廿楽投手、魔球を投げる①
溝浜爛漫高校から移動する事およそ五分、敦士は国立練習場と呼ばれている国立三ツ矢公園にへと到着する。
この国立公園には陸上競技場やサッカーコート、テニスコート。そして規模こそ小さいものの、学校の校庭よりも設備が整っている野球場が設営されており、敦士達も休日に他校との練習試合を組むのによく使用していた。
陸上競技場は普段、宮田らが所属する溝浜爛漫高校の陸上部が使用しているのだが、その他の施設は溝浜国立大学の運動部が使用している筈の三ツ矢公園。
しかし、この日はいつも野球場を使用している筈の大学野球部の姿が見えなかった。
サッカーコートやテニスコートはいつも通り、大学の選手達が使用しているからか賑やかな様子が見て取れるが、何故か野球場だけが静まり返っている。
時刻は午後四時、大学の野球部というのは選手毎に授業が終了する時刻が違う為にグラウンドを使用し始める時刻が早くなっても、ここまで遅くなる事は無い筈であった。
しかし敦士はその理由についてはそれとなく勘付いていた。そして恐らく、すずめは本来は大学の野球部が使用する筈だった、この野球場に居るのだと確信する。
こうして野球場にへと到着した敦士。恐る恐る球場の外から、グラウンド内部の方に向け目を凝らす。
(うわぁ……、いるよ、仁王立ちしてマウンドで待ち構えてるよ……)
ここに居るだろうと予測していた敦士だが、本当に待ち構えているすずめの姿を見ると、改めてその底知れない恐ろしさに心が震え出す。
覗きこんだ敦士の瞳にはマウンドで腕を組みながら仁王立ちをする廿楽すずめの姿が映し出されていた。
遠目からなので表情まではよくわからなかったものの、きっと先程部室の中でも見せていた不敵な笑みを浮かばせながら、敦士の事を待っているのだろう。
背丈で言えば女性にしては高いとはいえ一八〇センチはある敦士よりも低く、見た目だけみれば可愛らしい少女。その筈なのに、マウンドに立つその少女は途轍もない威圧感を身に纏っている。
敦士は恐怖を感じていた。
昨日は思いっきり胸倉を掴んで思いを滲ませたり、教室でも散々過去の事を愚痴っていた少女が、ユニフォーム姿を見せ本気で対峙しようとしている。
その癖、自分を呼び出すために態々愛用のミットを奪ったり、野球部の仲間に手を掛けたりまでしているのだ。
そこまでして、彼女は自分に何を期待しているのだろうか。
そして期待に副えなかった場合、自分はどうなってしまうのだろうか。敦士は気が気で無かった。
(とにかく、ここで全てを解決させなきゃこれから先、前には進めない……)
しかし恐怖を押し殺し、前へと進む決心をした敦士。
球場に入る為の金網フェンスのドアを開けると、敦士はすずめの待つマウンドへと駆けて行く。
「廿楽さん、ミット返してもらいますよ」
「……やっと来ましたね、待ち構えておりましたわ」
想像通りの笑みを浮かばせながら、そう語るすずめ。
百葉の肩を治していた時間を合わせても、この球場に到着するまでの差は二、三分程度しか違わなかった筈だが、その発言は雰囲気作りなのだろうか。
それともすぐに追いかけてくれなかったことへの不満だろうか、不敵な笑みを浮かばせながらもすずめの瞳は鋭く、緊張する敦士の表情を見据えていた。
「そんな神妙な面持ちで構える必要などないですわ、このグラウンドは私と敦士様の二人だけ。今日は貸切でございますので、共に気楽に語らいましょう」
「やっぱり、溝浜大学の野球部員がいなかったのはそのせいでしたか」
敦士は予想していた。この日、大学の野球部がこの練習場を使用していなかったのは、廿楽すずめがグラウンドを占領したからなのではないかと。
ありえなくはないと思っていた。なんて言っても話に聞くと、廿楽すずめと言う投手は規格外の化け物投手であり米国では注目されてきたのだ。
米国、少年野球界のメジャーリーグとも呼ばれるトラベルボールリーグで頂点に立つことが出来るというのなら、スポンサー契約等の話も出ていた筈である。
敦士はまだ、すずめが有名トレーナーと資産家の娘と言う事は知らなかったものの、経歴を考えると金銭面ではかなりの余裕があるのではないかと察していた。
そしてそんな海外では無双出来る程の選手であるすずめが、わざわざ野球の為に日本に渡って来たのだ。野球の練習ができる場所ぐらいは確保していてもおかしくはないだろう。
キャッチボールをした時から、実力の程は何となく計れてはいたものの。敦士は廿楽すずめという人物が規格外である事を突きつけられ表情を曇らせる。
そんな表情の敦士を前に、すずめはゆっくりとした口調で語り出した。
「……なぜ中学野球頂点のチームに所属した貴方が、こんな弱小野球部に居るのか。……実際に話すまでは理解に苦しみましたが、やっと理解出来ましたわ」
表情を引きつらせていた敦士とは対照的に、とても落ち着いた雰囲気でこう語るすずめ。
転入生として紹介され敦士の席の隣に座った後、彼女は昔話の他にも、敦士に対し何故こんな高校に居るのかを問いただしていた。
そこで敦士はすずめに対し、自身は幼馴染の船坂空と言う天才投手に指名されマスクを被っていた事。そして自身は野球選手として何一つ取り柄が無い事を赤裸々に語ったのである。
最初は怪訝な表情を見せていたすずめだが、真剣に話す敦士の表情から嘘をついている訳ではないと、納得した様子で頷いていた。
所属しているチームやその成績はインターネットを通じて理解する事は出来るが、一人の選手の良し悪し等は実際にプレーしている風景を見ないと分からない。
そこで敦士はインターネットで得た間違った情報で語るすずめに対し、その誤解を解くように自らの無能さを告白したのであった。
すると効果はてき面だった。その後はすっかり黙り込み、部室に辿り着くまで何も口を利かなかったすずめに対し、敦士は彼女が自分に興味を失くしたのだと思っていた。
……だが、今の状況を考えると、やはり誤解は解けていないのだろう。
すずめは敦士の目を見つめながら堂々とこう言い切った。
「貴方は自信が無かっただけですわ。貴方の相方だった船坂空だけが注目され続け、自身には才能が無いと決めつけてるだけじゃないかしら?」
「……まるで俺に才能があるみたいな言い分すね」
「才能に気付けなかったから、貴方は船坂空と言う人物に自分の理想を押し付け、自分とは関わる事が無いであろう世界へと追いやった」
「……あ?」
彼女の口から出た才能という言葉を受け、思わず口調が変わり出す敦士。
しかしすずめは敦士の変化も気にせずに話を続けて行く。
「パワフルな打撃や華麗な守備、素早い走塁。そして力と技で捻じ伏せる投球。私の様な天才になるとその全てを持ち合わせてしまうのですが、所詮そのようなモノは目に見える才能でしかありませんのよ」
「……なら、俺は目に見える才能ではない、目で見れない才能を持ってるとでも? けど所詮それは、自分でも納得できるような才能では無いな」
すずめの発言を受け、その独特な言い回しにカチンときそうになる敦士であったが、拳を握り締め堪えようとする。
彼女が何を言いたいのかは何となくわかった。
要は敦士には、目に見えない形の才能があると言いたいのだろう。
その点については敦士も自覚はしていた、
しかし見た目より中身が重要と人は良く言うものの、やはり人が憧れるのは外面なのだ。
だからこそ敦士が憧れたのは、次々と打者を捻じ伏せた天才投手、船坂空という人物だった。
彼が捻じ伏せる投球で世間を沸かせたように、敦士も打って、守って、走って。幼馴染である空の横に並びたい。
けれどそんな敦士の想いは叶う事が無かった。だからこそ、敦士は空の事を自分よりも優秀な捕手が居るであろう名門チームにへと託したのであった。
しかしすずめは彼の想いもお構いなしに、次々に言いたい事を言い放ってゆく。
「貴方の理想には反するかもしれないけれど、捕手というのは目に見えない形の才能が一番必要とされるポジションですわ。きっと船坂空と言う方も敦士様のその才能に気づいて組んでいらしたのでは?」
「けどアイツは宗界大相良で結果を出してる。俺よりも打てる捕手と組んで、一年でエース張れる選手になってる」
段々と反論の口調も強くなってくる敦士。
実際のプロ野球の世界でも、見えない才能、つまり投手と捕手の相性は重要であるという風潮は少なからずとも存在する。
捕手が変わった瞬間チームの投手陣が崩壊したり、急に成績を良くしたりというのは、野球ではよくある事だ。
けれど空は敦士と離れてもきちんと投げれている。それはバッテリー間の相性が問題では無かったという事を意味しているのだろう。
だからこそ敦士は自身の取った判断に間違いは無かったと思っていた。
才能の無い自分と別れた事で、空はより高みを目指す事が出来る。本気でそう思っていた。
それなのに、目の前に居る少女は敦士の事を才能の塊と信じて疑わない。
過去に誤解されてしまうような発言をした事に対し悪気を感じて居た敦士だったが、あまりにもしつこく説いてくるすずめに対し、憤りを感じざるを得なくなってしまうのであった。
「船坂空は貴方とずっとバッテリーを組んでいたかったんじゃないかしら、私が貴方に才能を感じているように、彼もきっと貴方の事を……」
「――才能、才能うるさいな!」
そしてついに感情を爆発させてしまった敦士。
その怒張を浮かばせた表情からは、もはや部を守る責任感や自身の平穏への考えはすっかり抜けていた。
「できることなら俺だってソラちゃんみたいに結果を出したかった、みんなに実力を認めてもらえるぐらい強くなりたかった!」
「でしょうね、貴方の夢は史上最強の捕手だった筈ですもの」
「違う! 俺はただ、ソラちゃんに見合う捕手になりたかっただけなんだ!」
そこに居るのは理想になれなかった自分の幻影を、期待という形で幼馴染に押し付け続け、自らは平穏を取り繕っている偽物の小谷敦士ではない。
船坂空という人物と肩を並べて、共に史上最強を目指していた男。すずめが一番最初に出会った十一歳の頃と同じような、ギラギラと輝いている本当の小谷敦士であった。
本性を現した敦士は先程まで恐怖の対象だった筈のすずめに対し、中学時代に自ら感じていた苦悩を告白し出す。
「……どんなに努力しても努力しても、結果を残せない奴が評価されるのは所詮努力だけ。そんな奴の気持ちがアンタみたいな天才に、……分かる訳がない」
「そうかもしれないわね、けれどそれは船坂空と言う天才に対しても同じ事なのではないかしら?」
「……俺がチーム内外で"自動アウト"って呼ばれるのを気にしてるのも知らないで、ソラちゃんは俺を引きずり出した。そういう意味では、……そうなのかもしれないな」
自動アウト、とはプロ野球の世界でも打力の低い一部の選手が呼ばれている蔑称の事だ。
基本的に打力で期待できない野手の事を指しており、打席に立つと結果的に打てずにアウトが一つ増える事からそう呼ばれる。
敦士よりも打てる捕手は溝浜南ボーイズ内にいくらでもいた。けれど敦士以外の捕手がキャッチャーボックスを守る雰囲気では無かった事で、敦士は打席に入り続けたのだ。
空が他の捕手と組んでいたならば、もしかしたらもっと楽に勝てた試合があったかも知れないだろう。
しかし、そこまでしてまで自分をキャッチャーボックスに立たせる必要があったのか。
船坂空と言う親友を何よりも大切にしてきた敦士は、それを決して相方の前では口にしなかった。
それを目の前にいる少女はハッキリと言い切ってみせる。
「幼馴染の為だとか抜かしてはおりますけれど、要は貴方は逃げたかっただけ。天才に慣れなかった自分が、真の天才の足を引っ張り続ける事への罪悪感からね」
「……否定は、できないな」
何もかもその通りだった。
親友がどこまで高い所を目指せるか見届けたい。そんな想いも結局は、敦士が天才になれなかった事が苦しかったから、それを幼馴染に押し付けていただけの話である。
結局は船坂空という天才に振り回されているのが惨めで仕方なかったから、敦士は誰にも振り回されない楽しい野球を目指したのだろう。
かつて天才と呼ばれる幼馴染の投球を支え、優勝の喜びを分かち合った敦士。
しかし、自分が打たなかった事でチームが敗退していたら。自分のミスで勝てる試合を落としてしまっていたら、敦士自身はどうなっていたのだろうか。
空は敦士の事をどう思うのだろうか、そして敦士は非難の声に耐える事はできたのだろうか。
敦士は考えるのが怖かった。だから尊敬してやまない、何よりも大切な元相棒から逃げる様に、自ら競争野球の世界から身を引いて行ったのだ。
評価される事の無い才能に縋る、天才に振り回されないように、と。
「すまない……、つい、感情的になってしまったな……」
その後、今の今まで誰にも言った事が無い事を口にしてしまった敦士は、その場で大きく息をつき脱力する。
直前にはタイミングよく空から雨が振り出していた。季節は梅雨、いつ天候が悪くなってもおかしくない時期であった。
雨に打たれながら長身の頭を俯かせ、無気力に自分の足元と見つめている敦士。
そしてそれを神妙な面持ちで見つめるすずめ。俯く敦士の後頭部に向け、彼女は優しく問いかける。
「それで、貴方は――。満足する野球ができているのかしら?」
「……さあな、だが皆が正しい道に進めるのなら、それでいいんじゃないか」
確かに、今の野球部は楽しい。
自分本来の実力に見合った高校で、恵まれた環境で野球にのめり込む事が出来ている。
しかし一方、どこか冷め始めている自分が居るのも事実だった。
野球の事ばかりを考えていた自分と、勉学を優先する他の部員達との間に温度差を感じざるを得ずにいる。
確かに実力に見合った環境で、仲間と共に野球をするのは楽しかった。
けれど、現状に満足しているかと訊かれると、敦士は首を縦に振る事は出来なかった。
それでも其々が正しい方向に進んでいるならそれでいい。
平穏主義の敦士は今の現状にとやかく口を出すつもりは無かった。
しかしそんな調子の敦士に対し、今度はすずめが強い口調で問いかける。
「他人の為ならば、貴方は正しい道を突き進めなくても構わないと?」
「どうだろうな、俺は悪くないとは思ってるけれどな……」
すずめの問いかけに対し、明確な答えを出せないでいる敦士。
彼が選んだ楽しい野球を目指すという道は、間違いではないかもしれない。
けれど正しい道とも限らない、考え方はやはり千差万別なのである。
少なくとも、すずめは敦士が溝浜爛漫高校に入った事が、正しい道であるとは思っていなかった。
「ならば私が貴方に正しい道と言うのを示して見せましょう、敦士様が幼馴染にそうなされたように」
「アンタがか、どうやって?」
強く出てきたすずめに対し、先程まで弱みを見せていた敦士は意地を張るかのように形だけ強がって見せた。
するとすずめはいつも通りの笑みを浮かべると、この時を待っていたかのようにその瞳を輝かせる。
そして彼女は、先ほど部室から奪っていった敦士のミットを持ち主の下へと突き出しながら、こう言い放つ。
「勿論、野球対決ですわよ! 敦士様を打ち負かして、言う事を聞かせてやりますわ!」
「やっぱ……、こうなるのか……」
敦士は差し出されたミットを手に取ると、仕方がないと覚悟を決める。
勝負となれば敦士の実力では天才には敵わないかもしれない。
事実すずめに対しては天才のオーラを感じ取っていたのか、敦士は終始凄まじい威圧感に圧されまくっている。
しかし二人は正面から言いたい事は言い合っている。後は野球で彼女とは決着をつけるしかないだろう。
自分の正しい道が云々よりも、ミットを返してもらう云々というよりも、そして野球部の平穏云々よりも、もっと単純に。
すずめと交わしたという遠い過去の約束を守る為、敦士はこの勝負を受けなくてはならなかった。
雨が降りしきる三ツ矢公園内の野球場。
今、史上最強の天才を謳う少女と天才に憧れた少年の戦いが始まるのであった――。