめ。ちょうど暖かくなってきた頃である。
しばらくの間、理由もなくその男を観察していたアリシアに、徐々に睡魔が襲ってきた。そういえば、最近はあまり眠れていなかったのだ。
――こんなところでお昼寝なんて、はしたないわ。
そう頭では思いつつも、迫りくる眠気に耐えられずに、アリシアはゆっくりと微睡んでいった。
ホルス・クレインはといえば、降って湧いた休暇を満喫していた。
例の石箱から剣モドキが見つかった日。
一応そのことを報告しようとするも、アルマイヤーには会えずじまい。
次の日呼び出されたかと思えば、
『一週間後に王都へ行くことになった。それまで要塞で駐留することになる。隊員にもそう伝えといてくれ』
と、いきなり言われたのである。
詳細を聞いてみたが、守秘義務があるから言えん、の一点張り。
仕方がないので、一週間何をすればいいんですか、と伺うと、
『全員の準備を終わらせたら、あとは休暇に充ててよい。司令官閣下にも許可は取ってある』
とのことだった。
――ホルスは全力で部隊の詰所にダッシュ。
部下たちにそのことを伝え、最高効率で部隊編成を終了。その日の内にはすべての準備を終わらせてしまった。
ダリル・ウェルトン曹長は語った。
『あれほど鬼気迫る副長は久しぶりに見たっす』、と。
そんなこんなで六日間の休みを勝ち取ったホルスは、資料庫から本を数冊借りてくると、気に入った場所を見つけては本を読んで昼寝をする、という生活に移行したのである。
ちなみに、例の剣は報告を忘れ去られたままホルスの部屋に置かれっぱなしとなっている。
そして、今日。
ホルスはいつものように昼寝から目覚めたが、同時に違和感を覚えていた。
……なぜか、胸のところが重い。おまけに、どこか体が動かしづらい。
カランッと音がした。それは、咥えていたパイプが落ちた音であった。
それを拾おうとして、ふと、視線を下に持っていくと、何やら見慣れない光景が広がっていた。
――自分の胸を枕に、誰かが横になっている。
なるほど、これは動きにくいわけだ、などとホルスは妙に冷静になっていた。無理やり動いて起こすのもなんとなくかわいそうな気がしたので、とりあえず観察してみる。
顔は自分の足の方に向いているので、見えない。
フード付きのローブを着ているので、男女の判別もつけがたい。
……仕方ないので、女の子だったらいいな、と思うことにした。
とはいえ、寝起きのままの体勢でいるのは辛いものがある。可能な限りゆっくりと、かつ胸部にはあまり振動がないように、細心の注意を払って体を伸ばそうと試みた。
すると、自分の腹から何かが滑り落ち、パタンと音を立てる。ホルスが寝る前に読んでいた本だった。
「んぅ……」
ホルスの努力もむなしく、謎の人物が目を覚ましてしまう。
声の感じから女性だとホルスにはわかった。
それはのそりと起き上ったと思うと、ん。ん。と妙な声を出しながら目をこすっているようだった。
……あまり寝起きはよくないのかもしれない。
その時である。
違和感があったのだろう、無意識にかその人物はローブのフードを脱いだ。その下から、美しいプラチナブルーが露わになった。
日の光によって照らされたその髪は、ホルスが今まで目にしたどんなものよりも光り輝いているように見えた。
思わず彼は、
「う、わぁ……」
と声にならない感嘆を漏らしてしまう。
その声が耳に届いたのだろう。女性は、瞬間的にこちらを振り向いた。
ばっちりと目が合う。しばらく見つめあう2人。
女性の顔が赤く沸騰した。どうやら、自分がどうしていたのかようやく理解したらしい。
――ええと、ここはなにか気のきいた台詞を……
「あの、よく、眠れた?」
「ひゃあああああああああああああああああああああ!!!」
女性――アリシアの悲鳴が大空にこだまする。
うーん、言葉の選択を間違えたかな、とホルスは反省したのであった。